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歯切れが悪いのは仕様です。

『中動態の世界』の言語学的側面に関する雑感/違和感(文献紹介あり)

はじめに

 私は言語学の研究者なのですが,「中動態」というキーワードにひかれて國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読みました。気になった点について簡単に書いておきたいと思います(以下,「本書」と出てきた場合はこの本のことを指します)。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 そもそもこの本は言語学の本じゃないだろうと思う方が多いと思うのですが,その通りで,私がこれから書くことはこの本の内容にとってはそれほど重要ではないのかもしれません。一方で,言語現象をベースにした議論をしているので,この記事の内容がどうでもいいということにはならないのではないかとも思います。この点についてはできればもっと詳しい方の解説を読んでみたいところです。

 構想は以前からあって,できれば言語学の入門にもなる記事を書きたいと思っていたのですが,どうも難しそうなので断片的なもので公開してしまうことにしました。書いている内にただ私がちゃんと読めてないだけのような気がしてきたので,時間に余裕のある方は続きをどうぞ。あと,何回かに分けて書いたので,整合性がとれてない箇所等見つかったら後で修正することもあります。

できれば読んでほしい前書き(この記事の性格)

 まず,これから述べる内容からはおそらくネガティブな印象を受けると思うのでこの本のファンにはおすすめしません。あと,不親切ですがこの本の内容や言語学の用語等に関する詳しい紹介等もほとんどしません。この種の現象の議論をする際に不可欠な言語学の用語「項」「意味役割」等については下記の記事で簡単に紹介したことがあります。

dlit.hatenadiary.com

 また,哲学に関することはほぼ完全に専門外なので取り扱いません。今でも哲学の論文や本を読むには読むのですが,私は哲学の研究のトレーニングをほとんどしていないのでうかつに触れないことにしておきます。

 そうすると,この記事のターゲットというのはかなり狭くて,本書を読んだ,あるいは興味があり,さらに言語学的な関連項目についてももう少し詳しく知りたいというような方なのですよね。言語学にある程度詳しい方にとってはそれほど目新しい内容はないと思います。

 言語学に関する内容についてはそれほど偏った内容ではないと思いますが,この本で中心的に取り上げられているバンヴェニスト等のフランス語文献には私自身ほとんど不案内ですので,いわゆるフランス語学の方からはまた違った見方があるのかもしれません。

そんなに我々は「能動」「受動」の二分法にとらわれているか?

 文法・言語学の概念・用語である「能動態」というのは言ってみれば文のある種のパターンであって(言語学では格の組み合わせにも言及するでしょう),「能動(的/性)」という意味論的カテゴリーと必ずしもきれいに対応しているわけではありません。たとえば,次のようなペアを見てみて下さい。

能動:高い塀が街を囲んでいる
受動:街が高い塀に囲まれている

これは少なくとも言語学では能動/受動の対立として取り扱うと思いますが,この時能動態の方は「行為」とも言えないし,「能動的」とも言いにくそうです。このこと自体はたとえば本書の20-21ページでも触れられていることなのですが,私には本書が「能動態/受動態:能動(的)/受動(的)」という「きれいな対応を持っていると(一般的に?)考えられていること」を前提にしすぎていると感じられます。

 たとえば,

英文法などを通じて学校で教えられるのは,態(ヴォイス)には能動と受動があり,そしてそれしかないということである。(本書:40,傍点を太字にした)

とありますが,本当にそんなに能動/受動の対立が強く刻み込まれているのだろうかというところは気になります。言語学の研究でこれを主張するなら何らかの形での調査が必要になりそうです。

 これが, 「(一部の)文法家や哲学者,あるいはこれまでの哲学の議論ではそうだった」ということであれば,(筆者の研究史に関するまとめ方が正しいとして)納得できます。他の分野,その分野になじみのない人から見て(一見)特定の問題・テーマに興味が集中しすぎているように見えるのはどのような分野でも珍しくないことです。  

「中動態」の定義と範囲と存在

 言語学では「中動態」の定義と範囲は割と人によって捉え方が違って,たとえば『明解言語学辞典』では下記のように意味を重視しています。

【中動態】古代ギリシャ語をはじめ多くの言語に見られる,純粋に意味に基盤を持つヴォイス。(中略)動作主自身が自らの行為の影響を受ける状況を描写する機能を担うのが典型である。(「ヴォイス(態)」『明解言語学辞典』: 18) 

明解言語学辞典

明解言語学辞典

「中動態」の統語的,形態的,意味的側面に関してはKemmer (1993)の第1章がコンパクトで良いまとめかと思います。

The Middle Voice (Typological Studies in Language)

The Middle Voice (Typological Studies in Language)

 一方で,『中動態の世界』ではギリシャ語にあるような形態的対立を持つ文法的なカテゴリーとしての「中動態」のみを「(ほんとうの)中動態」として捉えているようです。Kemmer (1993)に言及している箇所がけっこう重要です。

現代語におけるいくつかの表現が「中動態」と名指されることがある。たとえば,“The book sells well”という英語表現を「中動態」と見なす言語学者がいる。(Kemmer 1993)後に確認するように(第6章),これは中動態が抑圧され,それの担っていた観念が複数の表現へと分割相続されたことへの帰結の一つである。このような表現を中動態と名指すことは,言語の歴史を無視することにつながるので,本書ではそのような言い回しは用いない。(本書:322, 第2章脚注02)

この言及は,このすぐ後に続く

言語は抑圧と不均衡を抱える体系であり,そうした抑圧と不均衡は言語の歴史にフォーカスしない限り説明できないからである。(本書:322, 第2章脚注02)

というところ(+その後)と合わせて本書の言語に対する見方が端的にはっきりと示されていて,なんでこれを本文に入れなかったのだろうかと思います。言語に対しては人によっても研究分野によってもいろいろな見方がありますので,こういう説明が最初の方にあると楽ではないでしょうか。現代語において中動態であるとされることのある現象,再帰動詞や代名動詞は本書174ページ,英語の中間構文については本書194ページでも簡単に言及されてはいます。

 ただ,ちょっと気になるのはバンヴェニストの研究を高く評価していることとの整合性です。能動態/中動態の対立にとって重要なのは「(主語が)過程の外にあるか内にあるか」だという特徴はかなり意味論的だと思うので,むしろ様々な言語の様々な構文や言語現象に適用されて良いような気がします。

 関連することで,一応,「行為や出来事を表す動詞」という表現は用いられてはいますが,だいたい「行為者」が存在するようなイベントにしか言及されていない点も気になります。おそらく「能動/受動」の対立を批判するという目的があるからなのでしょうが,バンヴェニストが用いている「過程」という概念はおそらく「行為」に限定されなければならないものでもないと思うのです。これも私がよく分かっていないだけなのか…

言語変化

 上でも触れたように,本書の言語変化に対する見方も私にとっては違和感があります。引用で示すと下記のような箇所でしょうか。

中動態は一部の学者が神秘化したような特別なものではない。それはむしろ,われわれの身の回りにあるありふれた事態を記述するのに便利なカテゴリーである。では,そのような便利なものがどうして姿を消していったのだろうか? どうして能動と受動を対立させる不便で不正確な言語が前景化していったのだろうか?(本書:164)

あと,「抑圧」についてたびたび出てきますが,下記の箇所など。

中動態はあるときから抑圧された。能動態と受動態を対立させるパースペクティヴこそが,この抑圧の体制である。(本書:195)

言語学の研究成果から見ると,「便利なカテゴリー」あるいは「重要なカテゴリー(や区別)」であっても,消滅してしまうことはそんなに珍しいことではないと思います。逆に言うと,ある言語現象が残っているからといってそれが即「便利/重要だったから」ということも簡単には言えないでしょう。

 中動態に関する言語変化の要因として「抑圧」が重視されているようですが,言語変化にはほんとうに様々な要因が関わりますのでこれもなかなか簡単には言えないです。もちろん仮説として可能性はあるかもしれませんが…この「抑圧」がいわゆる言語内的なものなのか言語外的なものなのかも判然としませんでした。書きぶりからすると後者のような印象があるのですが,そもそもそういう区別自体認めないかもしれません。

 上で述べた「中動態の範囲を狭く取っていること」と合わせると,たしかに「中動態が抑圧によって消失した」という結論が導き出されるのかもしれませんが,あくまで筆者の言語観等を前提とするとそうなるということであって,言語学の研究としてやるなら証拠や根拠をもっと出さなければならないところだと思います。

文法は誰のもの?

 前述の言語変化とも関わる話でもあります。文法用語史を丁寧に見てその時代の人の言語への向き合い方を考えるやり方は面白いのですが,その時代の文法家がそのような見方(たとえば能動と受動の対立)をしていたとは言えても,言語の使用者,特に第一言語(いわゆる母語)話者が一般的にそのような見方を持っていたとは言えないのではないかと思います。中動態に関することについてもそうですが,たとえば,下記のような「イメージ」はいったい誰が持っているのでしょうか。

「私」(一人称)が,「あなた」(二人称)へと向かい,さらにそこから,不在の者(三人称)へと広がっていくというイメージはこの名称がもたらした誤解である。(本書:171)

細江の研究と日本語の扱い

 上述のように中動態の範囲を狭く限定するのであれば,細江逸記による先行研究が存在するということとは別に,日本語の「ゆ/る/らる」を中動態として取り扱うための根拠がほしいところです。ちなみに,学校文法では「助動詞」とされるこれらの形態も,日本語研究では他のモダリティ関係の「助動詞」に比べれば屈折変化のように取り扱われることも多いので,可能性は十分あります。形態論的に言えば,分析的 (analytic)なパターンであったとしても形態的な対立に含めて考えることができますけどね。

 余談ですが,細江論文で中動態が「中相」となっているのは,現在言語研究ではほぼ定訳となった「(文法の)Voice:態」「Aspect:相」訳語という訳語の対応がかつて逆(!)だったことがあったからなのですね。なので,古い研究や研究史を扱っている研究ではアスペクトの一種である「進行相」の代わりに「進行態」が使われていたりします。こういうのって論文を探すときに知らないと意外な盲点になったりして厄介です。そういえば最初に一応カッコ書きで書いておきましたが,現在は日本語文献でも「態」ではなく「ヴォイス」が使われることが多いと思います。

 「られる」の研究については下記でも1つ文献を紹介しています。

「態」の多様さ

 そもそも日本語研究をやっていると,「可能」が態の研究で登場しますし(「水 が/を 飲める」という格交替があるから),そもそも使役も態の一種ですし,ちょっと専門的な言語学の論文を読むと適用態 (applicative)が出てくることがあります。また,言語学の入門書や授業では能格言語と逆受動 (antipassive)の話が出てきますね。文献紹介でも触れていますが,日本語の逆使役 (anticausative)もさいきんいろいろ研究が進んでいます。

 言語学/日本語学の研究に触れていると「態が多様である」というのが当たり前過ぎて,『中動態の世界』で取り上げられている「能動態/受動態の二分という呪縛」というのが実感できないのが,もやもやする原因の1つなのかもしれません。

言語学への言及は断片的では

 専門外の分野についてこれだけ文献を読み自身の議論に取り込んでいるという点はほんとうにすごいと思いますが,私から見ると現代の研究はあまり広く参照されていないと感じてしまいます。上で述べたようにKemmer (1993)には脚注で一応言及されていますが,態や「責任」の話ということだとLangackerは?とかいろいろ思い浮かぶものがあります。

 概念・研究テーマとしてはおそらく重要な関わりがあるだろうと思われる「他動性 (transitivity)」に言及がないのも不思議ですね。これについては下で1つ文献を紹介します。

態と意志性に関するその他の現象

 日本語で能動態でありながら「誰がやったのか」が問題なる現象としては,状態変化主体の他動詞文(例:私たちは,空襲で家財道具を焼いた:「私たち」は行為者ではなく被害者)や介在性構文(例:私は,昨日髪を切った:美容師に切ってもらっていても「私が切った」と言える)などが知られています。「先生に英語を教わった」などが語彙的な受動文であるというような研究・指摘もありますね。

 そもそも日本語にはいわゆる自動詞をベースにすることもできる「間接受動文」がありますし,言語現象を詳しく見ていくと,態,意志性,行為の主体,の関係は本当に多様です。これに他言語も絡むと…という話にわくわくする人はぜひ言語学の世界へどうぞ。

おすすめ文献(かなり専門的)

 今回のテーマだと入門書というのはちょっと厳しいのでむしろ専門的な文献を2つばかり。

 角田三枝・佐々木冠・塩谷亨(編) (2007)『他動性の通言語的研究』

他動性の通言語的研究

他動性の通言語的研究

他動性に関する様々な言語と現象の記述・研究についてそれぞれの専門家が書いています。特に他動性に関する関連概念を整理しているパルデシ・プラシャント「他動性の解剖」は「意図性,意志性 (volitionality)」や「有責任性 (responsibility)」といった言語学における概念が他動性や態を考える上でどのように位置づけられるのかについて良いガイドになるでしょう。また,北海道方言として有名な「書かさる」「押ささる」等の逆使役について論じた佐々木冠「北海道方言における形態的逆使役の成立条件」に興味のある方もけっこういるのではないでしょうか。

 川村大 (2012)『ラル形述語文の研究』

ラル形述語文の研究

ラル形述語文の研究

日本語のラレルが関わる言語現象に関する研究書です。古典語も現代語も対象で,受動だけでなく可能,自発,尊敬も取り扱っています。かなり詳細な先行研究の検討と整理が行われているのが特徴的で,こういう文献の存在は本当にありがたいですね。『中動態の世界』でも言及がある細江逸記の「中相」説にも言及がありますが,他の文献とまとめて扱われており,細江の論だけを具体的に取り上げて論じているところはありません。

おわりに

 ほかにも,言語の言語の起源や言語変化,形態論について書けることがあるような気もしますが,力尽きましたので今回はこの辺りで終わりにします。この記事だけだとなんか難癖ばかり付けているようにも読めますが(実際読んでいる時はけっこうもやもやしたのですが),勉強になったこともいろいろありました。

付記

 このブログを以前から読んでくれている方には感じられているかもしれませんが,私は哲学の分野・研究にも興味があります。もともと興味を持ったのは言語学より早く,今では生成文法が専門なのですがChomskyより先にQuineの本を読みましたし,Davidsonもイベントに関するものよりいわゆる経験主義の第3のドグマに関するものを先に読んでいたりします。最初の方にも書きましたが,今でも哲学の論文や本を読むこともあります(今では取れる時間はめっきり少なくなってしまいましたが)。

 ただやはり本業は言語学なので,哲学の論文や本を読んでいて「○○という言い方をする/言語的特徴があるので,△△と考えられる」というタイプの議論が出てくると,「そうじゃない言語/現象もあるんだけどどう考えるんだろう…」というように思ってしまうこともあります。すでにいろいろ研究や試みはあるのかもしれませんが,言語学の「専門的なレベル」での研究成果が,哲学的に見てもおもしろい帰結をもたらすというようなことがあると,2つの分野が好きな研究者としては嬉しいのですけれども。

関連エントリ

 下記の記事で紹介しているWALS Onlineを使うと,かなり手軽に世界の言語がどのような特徴を持っているかざっと調べることができます。中動態に関する項目はないようですが,"passive"で調べると受動態を持たない言語の方が多いというデータを見ることができます。

dlit.hatenadiary.com

メールによるレポート提出に関する体験と雑感

これまで,自分の授業では紙媒体をレポートボックスに提出,メールに添付,学習管理システム(LMS: Learning Management System)で提出,のすべてを試したことがありますが,今はLMSの提出に統一しています。LMSは今のところに着任した時はmoodleだったのですがすぐにmanabaに切り替わりました(せっかくいろいろ覚えたのに…)。

news.yahoo.co.jp

さいきんゼミの連絡をLINEに移行したという話は前に書きました。今のところ快適です。特に人数多いと便利ですね。

dlit.hatenadiary.com

さて,LMSによる提出が紙媒体による提出よりもメール添付よりも提出の事故やトラブルとそれに関する対応が最も少なくて済むというのが私の体感です。

メール添付提出だと,締切間際や直後に「突然パソコンがおかしくなった」「突然ネットがつながらなくなった」「パソコンに飲みものをこぼしてしまった」ので,提出が遅れる/遅れたという連絡がけっこう来ました(いずれも本当に複数もらったことのある内容です)。こういう事態にどれぐらい厳しく対応するのかというのは教員によると思うのですが,どうするにせよ,考えて対応しなければならないという点でかなりの時間と手間が取られるのですよね。

その点,LMSはそういう「言い訳」的なことは一切考慮してくれません。今でもそういう連絡は来るには来ますが,メール添付提出の頃よりは明らかに減りました。

あと,LMS提出だとメールアドレスの打ち間違いや学生からのメールがスパム判定されるというトラブルもないですね(これもどちらも実際に何回かあったもの)。提出が学生のアカウントと紐付いているので,こちらも課題の管理が楽です。以前同クラス(必修の授業)に同姓同名で漢字もまったく同じ受講生がいたことがありましてね…さすがにこれは過去1回だけですがクラス分けでもうちょっと考慮してほしかった。

ちなみに紙媒体でレポートボックス提出だと,他の授業のレポートが間違って提出されるというというような事故があります。

LMSを使い始めて気付いた特有の事故としては,他の授業の課題のファイルを間違ってアップロードしてしまうというものがありますね。学生の皆さんはお気を付けて。

追記(2019/07/11)

こういうことを書くとLMS一択じゃん,と思われるかもしれませんが,非常勤講師だとLMSを使えないというようなこともあるので,個々の事情を見ないで「なんで使わないのか」ということは簡単には言えないと思います。さいきんの流れだと非常勤講師も使えるようにしているところがほとんどではないかと思いますが。

野球の記事で使われていたラグビー由来の表現「ノーサイド」

ちょっと前に,ある分野で使われている表現の意味・用法が一般的に拡張される現象について少し書きました。

dlit.hatenadiary.com

球技で用いられる表現由来のものとしては圧倒的に野球が多いという印象だったのですが(他だと,たとえばサッカー由来の「イエローカード」とか?),ラグビー由来の「ノーサイド」について,次の実例が気になったので記録しておきます。

竹中事務局長は(中略)「私からは、生徒を思う気持ちがあっての行為だったと一定の理解はしているけれどあの場はゲームセットでノーサイドとなっているところ。ああいう行動は取らないでほしいし、反省してくださいと伝えた」と説明した。
星稜・林監督の“サイン盗み抗議” 謝罪受けた高野連側は追加処分なしの方針(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

「試合が終われば敵味方の区別・対立がなくなる」というところから,「水に流す」的な意味で使われる例はそれほど珍しいものではないと思うのですが(詳しくは未調査),野球の競技の話で出てくるのがちょっと面白いなと思いまして。

でもこの用法,BCCWJでも1件しか見つからず,しかもモータースポーツに関する文章に出てきているようなので,むしろラグビー以外だとその他のスポーツの話で使われやすいのかもしれませんね。

ちなみに,国語辞典の記述が気になってアプリ版の日国,大辞林,新明解,明鏡で引いてみたのですが,ほとんどが「ラグビーにおける試合終了」のような非常に簡潔な記述で用例もなく,日国と新明解だけ「敵味方の区別がないという意味」のような補足があるだけでした。

赤とんぼとかうなぎとか(言語学の話)

 いわゆる「赤とんぼ」の絶滅の危険性に関する記事を見る度に書こうと思いつつ,いつも通りなかなか手が付けられなかったのでごく簡単に。

webronza.asahi.com

言語学と生き物の名前

 言語学では,ある言語現象を指す際に生き物の名前が使われることがあります。

 日本語だと「うなぎ文」と呼ばれるものがありまして,うなぎの絶滅関係のニュースが出ると詳しい人が「うなぎ文の説明をする前にうなぎ自体の説明をしなきゃいけない時代が来るのか」みたいなことを言っているのを見かけたことがある方もいるかもしれません。英語だと「ロバ文 (donkey sentence)」辺りが有名ですかね。

赤とんぼとアクセント

 さて,「赤とんぼ文」といった用語や現象があるわけではないのですが,「赤とんぼ」という名前を聞くとアクセント研究のことが思い浮かびます。

 童謡「赤とんぼ」の冒頭部分の「赤とんぼ」のメロディーがかつての東京方言のアクセント(頭高型)を反映して最初の「あ」が高いパターンになっているという話を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。検索してみたらWikipediaでも言及されていました。

ja.wikipedia.org

 私は音声・音韻はあまり詳しくないのでこの辺りの文献をいろいろ読んでいるわけではないのですが,以前の東京方言で5拍名詞に頭高型が多く「赤とんぼ」もそうだったこと,「赤とんぼ」がその調査語彙に含まれていることは事実です。たとえば,下記で紹介されている複数の調査でも実際に「赤とんぼ」が出てきています。

東京弁アクセントの変容

東京弁アクセントの変容

 ちなみに,いわゆる『アクセント辞典』の「アカトンボ」の項目では「(伝統 ア]カトンボ)」という頭高型に関する補足がありますが,

NHK日本語発音アクセント辞典 新版

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2016年に刊行された『アクセント新辞典』の方ではその記述はなく,中高型(アカト]ンボ)のみが記載されています。

NHK日本語発音アクセント新辞典

NHK日本語発音アクセント新辞典

うなぎ文

 うなぎ文については妙に日本語特殊論に引きつけた言及がされることがあるので,何か少し解説でもと思っているうちにこれまたなかなか手が付けられずにいます。

 ある程度専門的に考えたい人は,ぜひ研究の出発点の1つである

「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ

「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ

を読んでみて下さい。記述や分析に初期の生成文法が用いられているのでとっつきにくいかもしれませんが,実はこの時点でかなり詳細な記述がなされています(日本語の研究者でさえ,この本自体は読んでないのではないかという人をたまに見かけます)。

 また,他の言語でも似たような現象はありそうだという点についても第2増補版では触れられています。この後いろいろ別の研究も出ていると思いますが,この本では英語,ドイツ語,フランス語,ポルトガル語,韓国語,中国語での可能性とさまざまな実例が紹介されています。

生き物の名前と言語学

 話を最初のポイントに戻すと,月並みな言い方ですが,言語学の話をするときに「○○という生き物が昔はいてね…」みたいな前置きはできるだけしたくないですね。

 ほかに似たような組み合わせは,と考えてみたところ「人魚構文」と「ジュゴン」というのを思いついたのですが,ちょっと強引すぎるでしょうか。

2018年度を振り返って

 2018年度は,3つの招待発表(関西言語学会,Morphology and Lexicon Forum,筑波大学応用言語学研究会)と日本英語学会シンポジウムでの発表があり,久しぶりにけっこう人前に顔を出したような気がします。あと久しぶりに海外での発表(Workshop on Altaic Formal Linguistics)もありました。これまで担当してきた中では一番自身の専門に近い「形態論特講」という博士課程の授業を担当するようにもなって,やってきたことを挙げてみると意外と研究に関することが多くてむしろ驚きがあります。

 その割にはあまり研究ができたという実感はなく,保育園のお迎えまでの時間とか,こどもが寝付いてから自分が寝落ちするまでとか,そういう安定していない時間をかきあつめてなんとか形にしたという感じです。

 体感的には,2018年度は新カリキュラムへの移行に関する様々な業務および調整と,学内学会の業務に追われていた印象しかありません。詳細はあまり思い出したくないので書かないことにしますが,2019年度以降もしばらくこの状況は続くでしょう。

 研究費がなかったのもけっこう厳しかったです。2018年度は科研費が1つもなく,いわゆる個人研究費は追加配分を合わせても15万円に届きませんでした。これは着任後一番低い額です。

 新しい年度に関する希望や楽しみは特にありません。防ぎきれない事故や事件,トラブル等ができるだけ少ないように祈るばかりです。