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歯切れが悪いのは仕様です。

プレゼン能力(に関わるかもしれない何か)を入試で問うことに意味はあるか

私は大学教員でこの種の問題については利害関係者ですし,言語教育には少し関わっていますが評価法が専門ではありませんので,その辺り差し引いてお読み下さい。

下記のツイートが話題になっていて,どのような問題があるかについてはいろいろ指摘されていると思うので,関連で私がさいきん考えていることについて少し書いておきます。

まず,一般的に言う「プレゼンテーション(以下プレゼン)能力」をある程度正当に評価するには,実際にプレゼンをしてもらうしかないと思います。それを踏まえて,私が「プレゼン能力」を入試で重視することに懐疑的な理由を少し挙げてみます。

どういうプレゼン能力を求めるのか

ライティング等,言語を使う能力一般にそういう側面があると思いますが,一口にプレゼン能力と言っても,目的,時間,やり方(スライドを使うかどうかとか),聴衆のタイプや数によって必要なやり方は変わってきます。紙を使った発表については少し書いたことがあります。

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さいきん,「さまざまな場面に応用可能なライティングやプレゼンの能力は,特定の領域における経験や長いトレーニングを経て身に付くかなり高度な能力ではないか」ということをよく考えます。

これに対して,特に言語能力の教育に携わったことがない人は何か「汎用的なライティング/プレゼン能力」のようなものがあってそれをより専門的な場面に応用すると考えているのではと思わされることがそこそこあるのですが,それを比較的短期間で多くの人が身につけられる能力だと考えるのは危険ではないでしょうか。

ある程度「基礎的」と言えそうな,あるいは広く応用可能な技術や知識はあると思いますが,特にプレゼンに関しては経験とトレーニング量が重要だと思いますので,もし入試に組み込むと「入試におけるプレゼン能力が高い人」を計るだけになってしまいそうです。もちろんテストというものは一般的にある程度特化されてしまう側面があるのですが,プレゼンに関しては特化することによって身につける技術や知識にどれだけメリットがあるのか疑問です。

一方で,上に書いたようなさまざまな場面/条件下で発揮できる高いプレゼン能力を持った人は高く評価されて良いと思いますが,そうすると今度は評価する側の問題が気になります。もし大学教員がやるという話になると,そういう能力を正当に評価するのは難しく,学術研究で高く評価され(てい)るプレゼンに近いものが「良いプレゼン」として評価されてしまうのではないでしょうか。

大学なのでそれで良いんだという考えもあるかもしれませんが,(大学に入って)研究の基礎の基礎をやる前に成果発表の方法の一形態のスキルを身につけるために多くの時間を割くというのは変な気がします。

だいいち,これは定期的に書いていることですが,今の大学生は入学時点でスライドとかポスター作るのも,話すのもけっこう上手い人が多いですよ(少なくとも私が学部生だった時代に比べると)。場合によっては小学生の頃からやらされますからね。大学教員・研究者は人によってかなり差がありますが,学内や学会で聞く教職員のプレゼンの方が学生よりひどいと感じることは珍しくありません。一方,学生に話を聞くとプレゼンが苦手だと感じている人がものすごく多いのですが,それは小さい頃から「プレゼンができないとダメだ」とおどされてきたからだと思います。

プレゼンについてだけで意外と長くなってしまったので,この記事はこれぐらいにして,その他のことについてはまた改めて書くことにします。

そのうち来る,沖縄の基地や歴史のことを我が子に(くわしく)話すとき

私自身の基地に関する思い出を以前書いたことがありますので,よろしければこちらも合わせてどうぞ。

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我が子(3歳児)は東京生まれ東京育ちなのですが,私が沖縄(沖縄市)出身なので,年に1回は沖縄に行きます。

東京ではなかなかしないこともいろいろできるので,もう2歳児の頃からなかなか楽しんでいるようでしたが,今回,私の実家の上空を米軍機が通ったときに我が子が言った「かみなり?」という一言にはっとしました。

恐がったというよりは突然でびっくりしたという様子で,その場では「飛行機だよ」とだけ返して終わりました。でも,そのうち沖縄の基地や歴史のことを話す日が来るんだな,と。

「そんなの今まで考えなかったの」と思われるかもしれませんが,今までは小さいこどもと飛行機やバス・車で長時間移動して自宅とは違うところに数日間泊まる,という課題をいかに安全に問題なくこなすかに必死だったので…

こどもがはじめて自分で行きたいと言って行った,美しい海で小さい波とたたかっている頭上も米軍機は通っていきましたし(あまり音がしなかったのと必死だったので気付かなかった模様),美ら海水族館に行く途中で辺野古関係の座り込みを車中から見かけたりもしました。私の父がやっている畑に行く途中も米軍の敷地のそばを走ります。新しい施設について話す大人達の会話に出てくる「ここは返還された土地で…」という意味もそのうち分かるようになるでしょう。

もちろん沖縄にもいろいろな土地があるのですが,やはり基地は思わぬところにも顔を出すのですね。そのうち屋根に乗っているシーサーとかあちこちにある石敢當とかの存在に気付くようになっていくでしょうけれど,そういう沖縄戦と基地に関するものにも気付くことがあるかもしれません。

私の父はアメリカ統治下時代や方言札を直接経験していますので,もしそういうことについて話を聞くことがあれば,こどもにとって良い体験ではないかと思います。

私自身は,沖縄のことについては下記の記事に書いたように今住んでいる人たちの意志を尊重したいと考えているのですが,こういう話すことについてはもう少し気軽にやってもいいのかと考えるきっかけになりました。こどもには,いろいろな地域や文化やことばがあるということは沖縄に限らずできればいろいろな形で体験してほしいです。

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大学の授業に「もぐる」こと

下記の記事で紹介されている事例だが,その大学のシステムだけでなく,個別の授業で採用されている方法といったかなり細かいことまで調べないと,なんとも評価はできないと思う。

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この記事への反応としていくつか見られる「大学による」ということなのだが,こういう「○○による」という話はくどいぐらいにはっきり(そして具体的に)言い続ける方が良いと思うので簡単に書いておく。

まず大学によるという話で言うと,私の勤務先の総合大学(の私が知っている範囲)では,上記の記事で紹介されているような厳しい出席管理はされていない(そもそも教室にカードリーダーがない)。少なくとも大学や学部レベルでそのような要請や推奨はない。特に確認はしないが,私の講義の授業にも,たまに「モグリ」の学生はいるようである。

次に授業によるという話。たとえば私の授業に関して言うと,専門の講義の授業であれば問題はないが,演習の授業だと受講生の発表のハンドアウトが足りないというような問題が起こるかもしれない。あとコンピュータや実験機器を使うような授業,フィールドワークやインタビューの実習の授業で予定されていない受講生が増えると安全面等いろいろな面で問題があるだろう。

最後に,教員によるという話がある。大学や組織,授業の性質にもよるが,大学の授業の運営方法はかなり担当教員による裁量が大きい。以前非常勤で行っていた大学で教室にカードリーダーが設置されているところがあって,試しに出席を取るのに使ってみたことがある。実感したのは代返が簡単にできてしまうシステムではないかということだったが,あれを厳しく運用すれば,今回話題になっている授業のようなことができただろう。ただ,カードリーダーによる管理というところがインパクトがあったのかもしれないが,そうでなくても授業に知らない受講生が入り込んでいたら注意する教員は昔も今もいるのではないか。それは授業内容に理由があるかもしれないし,教員のポリシーや好みによるかもしれない。

この話に出てきている大学や授業(の仕組み)の良し悪しに評価を下す前に,こういうことについても考えてもらえると,大学関係者としては嬉しい。

授業を担当する側としては,ある程度継続的に参加したいなら,聴講であっても事前に言ってもらえると助かるなと思う。聴講生がいることが分かっていると,(同じ大学に在籍していれば)履修していなくてもLMS(学習管理システム)に登録することで授業の資料が簡単に配付できたり,教室変更や休講の連絡がしやすくなったりする。はっきり聞いてしまうと断られるんじゃないかという不安とか,そもそもめんどくさいという気持ちもよくわかるんだけどね。

そういえば,さいきんはLMSで授業の資料が配付されることが多いと思うのだが,紙の資料を配付する方法と比べて「もぐる」のが難しくなってしまっているのではないだろうか。

追記

書き忘れていた。上記の記事への反応として,「自分で勉強しろ」というのが複数あったのが少し気になった。確かに,大学で学ぶ内容には人にもよるが独学でかなりの程度いけるものもあり,良い大学であればそのための環境もかなり整備されている(余談だが,さいきんは大学図書館で学習や研究の総合的なサポーターとしての役割・機能に力を入れているところもあるので,いろいろ相談してみると良い)。自分で学ぶ姿勢が重要というのもその通りである。一方で,独学では容易にたどり着けないような話や世界に(不意に)接することができるのが授業の良いところでもある。また,自身である程度学んでから授業に臨むとそれ以前とは違ったレベルで理解が進むというようなことがある。在籍している人は授業や教員と独学できる環境のどちらもうまく使ってほしい。