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「を」の音は「お」の音と違うか(基本的には同じだけど…)

はじめに

定期的に話題になっているのを見かける,仮名「を」によって表記される音は仮名「お」によって表記される音と同じなのか違うのかということについての基本的なことがらを簡潔にまとめておきます。どちらかというと概説書や資料にある記述を引用で紹介するという形の記事です。

そこまで詳細な説明はしませんし,概略だけで良いという方は,だいたい以下のような話であるということだけでも知っておいてもらえると日本語学に関わる者としては嬉しいです。

  1. 現代日本語の共通語(標準語)では「を」によって表記される音と「お」によって表記される音は同じ(表記が違うから違う音を使うべきという話にはならない)
  2. 昔は「を」の音(wo)と「お」の音(o)は区別されていたが一旦woに合流しその後まとめてoの音になった
  3. 方言によっては助詞「を」にwoの音を使い「お」の音(o)と区別するものもある
  4. 現代共通語でも外来語などにはwoの音が現れる(woの音そのものがないというわけではない)

私は音韻史や方言の音韻・音声研究が専門ではないので,現在の最先端の研究成果や動向は反映できていませんし,選んだ文献が適切かどうかにもやや自信がありません(そもそもほぼ在宅勤務で家に持ち帰った文献のみ調べています)。日本語学専攻の学部生がレポート用にちょっとがんばって調べた結果をまとめた,ぐらいに思ってください。また,これも説明が難しくちゃんとやると長くなるので「日本語」の指す範囲って何(「共通語」と「標準語」の違いは?),とか音韻と音声の関係など,重要であるにも関わらず細部をぼかしているところがいくつかあります。

Twitterではガチ専門家による言及もあるようなのですが,こういう形でまとめてあるのも良いかと思いましたので書いてみました。

現代共通語では「を」の音と「お」の音は同じ(かなり昔は違った)

日本語学習者用の教科書では明確に書いてあると思うのですが,現代日本語の共通語(いわゆる「標準語」)では,「を」によって表記される音は「お」によって表記される音と同じです。私自身はこの話を学部1年生の時に受講していた「日本語教育概論」の授業ではじめて知りました。

また,それに加えて「地域によっては違う音になっているところもある」という話があり,その中に沖縄も含まれていることに驚きました。その後日本語が第1言語でない方から時々「を」の音が違うと言われることがありますので,私も該当する話者のようです。言われるまでまったく気付きませんでした。まあ「方言」にはよくあることです(いわゆる「気付かない」方言とか)。

これは,日本語学では基礎的な話の1つで,日本語学概論のような各トピックにあまり時間を割けないような授業でも出てくる可能性はけっこうあるでしょうし,日本語史関係の授業があるならだいたい言及されるでしょう。私が学部生の時に受講した日本語史の授業でも出てきたと記憶しています。

沖森卓也編 (1989)『日本語史』(おうふう,Amazonに取り扱いがないっぽい…)から関連する言及を少し抜き出します(もっと良い概説書があるというご指摘待っています)。まとめると,昔は「を」の音(wo)と「お」の音(o)は区別があったが一旦woの音に合流し,その後まとめてoの音になったという流れです。しかも下記の引用を見てもらえれば分かる通り,それぞれかなり昔のできごとで,基本的に若者言葉の影響がどうこうの話ではありません。

オ[o]とヲ[wo]では,そもそも頭音法則によって,オは語頭以外に立ちませんから,語頭の混同例が多くなる11世紀初頭に統合したと見られます。(p.69)
キリシタン資料ではエ段・オ段の母音だけの音節は「ye」,「wo, uo」で記されていて,17世紀初頭までそれぞれ[je] [wo]であったことがわかります。(p.72)
エ[je]・オ[wo]が今日と同じ[e]・[o]となったのは18世紀中頃かと言われています。(p.75)
(いずれも沖森編 (1989)より)

もっと詳しく内容が知りたい方は,基本的な日本語史の概説書にけっこう詳しい話が載っています。この引用部では省いただけで,この本にも根拠になった資料などけっこう詳しく言及されています。ちょっと注意が必要かなと思うのは,もし研究史を知りたくて国語学史の文献に当たる場合は,「音韻」だけでなく「文字」「表記」関係も見ると良いです。上記の引用のキリシタン資料に関する記述でカンの良い方は分かるかと思いますが,音に関する事実は表記を手がかりに研究することが多いのです。実際,馬淵・出雲 (1999)『国語学史』では「国語音韻の研究」の章ではなく「仮名遣研究」の章に関連する言及がありました。

国語学史―日本人の言語研究の歴史

国語学史―日本人の言語研究の歴史

現代共通語にwoの音はない?(ある)

さて,では現代共通語に(oとは違う)woのような音はないのでしょうか。和語に限定すると議論があるかと思うのですが,オノマトペや外来語まで含めると現代共通語にもwoの音はあると言えそうです。woの音声に関する記述としてもちょうど良いので斎藤 (1997)『日本語音声学入門』から関連箇所を紹介します。斎藤 (1997)はワ行音の子音を[ɰ](軟口蓋接近音)としていますが,「単に[w](dlit注:両唇軟口蓋接近音)とする場合が多い」とも述べています(p.92)。

日本語音声学入門

日本語音声学入門

最近の外来語(をもとに作った語)では,キーウィー,ウェールズ,ウォークマンのように[ɰi] [ɰe] [ɰo]の連続が現れるが,古くからある外来語では,原語の[wi] [we]などの部分を2つに分けて[ɯ.i] [ɯ.e]などとして取り入れた。例 ウイスキー,ウインドー,ウエスタン
(斎藤 (1997): 93)

「ウォークマン」は良い例だと思います。これは「オークマン」と表記される音と同じ音ではなく,その音の違いによって語や意味が違うということが分かるでしょう(つまり音韻として現代共通語にも/o/と/wo/の対立がある)。

大学から持ち帰るのを忘れて引用が紹介できないのですが,Vance, Timothy (2008) The Sounds of Japanese ではwoの音が現れる例としてオノマトペが挙げられていました。オノマトペを語種としてどのように位置付けるかには議論がありますが,外来語やオノマトペも含めた現代共通語全体として見るとwoのような音はあると言えるでしょう。これは最初に紹介した「を」によって表される音はwoのような音ではないという話と両立します。

こういうことはほかにもあります。たとえば,「ハ行音」がかつて両唇音だった(今のパ行やファ行の音)という話はどこかで聞いたことがある人も多いと思いますが,ファ行の音は今は外来語によく現れます。

方言では区別がある?(ある,けど範囲が分かりにくい)

ここまで紹介してきたような話に対して,webでは「え,区別あるでしょ」という反応がよく見られます。最初に書いた授業の体験談でも触れましたが,方言か,方言による影響で「を」の音が「お」の音と異なることはあります。「方言の影響」というのは,各地域で用いられている「共通語(標準語)」への影響ということです。一口に「共通語(標準語)」と言っても,実際には地域などの条件によって部分的に異なっていることがあります。

「方言に影響された各地域の共通語」について調べるのは難しかったので,方言の音について調べてみました。…が,これを調べるのが意外と大変でした。「方言の「を」がwoの音になっていることがある」というのは良く言われるので概説書にも記述が何かしらあるだろうと思ったのですが,言及自体あまり見つからなかったのです。以前このブログでも取り上げた大西拓一郎 (2008)『現代方言の世界』や国書刊行会の『講座方言学』シリーズの各巻等見てみたのですが,方言の音韻で言及があるのは合拗音(「くゎ」みたいな音)とかいわゆる「四つ仮名」関係,ガ行子音(いわゆる鼻濁音)などなんですね。優先度を考えると納得ですし,本文を詳細に調べたわけではないので目次や索引で辿れないようなところに言及があるのかもしれないのですが,もう少し専門的な文献を当たる必要がありそうです。

@kzhr さんに教えていただいた(ありがとうございます!)『日本方言大辞典』の資料「音韻総覧」の「オ」の項目に関連する記述がありましたので簡単に紹介します。

熊本県<特に非語頭に顕著>[wo](を<助詞>)
茨城県水戸市付近<助詞「を」に限り>
東京都三宅島坪田<少数の例に>…[wo](を<助詞>)
(『日本方言大辞典』「音韻総覧」: 13)

ここでは明確に「助詞「を」が[wo]で発音される」と言及があるもののみ引用しましたが,他にも特に九州の様々な地域が<非語頭に顕著>として挙げられていて,ここに挙がっている地域以外でも「を」の音がwoのようになっていて不思議ではありません。実はwebでも「九州では音が違う」という言及をよく見かける気がするので九州方言を優先して見てみたのですがそれとも合います。ちなみに,これらの多くの地域では「青[awo]」のように助詞以外でもwoの音が現れます。また,可能性としてはこのような方言の影響を受けて,その地域で用いられている「共通語(標準語)」の「を」の音がwoのようになっているなんてこともあるかもしれません(助詞は「非語頭」ですから)。

(国語)教育

私が気になっているのは教育関係で,現代共通語の話として「「を」は(「お」と違って)woのように発音すること」と教えるのは少なくとも事実とは合いません

しかし,木部暢子他編 (2014)『方言学入門』の「学校方言」の話題で取り上げられている調査結果を見るところ,そういう教育もありそうだなという気がしてきます(「うぉと言う」という音に関連するような名称の調査結果項目があったり)。

方言学入門

方言学入門

  • 発売日: 2013/08/21
  • メディア: 単行本

全国的に用いられているのは「わ行のオ」「わをんのオ」「くっつきのオ」などですが,「重たいオ」(北関東),「難しい方のオ」(関西)のような広域の地域限定の呼称や,「腰曲がりのオ」(青森),「かぎのオ」(秋田),「小さいオ」(富山)のような県単位の地域限定の呼称もあります。
(木部他編 (2014): 96)

国語教育研究の方で研究や調査があると良いなと思っていたら,実際に文献を教えていただきました(こちらもありがとうございます!)。もし本当に学校,あるいは特定の教員が「「を」は(「お」と表記が違うので)woのように発音する」と教えているという事実があるのでしたら,それは学校や教育という制度を通して事実とは異なる規範化を行っているということであり,私はよろしくないことであると考えています。

一方,webの声を見ているとどうも合唱などでは「を」を「お」と違うように発音するという技術もあるようです。歌や朗読,演劇,ニュース等,専門の(発)音が必要な場合にそのような技術が存在し,また指導がなされるというのは納得できます。ただ,これは文献などを調べたわけでもなく私自身も体験者ではないので確たることは言えません,

おわりに

このような話題は,定期的に気軽にわいわい色々語り合うのが楽しいのかもしれないのですが,事実や実態,あるいはどのように研究されているかを知りたいという方は,そこまで調べるのは難しくありませんので上で紹介した辺りから見てみることをおすすめします。専門の論文を読むと,私が紹介した話とは違う展開がもう進んでいるなんてこともあるかもしれません。

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MLF 2020でちょっと出てた分散形態論のRootの話

はじめに

MLF (Morphology and Lexicon Forum) 2020に参加して下さった皆さんありがとうございました。

www.konan-u.ac.jp

はじめてのオンライン開催で運営委員も不安なところがありましたが,発表や質疑応答にそれほど大きなトラブルはなくなんとか乗り切ったかという気がします。私はさいきん運営委員に入ったのですが,何か気になったこと等あったら個人的にごにょごにょしていただいて構いません。来年度もオンライン開催の可能性は十分あると思いますし。

発表も認知言語学を使ったものがあったりノルウェー語を扱ったものがあったりとアプローチの面でも言語の面でもいろいろあって面白かったと思います。

さて,大関さんの発表の質疑応答で分散形態論 (Distributed Morphology)におけるRootという概念についてやりとりがあって,それを聞いて思うところがあったのを少しアウトプットしておきます。ただ文献に書かれていることはほぼ確認せず私の記憶を頼りにしていますので気になる方は文献を当たることをおすすめします。ここ5年ぐらいの理論的な動向はあまりきちんと追えていない気がしますし,ここに書く内容をそのまま受け取ると危険です。怪文書ぐらいに思ってください(もちろんあくまで私の見解)。あと,内容が内容なので詳しくない方向けの解説も付けません。ご了承ください。

Rootの内容問題

分散形態論におけるRootと呼ばれる概念がどのような情報を含んでいる(べき)かというのはここ最近のこの理論の重要な問題の1つで,Bobaljik 2012の書評を書いたときも取り上げました。ここで挙げている文献を読むと,ある程度の立場や考え方が把握できると思います。

www.jstage.jst.go.jp

キモは何かと言うと,Rootはその理論的性格から,できるだけ内容が少ない方が良いわけです(理想的には「無」,後で何か入る穴みたいな)。Rootの内容を豊かにし過ぎると「それRootとか呼んでるだけで実質的にお前らが批判してるlexicalismの “word” と一緒じゃん」てなっちゃう危険があります。でも,実際の言語現象の分析ではRootが完全に「無」だと困ることがけっこうあって,じゃあこの情報だけ持ってると考えようという話になって,どのタイプの情報をどれぐらい持ってても良さそうか(持ってないと困るか)というのが論点になるわけです。

すごくざっくりとした流れとしては,当初は割とRootはできるだけ空にしておこう(一番ラディカルなのはたぶん複数のRoot同士はsyntaxで区別できないって立場)ってのが受け入れられてたけど,Embickがけっこう早くからいやRootには音形に関する情報がないとまずいってのを言ってて,それもある程度認められてきた一方,suppletionをlate insertionでやる研究が盛んになるとやっぱりRootも最初から音形持ってるとよろしくないという流れになり,今はRootは音形は持たない,ただ異なるRootの区別は付くという辺りが落とし所になっているかと思います。意味的情報については,そこまではっきりとしたコンセンサスはないように見えるんですが,できるだけ持たせないって感じでしょうか(それに明確に反しているように見えるのが下に書くHarleyのいくつかの研究)。

Encyclopedia

さて,大関さんの発表の質疑応答では(分散形態論でも?)Rootが内項を取ったり語彙意味論的内容を持っているとする考え方もあるということに対して確認や驚きの声があったように記憶しています。まずこの2つはちょっと分けた方が良いです。

まず,Rootが語彙意味論的内容を持っているというのは,分散形態論でそこまで積極的に探求されないのですが,実はまあスタンダードな考え方です。ただ,これはRootが元々備えている情報ではなくてEncyclopediaという「分散された (distributed)」情報(List 3)に貯蔵されていると考えられています。つまり,(narrow) syntaxとかその後にある形態部門 (Morphology)の段階ではRootはこの情報を持っていません。なのでRootの内容が豊かになり過ぎる問題とは直接関連しません。ただこの「語彙意味論的内容」がどのような内容かというのは分散形態論の研究でもそれほど明らかにされていないと思います。いわゆる語彙概念構造で表示されるような「構造化された意味」にはなっていないんじゃないか(特にそういうのを統語的にある程度作っちゃう場合は)というのが私見です。

ただEncyclopediaはあまり研究が進んでないんですよね(ここ数年で急激に進んだとかあるのかしら)。LFから参照できるかとか,そういうところからしてはっきりしない感じで。分散形態論というと語形成に対する統語的アプローチの代名詞のようになってることがありますが,たとえば下記のHarley and Noyer 2000では(別の)統語的アプローチの代案としてEncyclopediaを使った分析を出していたりします。ただ,この研究あまりその後ちゃんと受け継がれていないなあという印象があります。

Formal versus Encyclopedic Properties of Vocabulary: Evidence from Nominalisations

Encyclopediaの研究が進まない理由はなんとなく分かって,分散形態論でわざわざ研究するうまみがあまりない…というか強みが出ないのですよね。分散形態論の利点の1つはやはり統語論と相性が良いところなので。だからlocalityと関連づけられるsuppletionの研究がさいきん盛んなんだと思います。

内項

一方,Rootが内項を取るかどうかというのは,はっきりとRootの内容豊かさ問題の論点になります。私が知る限りではっきりとこの立場を主張した(ことがある)のはHeidi Harleyです。ただRootが項構造の豊かな情報を持っているというよりは,内項を取るRootと取らないRootがあるという感じ。これは分散形態論のほかの研究者にあまり(積極的には)採用されていないような印象があります。明らかにRootそのものに統語的,あるいは意味的な情報を元々持たせるという話で,Root自体の分類ができるってなっちゃいますからね。分散形態論の理論的設計思想としては,そういうのはできるだけ後で(syntaxで)構築したい。

Harleyは,この種の分析を出す前に実はもっと強い分析案も出していて,それはRootそのものがstateとかthingとかっていう意味論的なタイプを持つってものです。これはさすがに分散形態論としては維持できない考え方で,Harley自身もすぐ使わなくなった印象です。私もアイディアとしては面白いと思って自分の分析で使ったことがありますが,やっぱり分散形態論とはあまり合わないですね(私は一応Rootの意味的タイプは元々あるというより後で解釈されるものっていう逃げ道を考えてみましたが…)。上記の内項を取るRootと取らないRootがあるってのは,私から見るとこの時の分析を弱めた結果出てきた考え方という感じです。

で,Harley自身がどのように考えているのか分かりませんが,Harleyのこの一連の動詞句構造の研究は,明らかにHale and Keyserの強い影響を受けています。別に秘密にやっているわけではなくて,もちろんReferenceにも挙がってますし本文でも言及してますよ。確かに私もHale and Keyser 1993(もう有名過ぎるんで書誌情報は省略)はかなり好きです。特に範疇を構造の違いに還元して,自他交替の可否を統語的に分析するところは素晴らしいですよね(bare phrase structureになっちゃったんでそのままはできなくなっちゃいましたけどね)。これこそ統語的アプローチだよって感じ。

Hale and Keyser流の動詞句構造の分析は,確かに分散形態論と相性が良いと思うんですが(Hale and Keyserも後でRoot的な要素使って分析してた記憶),完全に互換性があるというわけではないので分散形態論にどれぐらい,どんな形で取り込めるかについてはその都度チェックが必要かと思います。というわけで取り扱いに注意が必要なんですがHarleyが分散形態論の重要な研究者の1人で影響力が強いということがたぶんあってそのフォロワーもいるって印象です。

分散形態論にlexicalism的な分析を持ち込んでしまったり,paradigm-based的な分析を持ち込んでしまったりというのは気をつけてないと意外とあっさりできてしまうと思います。もしかしたらそれがどうしても必要ってこともあるのかもしれないのですが,上にも書いたように,そういうアプローチでやるなら無理して分散形態論使う必要がなくなっちゃうんですよね。ただ私もこの点では前科持ちなのであまり偉そうなことは言えません。

Rootの研究は進んでる?

Chomskyがlabelingの話でRootに言及したので,意外な形で注目度が上がったということがあると思います。上では口うるさいことを書いていますが,研究では色々試すことが重要なので,分散形態論推しの人にも,そこまででない人にもどんどん使ってもらって,研究が洗練されていくのが一番良いかなと。

ただTwitterにも書いたんですが,Root周りの話は,現象によっては既存の(特にlexicalism系の)研究でもできてたことが分散形態論でもできました,って形までしか行けないってこともそれほど珍しくないので,広くその研究の良さをアピールするのにちょっと工夫がいるんですよね。なので分散形態論の研究全体で見るとあまり流行らないんじゃないかなあという気がしてます。上に書いたEncyclopediaの研究の話と似てますね。

でももちろんRootの研究だって面白いこといっぱいあるんで,興味持ってる方はどんどんやってほしいです。「それ○○でもできるよね」とか「なんでわざわざ分散形態論なの」とか言われても,(もちろんそれに対する答えは必要ですが)めげずにやってほしい。もちろん無理強いはしません。私なんて生成文法の研究者から「生成文法やってるのになんで統語論じゃなくて形態論なんてやってるの?」って言われたりするんですよ(いや統語論もやるけどね)。いくつか理由はあるんですが,やっぱり楽しいんですよ! 研究のモデルがほしいなら,上の書評でも推してますがBobaljik2012がすごくおすすめです。

このタイプの分析がほかの現象でも出るとすげー面白いことになると思うんですが,なかなか思いつきませんね。

大坂なおみ選手への祝福と観客の話についてもうちょっとだけ

先日書いた記事に書き忘れたことがあったので補足です。しかしこの記事,ちょっとびっくりするぐらい読まれていません。ごく一部の人向けの事務連絡的告知記事の方がまだ読まれてるぐらい。そういう記事は時々ありますのでたまたまでしょうけれど。

dlit.hatenadiary.com

その後のいろいろな反応を見ていると,やっぱり優勝という結果は重いんだなと強く感じます。メディアをはじめ,かなり広範囲の人が言及せざるを得ないというか。なのでその分反発も大きくなってしまうという側面があるのでしょうけれど。

ただこのこと自体は問題提起や議論が行われることが重要という大坂なおみ選手が繰り返し行っていることに沿う状況なんですよね。この点もすごい。

さて上の記事にこんなことを書きました。

私は,大坂なおみ選手はまず今大会見せてくれたテニスのプレー面でのパフォーマンスにおいて大きな賞賛,祝福を受けてほしいと思いました。(中略)で,失礼ながら,その「賞賛,祝福」という点では表彰のセレモニーを見ていて大坂なおみ選手はアンラッキーな王者だなと感じてしまいました。もうあまり覚えていない人も多いかと思いますが,全米オープンではじめて優勝した時のセレモニーでも私は大坂なおみ選手はやや不遇な状況に置かれてしまったという記憶があります。対戦相手だったセリーナ・ウィリアムズ選手のテニス史,アメリカ,アメリカのテニス界における存在の大きさを考えると致し方ないことだったのかもしれませんが…それで今回の優勝では無観客です。もちろんこれも仕方ない状況下ということはあるのですが,その分,別の場,別の形で大坂選手が十分に賞賛,祝福される世界であってほしいです。

私の観測範囲では前回の全米オープン優勝時のことに言及している記事等はあまり見なかったのですが,祝福はたくさん見たので良かったです。ネガティブな言及もたくさん見ましたが,それは先に書いたように大坂なおみ選手自身が意図した(と言っていいのかな)状況が実現したからこそという側面もありますし,その意志を尊重したいと思います。

書き忘れたことというのは,実は今回の大会,特に決勝戦が無観客だったことは大坂なおみ選手にとってラッキーと言える側面もあったかもしれないということです。

大坂なおみ選手の出自やキャリアと今回黒人差別問題に積極的に言及しているという背景を合わせると,もし観客が例年通りだった場合,決勝戦の観客が全体的にかなり大坂なおみ選手寄りになってしまった可能性がけっこうあったと思うのですよね。実際にどうなるかはもちろんやってみないと分かりませんし仮定に仮定を重ねるような話ですが,観客がヒートアップしすぎてかえって選手がやりづらいなんてパターンにはならなかったのでもしかしたら良い方向に作用したと考えられなくもないのかも。観客の雰囲気等も合わせて素晴らしい試合が形成されることももちろん多々あるのですが,前の記事でも少し言及したように,特にグランドスラムの決勝戦の観客というのは時に残酷になることもありますから。