誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

ブログは三日坊主で(も)良い

あけましておめでとうございます。

今年は実家への訪問も取り止めたんですが,寝かしつけ途中に寝落ちしたら新しい年が来ていたというなんかふつうの1日的年明けでした。

さて新年を迎えて「ブログを 毎日/定期的に/継続して 書く」という目標を立てた方もいるのではないかと思います。それも1つのやり方だと思うのですが,ブログはもっといろんな形で書かれて良いと思っているので,しばらく前から時々「ブログは三日坊主で良い」という記事を書いています。何なら記事1つだけ書いて結局続かないというのもありかと

その代わり,書いたものはできるだけ残しておいてほしいんですよね。放置でも良いんで。実際に,何年も前に数記事だけ書かれたブログの文章を読んで良かったとか助かったとなった経験があります。

しかし今はいろいろな書ける媒体,サービスがあるので「ブログ」ということばでくくるのもなんだか話が狭くなってしまう気がしてきています。ここではnoteやSNSなども含めて考えてみてください。

最初に書いた記事から引用します。

特定のブログ名やidは挙げませんが,これまで何度か,自分が好きなブログがなくなってさみしい思いをするという経験がありました
読み手としては,たとえ更新が全くなくても,ブログ(あるいはそれに限らずweb上の文章)は残しておいてくれると嬉しいです。
(中略)
もちろんブログを書く目的は様々だと思うので,間断なく定期的に書くことが重要だということもわかるのですが「書くモチベーションが記事の公開まで持続する時だけ(どんどん)書く」というのもいいのではないでしょうか。
(中略)
私が考えているのは「定期的に書く/継続する」以外のブログのやり方もあってそれもなかなか良いのではということで,定期的に書く/継続することを目標にすること自体に疑義を唱えたいということではないです。
ブログは書き続けなくてもいいので残しておいてくれると嬉しい、あるいは定期的に書かないことのすすめ - dlitの殴り書き

あと,これだけ多くの人が気軽に何か書けるというのは(色々悩ましいこともあるのですが)基本的にはとても良いことだと思うのですよね。この点についてはよければ下記の記事もどうぞ。「自分語り」も良いじゃないですか。いろんな人の体験や個人史が読めるのも(今の)webの素晴らしい特徴の1つだと思います。

現代は,webの恩恵によって,おそらく最も多くのそして多様な人々が文字を使って言語を生み出している時代ではないかと思う。少し時代を遡ると,残されている文字言語の資料は書籍,新聞,雑誌といった,文字を書くことを生業にしている人々の手によるものが多くなる。
書くこと自体に意味がある(少なくとも言語使用の記録として) - 誰がログ

こんなことを書きつつ,2020年は1年に95本もブログ記事を書いてました。これは私としては多い方です。

今年もブログを書くことのできる社会と生活が維持されると良いのですけれども。皆様もくれぐれも体調などお気を付け下さい。

いつになくポジティブになれない12月31日

例年,その年の終わりにはつらかった的なことばかり書いている気がします。だいたい原稿とか査読とか学生の論文チェックとかそのほか諸々のおしごとも一緒に年越しするからなんですが(帰省してても夜はおしごと),今年はやっぱりコロナ禍のことが大きいです。

もう一度あの苦しさを乗り越えられるか

苦しさには,(ある程度)慣れることもできるものと,知ってしまったからこそ次は耐えられないというものがあると思います。

私はおそらく幸運な方でそれほど後者の苦しさの記憶がないのですが,今年の緊急事態宣言下(特に保育園休園)時の苦しさはしばらく忘れられないものになりそうです。具体的には次の記事に少しだけ書きましたが,

dlit.hatenadiary.com

もう一度振り返ってさらに詳しく書こうという気にはとてもなりません。内容が違いすぎるので比較するのも変な気がしますが,程度だけで言えば博士論文執筆時よりもかなりひどい精神状態だったと思います。

次に同じような状況がやってきたときに今年の経験を生かせるところは色々あると思うのですが(たとえばオンライン授業の準備とか),次回がよりひどい条件下・状況だという可能性は十分ありそうですよね。次も耐えられるかな。無理そう。

どんどん人を使い潰しているのではないか

今年1年仕事回りをはじめ生活していて強く感じたことに,わたしたちはどんどん人を使い潰しているのではないかということがあります(表現としては「すり潰している」というのが個人的にはしっくりきます)。

おそらく多くの人が今実感できて危機感を抱いているのが医療関係者だと思いますが,ほかのさまざまなところで人が消耗している…よりひどいことが進行しているのではないかと。

これは特に大学の営みに教員として関わるようになってから(実は院生の頃からも少し)感じてきたことなのですが,今年はやはりコロナ禍のことがあってかなり悪化してしまったのではないでしょうか。

もちろん今のCOVID-19周りの事態がさらにひどくなるというのが最も嫌な未来ですが,仮に(ある程度)乗り越えられたとして,そのために消耗した多くの人の生命や健康は,この先大きな負荷・重荷・ディスアドバンテージになって未来のわたしたちに降りかかってくるのではないかという怖さが頭から離れません。大学関係に限っても,今後これまでの無理がたたって大きく健康を損なう人が今まで以上に出てくるということがありそうで。

緊急事態を切り抜けるのに,(できる人は)ある程度の無理やガマンは仕方ない,というのは避けられないことなのかもしれません。しかし「仕方ない」が変に積み重なることで変な道に進んでしまうこともあるのかなと思います。

こんな思考から離れられないことが,すでに精神的に参っている証なのかもしれませんが。

皆様も1年おつかれさまでした。来年は少しでも多くの人にご武運(good luck)を。

関連

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【改訂版】「水からの伝言」に言語学の立場から反論する(読書案内付き)

はじめに

改訂版を書こうというアイディアはしばらく前からあって,実はnoteに載せるつもりだったのですが,ここしばらくあったnote関連のトラブルと運営側の対応があまり好ましいものではなかったのでこちらで改めて記事にすることにしました。

この話題にある程度触れたことがある方は「今さら?」と思うかもしれませんが,実はさまざまな形で今でも肯定的な言及が見られます。そういう具体的な事例を定期的に見かけたこともこの記事を書いた理由の1つです。

元々の記事は下記の2007年に書いたものです。書いた時の記憶ももう薄れつつありますが,2007年という年を手がかりにすると院生(D3かな)でアメリカにvisitingに行く数ヶ月前ですね。この10年くらい後に(この話題を授業で出したわけではないのですが)大学の授業の受講生から「この問題について調べていてこの記事を読んだ」と言われたこともありちょっと嬉しかったです。

dlit.hatenadiary.com

なお,すっきりさせるために当時の事情や古い記事を書こうと思ったきっかけなどは今回の記事では省きますので,気になる方は上の記事を読んでみてください。

「水からの伝言」とは何か,簡単に

「水からの伝言」とは何かというのはきちんと述べようとすると意外と難しいです。Wikipediaの「水からの伝言」には「水の結晶である氷から言葉や音楽への反応が読みとれるとする江本勝の著作」とあります*1が(2020/12/28閲覧),江本氏の著作を読んでもどの部分が「主張」なのかというのははっきりとは分かりにくく,「水からの伝言」に肯定的に言及する人の言い方もちょっとずつ違ったりするからです。

水質に関する話もあるのですが,この記事ではことばに焦点を当てますので「水からの伝言」で言われていることを次のようにまとめることにします。ちなみに(江本氏の著作ではなく)このような内容そのものを指して「水からの伝言」と言うことも多いようです。

水に「ありがとう」や「平和」など「良いことば」をかけて凍らせると美しい形の結晶ができ,「ばかやろう」や「戦争」など「悪いことば」をかけると汚い形の結晶ができる。

このような「主張」に対しては,自然科学*2方面からの様々な批判があります。webにも色々な批判があり,今は書籍で言及しているものもあるかと思いますが,webで読めて分かりやすくまとまっているのはやはり田崎晴明氏の「「水からの伝言」を信じないでください」ではないかと思います。

www.gakushuin.ac.jp

ほかのものについては,上記Wikipediaのページにも色々な資料へのリンクがありますし興味のある方はたとえば下記の資料集にまとめられているものなどもご覧下さい。

kameo.jp

言語学の話に入る前にもう少し

この先の言語学の話は,かなり基本的なものです。逆に言えば,言語学の基本的な知識がありその内容を「水からの伝言」と結びつける付けることができれば,「水からの伝言」に引っかかることは回避できる可能性が高いと思います。

この記事は「水からの伝言」の主張が言語学的な観点だけから見ても不可能であると示すことを目的としています。この内容が妥当であれば,「水からの伝言」の主張はたとえ科学的方法論の部分(たとえば実験方法など)を整備して研究を行っても検証することができないものであるということです。

一方で,その内容はいろいろな人が先に指摘してきたもので,目新しく鮮やかな反論というわけではありません。個々の話は何らかの専門的知識がなくてもぱっと思い浮かぶようなものですが,それを言語学の専門的な話に結びつけるとどのようになるかという言語学入門のような側面もあります。

上でまとめた「水からの伝言」の主張をもう少し整理しておきます。ことばに関することで気になるのは次の2点です。

  1. 水に言葉を触れさせる方法は、「紙に書いて容器に貼る」のと「声をかける」どちらの方法でも良い。
  2. 様々な言語(日本語,英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語,中国語,韓国語など)で同じような結果が得られる。

1は水が音声言語と文字言語のどちらも理解できるということだと考えて良いでしょう(手話はどうなるのか気になるところです)。2は,水はどの(自然)言語も理解できるということだと考えて良いのではないかと思いますが,「水からの伝言」を肯定的に捉えている人がこのことをどう考えているかはよく分かりません。

この記事で主に取り上げる問題は,言語表現の恣意性に関する問題と,文脈に関する問題の2つです。

(言語記号の)恣意性

言語の形と意味(内容)の結び付きには一般的に必然性がないということが知られており,この特徴を指して「(言語記号の)恣意性」と言います。言語の「形」としてはまず音(音声)と文字が挙げられることが多いですが,手話における手を中心にした身体の使い方も該当するでしょう。

言語学に触れたことがある方,ソシュール関係の本を読んだことがある方であれば「シニフィアン(能記)」と「シニフィエ(所記)」という言葉が思い出されるのではないでしょうか。「形」に対応するのがシニフィアン(能記)で「意味」に当たるのがシニフィエ(所記)です*3

言語学の教科書では色々な例が挙げられます。たとえば『言語学大辞典』だと下記のように説明されています。言語記号の恣意性に関してはさらに「差異の恣意性」というもう少しややこしい話があるのですが,ここでは割愛します。

たとえば,英語の音形式[dɔg](dog)と概念「犬」の結合には何ら必然的な関係はない。あるのは全く恣意的な慣習の連合にすぎなく,この関係は他のいかなる音連続によっても同様に表しうるはずである。それは,同じ「犬」という概念をフランス語では[ʃjɛ̃](chien),ドイツ語では[hunt](Hund)というように,言語の相違に従って音形式が異なることからも明らかである。
(『言語学大辞典 第6巻』,p.263)

「水からの伝言」にとって問題になってくるのは,この言語記号の恣意性という特徴があるために,その言語における形と意味の対応に関する情報を持っていないと,その言語(の表現)を理解することはできないということです。

この問題がよく分かるのが,上で紹介した田崎氏が挙げている「shine」の(有名な)例です。この記事は上記Wikipediaの脚注18にはってあるアーカイブからも読むことができます。

理学部の田崎晴明教授(理論物理学)が「水からの伝言」の内容を紹介し、「じゃあ『shine』と書いた紙を張ったら、どうなるか」と問いかけた。
 「『シャイン(輝く)』とも『死ね』とも読める。ちょっと考えてみれば、おかしいと分かる。こんな話を信じてはだめです」
(「理系白書」『毎日新聞』2007年2月7日)

これは水伝に対して水はどのようにしてそのような形と意味の対応に関する情報を持ちえるのかという問題を突きつけます。このような情報に関してはどのような話者であっても言語を獲得,あるいは習得する段階で覚えていくしかありません。しかもその情報は言語や方言によって大きく異なっています。

ちなみに,言語記号の中には完全に恣意的ではない記号もあるということは昔から指摘があって,その代表がオノマトペです。前の記事を書いたときはこの観点から反論してくる人がいるかもと考えていましたが今のところ見かけません。

オノマトペと言語記号の恣意性の関係は,「音象徴」というキーワードの元で研究が発展していて,入門に当たる本も出てきています。気になる方は下記の本などをおすすめします。

本格的に論文を読んでみたいという方は,次の本に収められている秋田さんの研究史が非常に有用です(すべてのトピックにこういうのがあったら良いのに!)。

「意味」と文脈

使用された言語表現の解釈は文脈に依存します。そう言われると辺り前じゃないかと思われる方も多いでしょうけれど,私が院生時代に意味論を習った先生が挙げていた印象に残っている例を紹介します(実はこれ自体よく使われるパターンの1つだと思いますが)。次のような表現を考えてみましょう。

  • 使用された表現:彼は,料理がとても上手い。

この表現は発話された文脈によってその解釈(意図)が異なってきます。

  • 文脈1:話題が結婚についてで,自分の友達に対する評価を求められた時
  • 文脈2:話題が哲学の研究についてで、自分の友達に対する評価を求められた時

他の前提となる知識や文脈がない限り,文脈1の場合はその友達についての高い(好い)評価となるのに対して,2の場合は強烈な皮肉になってしまうでしょう。

このように,表現自体は同じでも,使用される文脈によって伝わることが異なるということがあります。言語表現が持つ字義上の意味を「文の意味」,使用されることによって生じる意味を「発話の意味」などと言います。発話の意味について話者の伝えたいことに焦点を当てる場合は「話者の意味」や「意図」という用語が使われることもあります。

いろいろごちゃごちゃ用語を出しましたが,同じ「ありがとう」でも言い方(抑揚とか)や形式(日本語だと「ありがとうございます」にするとか),文脈によっては単純な謝意の表明とは理解してもらえず,ケンカやトラブルにつながることもあるというのは実感としても分かる人が多いのではないでしょうか。

この問題が水伝に関して提起する問題点は2つあります。まず,文脈も無しにある言語表現の評価をしろと言われても(人間にとってですら)難しいということです。人間であればこれまでの知識や体験を(無意識に)参照して判断を下すことができるかもしれませんが,水はどのようにしてそのような知識や体験を参照することができるのでしょうか。そもそも,そのような知識や体験を持つことはできるのでしょうか。

このような問題を扱う言語学の領域は複数あるのですが,たとえば語用論,文章・談話の研究(談話分析,会話分析),社会言語学,などが挙げられます。「意味」と文脈との関連については語用論の入門書なら必ず簡単な例とともに解説されていると思いますが,たとえば私は以下のものの説明が平易で分かりやすいと感じました。

意味論も含めた入門ということについては下記の翻訳がおすすめなのですが,値段が専門書並みなので専門以外の人はなかなか手が出しにくいかもしれません(私の文章研究の授業では意味論入門の一番のおすすめにしています)。

一方,もっとラフな形でこういう「意味」とか「意図」とか「コミュニケーション」に関する専門的な内容に触れてみたいという方は,川添愛氏の著作をおすすめします。たとえば,『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』でも「話し手の意図を推測すること」という章があります。

まとめ

もう一度,簡単にまとめてみます。

水がある言語表現を「よい言葉」だと判断するためには,水自身が,1) その言語表現がどのような意味(内容)と結びついているのかという情報と,2) その言語表現がどのような文脈に置かれるとどのような解釈を得るのかという情報を持っている必要があります。しかもそれは言語や言語と結びついている文化によっても違ったりするのですから,水は様々な言語や文化に関する豊かな情報を持っていて,それを適切に使い分けていると考えなければ「水からの伝言」の主張が成立すると考えることは難しいのです。

もう少し言い換えると,自然科学的な議論は置いておいたとしても,ある言語表現についてその物理的性質(形)のみと特定の評価を結びつけることは不可能なのです。そして「意味」を受け取るためには受け手側が実に様々な情報,知識を持っていることが必須です。

これらの結論は,「現段階では無理でも「水からの伝言」の主張が将来科学的に検証されるかもしれない」と考える方々が支持するであろう「言語記号(文字や音)がその物理的性質によってのみ水に意味を伝え,水の物理的性質が変化する」というような主張に対して避けがたい反論になっています。形だけからは,意味は生まれないのです。

この反論を回避するために,例えば,実は水は言葉に反応しているわけではなくそれを表現したものの「心」に反応していると考える人もいるかもしれません。しかしそれはそもそも「水がことばの意味に反応している」という「水からの伝言」の主張の根幹を破棄するものではないでしょうか。しかし,「水からの伝言」に肯定的に言及する人は,こういう「回避」を問題を指摘された時だけ使い,それ以外のところでは元の主張を修正したり後退させたりせずに使うというようなことをすることがあるので注意が必要です。

また最後に強調しておきますが,この記事で提示した問題を克服できれば「水からの伝言」は生き延びることができるというわけではありません。次に自然科学的な問題が待っています。「水からの伝言」は自然科学的な観点からだけ見ても大きな問題が色々ありとても成立するものではないということに加えて,言語学から見ても成立するとは考えられない内容だということです。

おわりに

メインの部分を以前書いた記事より少し丁寧にしましたので,そちらでは触れていた言語記号そのものの認識,文法,歴史的変化といった話題については再掲しません(希望があれば追記するかもしれません)興味のある方は,古い方の記事を参照してください。。

「水からの伝言」は私が「ニセ科学」の問題に興味を持ち自分でも色々考えるようになったきっかけの1つです。その後ニセ科学関連の話題はもっと詳しい人たちに任せることにして,私自身は専門である言語学周りの話題について情報を提供することを優先的にやるようにしていますが,言語学という一般的には人文系と思わることも多い研究の知見も,このような話題に貢献することがあるということが少しでも多くの方に伝われば研究者として嬉しく思います。

関連

言語学の入門書やことばに関する個々のトピックの読書案内については,下記のまとめ記事を見てみてください。

dlit.hatenadiary.com

*1:初期の著書のタイトルは『水は答えを知っている』ですが,その後『水からの伝言』がタイトルに入っている本も出ています。

*2:「自然科学としての言語学」というような話もあるのですが,この記事では物理学のような一般的に自然科学とされるものを指しています。

*3:私は定延利之 (2009)『日本語能力検定試験に合格するための言語学22』,p.76に出てくる「意味のことを難しげに所記やシニフィエなどと呼ぶ本もありますが,気にしないでください」「形式のことを難しげに能記やシニフィアンと呼ぶ本もありますが,これも気にしないでください」という扱いが好きです。