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自由研究だけじゃない!ことばに関わる人へ『コトラボ』のすすめ

はじめに

松浦年男さんが書いたことばを題材にした自由研究に関する本『自由研究 ようこそ!ことばの実験室(コトラボ)へ』を簡単に紹介します。

ところで書名が長いので略称は『コトラボ』にします。著者の松浦さんも使ってるっぽいですし。

後で説明する通りもっと幅広く使えそうな本ですので自由研究に悩んでいなくてもことばに興味のある方,仕事などでことばに関わる方はぜひのぞいてみてください

ところでまだ自由研究って間に合うんでしょうか。この本を注文して届いて…という時間を考えると厳しいかな。書店ですぐ手に入れられたり夏休みが延長になった人は微かに可能性あるくらい?

ほかにも色んな方が紹介を書いたりしてるのでそちらを読んだりTwitterで検索してみる方が良いかもしれないです。下記は読書案内が大変充実している現役の教師の方による記事。

www.s-locarno.com

松浦さんのサポートページにもTwitterの関連ハッシュタグへの検索リンクがあります。

researchmap.jp

目次・トピック

下記に一部の目次を載せておきます。項目が多いのでぜんぶ載せると長くなり過ぎちゃって…この本はAmazonの商品ページでも目次載ってますけど,ひつじ書房のページからは目次全体に加えて前書きも読めるのが良いです。ぜひどちらかでチェックしてみてください。

ようこそ! ことばの実験室(コトラボ)へ
コトラボの歩き方
コトラボでどうやって調べたい?
結果を発表しよう
1. 単語のしくみ(例:「ことばの意味」クイズを作ろう【レベル1、つくる】)
2. 音のしくみ(例:「名前を縮めると…?【レベル2、しらべる】)
3. 文・会話のしくみ(例:並べ替えられないことばを探そう【レベル3、かんがえる】)
4. さまざまな言葉(例:手話のことを調べよう【レベル3、しらべる】)
ひつじ書房 自由研究 ようこそ!ことばの実験室(コトラボ)へ 松浦年男著

個人的には,手話も含めて言語のバリエーションをかなり取り上げていることと,あと文法も取り上げているのが素晴らしいと思いました。語彙などに比べて文法ってどうしてもこういう形に落とし込むのは難しいという印象があって。

本の特徴

ぜひまず前書きの部分を読んでほしいと思います。本の方針についての良いポイントは上で紹介したロカルノさんの記事でも丁寧に触れられていましたから,私はもうちょっと形式的なところを紹介しておきます。

私が考える本書の一番良い点は,具体的で取り組みやすい問いが設定されていることと,その問いに取り組むための具体的な方法や手順がガイドとして付いていることです。書籍が1,000円を超えるとそれだけで高いと感じる方はけっこういるようですが,この内容でこの価格はとてもお得です。

こういうセットをちゃんと準備するのはほんとうに大変なんですよ(教員をやっていての実感)。たとえば「漢字の成り立ちを調べてみよう」みたいな問題は誰でもすぐに思いつけると思います。でも端的な問いかけだけで投げっぱなしにせずに,児童・生徒や学生がきちんと取り組めるように適切な対象を選んだり,調べる手段を用意したり,自分で調べる時の注意点についてのガイドを整備する…となると一気にハードルが上がります。特にことばについてはただ単にネットで調べると間違ってる/怪しい情報がたくさん引っかかりますからね。

これから先の展開は分かりませんけれど,本書の登場をまず喜んでいるのは教員ではないかという感じがします(私の周りにそういう知り合いが多いだけかも…)。

さらに形式的なところをもう少し紹介しておきます。目次にあるように,「つくる」「しらべる」「かんがえる」という3つのタイプの問いが用意され,レベルも設定されていることに加えて,前書きの部分に取り組み方(頭で考える,本や新聞などから集める,回りの言葉を観察する,自分で作る,インターネットを使う)による分類も示されています。これを見て取り組む問いを考えるのも面白そうです。

あと,問いやその関連知識だけでなく,調べたことをまとめる方法や手順,もっと具体的なところではGoogle翻訳の使い方などに関する説明もあって,個別のスキルのトレーニングにもなります。

ほかの使い方,あるいはちょっと心配なこと

ちょっと心配なこととして,この本は国語に関する教材として便利すぎるので,国語(に関心の高い/が得意ではない)教員が授業などで使ってしまって生徒が自由研究で使えるネタが少なくなる,残されない,ということがあります。杞憂でしょうか。

せっかくここまでフォーマットが用意されているのですから,教員の方々にはできればこれをベースにぜひ新しい問いを設定してほしいなと思います。ただ多忙な教員の方々にそこまで要求するのは酷かな。

ちなみにうちのこどももそろそろ小学生なので,この本を一緒に読める日が来ると嬉しいですね。

ところで本書を読んでいると問いというのは本当に面白いなと思います。この本で取り上げられている問いやトピックは,自由研究が大きな課題である小学校だけでなく,中学・高校でも十分面白い課題として取り組めるでしょう。それだけでなく,大学の日本語学概論のような授業で取り上げることもできそうですし,卒業論文のテーマにできるものもあります。もちろん要求されるレベルとか,条件設定とか,調べる時の方法などは変わります。

あと,たとえば日本語の授業で学習者と一緒に日本語のことを調べる時のテキストやガイドとしても使えるのではないでしょうか。

ちょっと過激な言い方をしておくと,この本で取り上げられている問いや知識を一見したところの易しさから馬鹿にするような人は,ことばに関することについて信用しない方が良いと思います。

その他の本

私もいろいろ紹介したい本が思い浮かばないではないのですけれど,選抜が難しいので,過去に書いた記事のまとめを紹介しておくにとどめます。ことばに関する,専門的に信頼できる良い本は実はたくさん出ているのです。

dlit.hatenadiary.com

サークル文化の記憶や記録は継承した方が良いかも

下記の辺りの流れを見て,ちょっと気になったことを書き記しておく。結論とか提案みたいなものはタイトルに書いたとおり。もうちょっと具体的に書いておくと,サークル文化の良いところも悪いところも後進に伝えておくのが良いのではという辺りが重要かな。

anond.hatelabo.jp

県人会とか

「サークル(文化)」というと,どうしても東京都内とかにある大学の華やかな,そして時には問題も起こすようなタイプのものを思い浮かべる人が多いのかもしれない。しかし一口に「サークル」と言っても多種多様なものがあり,また大学ごとに事情も違うだろうからあまり一括りにしては論じられないだろう。

私がサークル文化の継承というところで真っ先に思い出す身近な事例は,サークルとはまたちょっと違うかもしれないけれども,筑波大学(所属先)の沖縄県人会のこと。この県人会は学園祭(雙峰祭)でエイサーを披露するのが恒例だった(少なくとも私が学部生だった1990年代後半からずっと続いていた)。

あまり活動そのものに直接関わっているわけではないけれど,ここ数年この県人会が学内でエイサーを練習する場所の申請をするための書類に教員としてサインをしてきた。私は学部生だったときも体育会だったということもあって県人会にはほとんど関わることができず,ちょっとした罪滅ぼしのような個人的動機もある(三線とかでも貢献できないので…)。

ところがコロナ禍で2020年は学園祭が中止になった。もし2021年も開催できないということになると,活動の継続がけっこう難しくなるのではないかという心配がある。沖縄出身であればエイサーそのものはある程度練習すればできる人がけっこういると思うけれど,人を集めて定期的に練習してそれを学園祭で披露するといった手順やノウハウは一旦途切れると後からやろうとする人はなかなか厳しいのではないか。

ダメな文化の記憶を語り継ぐ

さて,こういう例を出すと「なるほど,良いものもあるのか,そういうのは残した方が良いかも」という人はけっこういるだろう。私はサークル文化のダメなところもきちんと語り継いだ方が良いと思う(ダメな風習や伝統,あるいは組織そのものはなくなっても良い)。

いったんサークル文化の継承が途切れることでダメな伝統がなくなったとしても,結局人が組織や集団を作る以上,同じことが繰り返されるんじゃないかな。特にハラスメントとか差別とかその辺りが心配。それなら,「むかしこのサークルではこんなひどいことがあった」という記録や記憶が継承される方が良いんじゃないか。

語り継ぐのが難しいなら,何かに記録しておくとか。あとサークルで使っていた資料とかミーティングなんかの記録を残しておくとか。

私は学部では体育会に所属してその後は研究の道に進んだけれど,体育会だろうがサークルだろうがアカデミアだろうが人がある程度集まって組織を作ったり一緒に活動をすると,ちょっとしたきっかけで変な伝統や人間関係,あるいはハラスメントが発生するんだなというのが強い実感としてある。

もちろん時にはどうしようもなく行き詰まって組織を解体した方が良い場合もあるだろうけれど(特に「伝統」ってのはほんとに厄介),じゃあまっさらにした後は素晴らしいものがスタートするかといったら,そんなに望みは持てないっすよ,たぶん。形はどうあれ,ダメだったことについても伝えていく方が良いと思う。

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dlit.hatenadiary.com

「メンタル」はMPみたいな値ではないか

スポーツなんかで「メンタル」への言及のしかたに違和感を感じることがある。たとえば「○○選手はメンタルが強い/弱いので…」のような言い方。

なんで嫌な時があるんだろうというのがよく分かっていなかったのだけれど,理由の1つとしてそもそも「メンタル」という能力?の捉え方にずれがあるんじゃないかという気がしてきた。ちょっとだけ言語化してみる。

自分のスポーツの経験からは「メンタル」はかなり変動する値だという実感がある。ドラクエやFFで言うとMPのような値が真っ先に思い浮かぶ。すぐ減るし,ダメージを受けることもある(直接の攻撃だけでなく気候とかそういう外部要因でも)。回復はできるけれどもなかなかすぐに全快とはいかなかったり。あとその時の最大(上限)値より増えることはない。

私にとってはスポーツだけではなく研究や仕事,生活などでもそう。

一方,上で触れた「○○選手はメンタルが強い/弱い」というような言い方では,どうも「メンタル」をあまり変動しない能力値のように扱っていることがある気がする(文脈上そうでないこともある)。MPのベースになる基本的な能力値,ドラクエだと「かしこさ」,FFだと「せいしん」「ちせい」みたいな値…はちょっと内容的にずれがあるかな。「気力」みたいなパラメーターがあればそれが近いかも。

どちらのタイプの能力値も成長することで上限値は増えるのがまたこの区別を見えにくくしているのではないかな(ゲームによっては基本的な能力値はほとんど変わらないものもあるけど)。

自分としては前者の「メンタル」を変動的な値として考える考え方を推したい。最大値が成長するのも良いことなのかもしれないけど,実戦的にはむしろ急激に減らさないためのケアや減ってしまった場合の適切な回復の方が重要。

ところで特にコロナ禍が本格的になってから,自分の「メンタル」は常にダメージを受けながら変動しているような感覚がある。常に何かを気にしたり心配したりしているし一息付けそうだなと思ったらすぐ何か新しい問題が発生する。全快の状態がもうよく思い出せない。ゲームならMPの最大値は(転職とかそういうのを除いて)あまり減少することはないと思うけど,私の「メンタル」の最大値はもう減ってしまったかも。やっぱり現実は厳しい(私が今生きているこの世界は現実だよね?)