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歯切れが悪いのは仕様です。

山口仲美『日本語が消滅する』を読んで気になったところ(後半)

前半と後半は問題点の指摘については内容として独立していますので、こちらから読んでも構いません。ただ本書全体の評価などは前半に書いてありますので、もし良ければ読んでみてください。

山口仲美『日本語が消滅する』を読んで気になったところ(前半) - 誰がログ

後半の「はじめに」

前半への反応について

前半への感想をいろいろいただきました。ありがとうございます。どなたのというわけではありませんが、複数見かけた反応について少し書いておきます。

まず私は危機言語や方言が研究上の専門というわけではありません。問題点の指摘には社会言語学の入門書くらいに書いてあるような水準のことを使っているというのが私の感覚で、専門の方から見ればいろいろ粗いところがあるのではないかと思われます。沖縄出身であるということと、形態論が専門であるということから琉球諸語についての文献はそこそこ読んではいます。

前半でも書いたように、自分の専門に関わる書籍に言及する場合、批判よりは良い本の紹介を、という優先順位にしているというのは今も変わりはありません。ただ、研究や教育を生業にしている者が自分の専門分野で問題のある文章に出会ったときに、それを指摘するのを躊躇するような社会は少なくとも自分が望んでいる社会ではないな、と思ったので今回久しぶりにこういう「批判」を書いてみることにしました。また私も年を経てきて(先日44歳になりました)人柱役もふさわしくなってきたのではないかという思いもあります。自分でも非専門家向けの説明やアウトリーチがあまり得意ではないという自覚はありますが、「こんな内容をこんなスタイルの文章で書くとこんな反応がある」というサンプルとしてでも参考になれば嬉しいです。

後半の内容に関する注意

前半も読書メモ風にしたとは言いつつ、重要なトピックでしたので構成等にそこそこ気を遣いましたが、今回は本当に個別のトピックの羅列になっています。各トピックはほぼ独立しているので、気になるところだけ読んでも大丈夫です(たぶん)。

また、専門用語の使い方に関しては手近な用語辞典等は引いてみましたが、すべての専門的な辞書を調べたわけではありませんので私が以下に書いている内容についても取り扱いには気をつけて下さい。

トピックごとのメモ

語順

語順について複数の箇所で取り上げているのだが、それぞれの話がどう整合しているのかよく分からない。

まず、VOSパターンの言語を取り上げて述べているところ。

日本語で言えば、「殴った彼を私は」という語順です。心理的に「殴った」という行為が一番大事なんですね。日本人が、「誰が」「誰を」という対人関係を優先させるのとは対照的な言語です。
(第三章 言語消滅の原因は何か:大量虐殺)

こういう基本語順を論じる際に「心理的に「殴った」という行為が一番大事」だからverb firstになるという説には少なくとも私は心当たりがない。一応脚注で『言語学大辞典』術語編の「語順」の項目が参照されているが、どの内容を参照すればそのように言えるのかよく分からない。一番関係がありそうなのは最後の方で少しだけ触れられている「心理的語順」への言及だが、この記載内容から上のような結論が導けるとは思えない(これは私が詳しくないだけかもしれない)。また、この項目の前半部分で丁寧に取り上げられている形態的標示と語順の固定度合いとの関わりとかの話などは考えないことにしないとこんなざっくりとした話にできないと思うのだが。前半に書いた「参照している文献の内容を適切に参照できているのか」という疑問を持ったきっかけがこの箇所だった。『言語学大辞典』は非専門家がアクセスするにはハードルが高い書籍なのでこういう参照の仕方は問題ではないか。

日本語の方に目を向けると、SOVという基本語順を「対人関係を優先させる」と考える説もやはり思い当たるものがない。そもそも、日本語はV(述語)が後という語順についてはけっこう厳しく、それは上で触れた『言語学大辞典』術語編の「語順」の項目にもはっきりと述べられている。そうするとSとOが前の方に来るのは当然である。「(少なくとも表面上の配置については)日本語は語順が自由」と言われる時に指しているのは、述語部分を除いた項や副詞などの語順であることが多い。もちろん述語の後に語を配置するのも不可能なわけではなく研究もある。可能な限り好意的に解釈すると、基本語順がSOVなのでそれを生かして対人関係を優先することができるということなのかもしれないが、語順として先に出すことと「対人関係を優先」の関係がやはりよく分からない。

長々と書いてしまったが、上記のところはあまり詳しく書いてないのでなんというか「筆が滑った」というようなところなのかもしれない。というのも、本書の後半部分で基本語順について詳しく述べているところでは次のように書いたりしているからである。

日本語は、「主語+目的語+述語」の語順ですから、一番大事な「述語」を最後に持ってきている言語です。
(第六章 日本語はこういう言語(1)—発音・文法・敬語—:大事なものが後に来る言語)

「「誰が」「誰を」という対人関係を優先させる」との整合性はどうなっているのだろう。ちなみに言及はないようだ。

ただここで「大事なもの」で指しているのは、この後に出てくる修飾語と被修飾語の語順の話も合わせて考えると「主要部 (head)」のことを指していると思われる。では「主要部 (head)」という用語を使えば良かったかというと、この内容でこういう専門用語を導入するのは大変だと思うので結局は「大事なもの」というざっくりした表現の方が適切なのかもしれない。

「主要部 (head)」については語順ではなく語形成の話で簡単な説明を書いたことがあるので興味のある方はどうぞ。

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なお、語順は言語類型論では(でも)比較的よく研究されているトピックであり、各言語の特徴についてはWALS Onlineというデータベースでもそれなりに手軽に調べることができる。簡単な使い方などは下記の記事で紹介している。

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語彙

「第七章 日本語はこういう言語(2)—文字・文章・語彙—:トップクラスの語彙量」のところで、日本語はほかの言語より多くの語彙を知っていないと文章を理解したり書いたりできないという調査が紹介されている。

よく分からないのは、それらの調査では英語は理解したり書いたりするのにそれほどの語彙は必要としないと書いているにもかかわらず、英語の語彙量については「豊か」「大きい」という別の話を持ち出してきて、日本語はそんな英語より理解したり書いたりするのに多くの語彙が必要なのだから「語彙量が多い」という結論を導き出しているところ。

理解や書くのに必要な語彙の話だけで日本語の基本語彙が豊かということを言うのには十分な気がするし、英語との語彙量を比較するなら、日本語の方も語彙量のデータを出して比べた方が良いのではないか。

私も語彙論はあまり得意ではないのでこの辺りの話をうまく説明できるわけではないが、以前書いた記事で挙げている書籍が参考になるかもしれない。

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絶対敬語と相対敬語

「第六章 日本語はこういう言語(1)—発音・文法・敬語—」の敬語を扱っているところ(小見出し「敬意を表す専用の言語形式がある」「専用の言語形式とは」「絶対敬語と相対敬語」「自在に操れる親疎関係」)で、絶対敬語の言語の1つとして紹介されている朝鮮語にスピーチレベルシフトがないと述べているように読めるところがあり、もしそのような主張であれば事実として誤りであると思われる。

やがて、打ち解けて相手との距離が縮まると、「です」「ます」の丁寧語だけの会話になり、さらに打ち解けていくと、丁寧語もとって「そうなの。知らなかったなあ。」とタメ口になっていく。
「絶対敬語」では、こうした自在な運用はできません。
(第六章 日本語はこういう言語(1)—発音・文法・敬語—:自在に操れる親疎関係)

日本語で「です」「ます」の付け外しで相手と距離を調整する現象は「スピーチレベルシフト」と呼ばれることが多く、研究もいろいろある。

朝鮮語が日本語と比較して絶対敬語と言えるような特徴を持っていることは良いのだが、少なくとも朝鮮語にスピーチレベルシフトがないということはないだろう。なぜなら丁寧さに関わる要素についてはスピーチレベルシフトの日韓対照研究が複数あってデータもいろいろ出されているからである。大学院生時代に同じ研究室でまさにその研究をしている韓国からの留学生がいたので気になった箇所だ。

なお、丁寧語が話者を対象にした敬語(対者敬語)であることの説明があるので、日本語研究のイントロとしては尊敬語・謙譲語が素材敬語であることの紹介があっても良かったのではないかと思った。これは欲張りすぎかな。

音声言語と文字言語

「音声言語」と「文字言語」の使い方が不思議な感じがする。

言語には、「話す・聞く」に特化した「音声言語」的なものもあれば、「読む・書く」に特化した「文字言語」的なものもあります。
(中略)
日本語は、第六章で述べたように、発音は極めて単純素朴であり、とても「音声言語」的とは言えない。それに対して、文字・文章・語彙においては、豊かで独自性を持っており、「文字言語」に特化した言語であることが浮き彫りになってきました。
(第七章 日本語はこういう言語(2)—文字・文章・語彙—:日本語の特色─文字・文章・語彙─)

私の感覚では、「音声言語」「文字言語」という用語は単に音声あるいは文字で表された言語を指すか、音声あるいは文字で言語が表されたときの特徴を述べる際に使うもので、特定の言語を音声言語的とか文字言語的とか評するのはほかにちょっと思いつかない。ただこれも私が知らないだけかもしらない。

日本語の音は母音で終わるCV構造が基本だから「遠くまで届く、響きのよい言語」であるなどと賞賛していることと「「音声言語」的とは言えない」という評価の関わりもよく分からない。

表語文字(表意文字)

いくつか「表語文字(表意文字とも)」という書き方が出てくる。

せっかく表語文字に対して音と意味のどちらにも対応するということは簡単ながら説明しているのだから、表意文字とは別の扱いにするか「一般的には「表意文字」と呼ばれているが、」くらいの説明が付してあるとより分かりやすかったのではないか。

和製漢語

和製漢語の例(少なくとも優先順位)が変な気がする。

和製漢語(たとえば、敷金・縁組)
(第七章 日本語はこういう言語(2)—文字・文章・語彙—:日本語を表すための改造)

和製漢語にもいくつかのパターンがあるが、よく挙げられるのは和語由来のもの(「大根」「返事」など)、山口氏も触れている近代化に際して生み出されたもの(「哲学」「抽象」など)などではないか。

「敷金(しききん)」「縁組(えんぐみ)」とルビも振られているのだが、こういうのも「和製漢語」として取り扱うことがあるのだろうか。

レアな日本語

「第八章 多様性こそ活性化の源:日本語に自信と誇りを持って」で、六章と七章で挙げた例を列挙して「世界中探したって、日本語以外には見つかりません。」と評しているが、それらの観察・整理がすべて妥当だとしても、多くの特徴を組み合わせれば組み合わせるほど同じような言語が見つかりにくくなるのは不思議ではない。

この「AとBとCと…の特徴を兼ね備えた言語は日本語だけなのです」型のロジックは本書以外でも時々見かける。

そのほか

ほかにも気になるところはあるのだが、網羅すると大変だし、単に私の認識不足や調査不足のところもあるかもしれないのでここ辺りで一区切りにしておく。

実は本書を読んで一番もやもやするのは英語教育の関係者ではないかという感想も持った。なぜなら、日本語の消滅の有力候補として挙げられているシナリオの1つが、バイリンガル教育が成功し日本が日本語と英語のバイリンガルだらけになるとその子供が強い言語である方の英語を選択するために日本語が使われなくなるというものだからである。どちらかというと早期英語教育に賛成の人たちからそれができれば苦労はないというような溜息が聞こえてきそうな気がする。

おわりに

以下は前半にも書いたことですが、重要なことなのでここにもそっくりそのまま載せておきます。

こういう問題点の指摘に対して「一般向けの情報提供に完璧を求めるな」とか「分かりやすさを優先すると正確さが犠牲になるのは仕方ない」といった反応が出ることがあります。それは一般論としてはよく分かって、私がこれまで紹介してきた書籍なども別に完璧なものではありません。この辺りは専門家でもポリシーや基準が異なりますが「さすがに最低限この辺りはなんとかしてほしいライン」があるというのが私の感覚です。

山口仲美『日本語が消滅する』を読んで気になったところ(前半)

追記(2023/10/09):後半を書きました。

はじめに

結論を先に書いておくと、この本を出発点にして日本語の消滅をはじめとした危機言語の問題について論じることはおすすめしません。

危機言語の問題について感心がある方には、代わりにこの後言及する琉球諸語研究の専門家で(も)ある下地理則氏の下記の記事をおすすめしておきます。以前もwebでけっこう話題になったので読んだことがある人もいるのではないでしょうか。

note.com

また、山口氏の本には危機言語以外にもいろいろな話題が出てきますが、この本だけから言語学や日本語に関する基本的な知識・情報を得ようとするのもまたおすすめしません(これは後半に書く予定)。この本から適切な情報を切り出すにはある程度の専門的な知識や文献を探して読む力が必要だと思います。私も調べないと分からなくて保留にしている内容もあります。

さいきんは良い本の紹介を優先していたのですが、せっかく通して読んだので、簡単なメモくらいは書いておくことにします。

正直Twitter (現X) で言及したことはちょっと後悔しています。なぜなら私の経験上、こういう非専門家向けの書籍(今回は新書)の問題点について書くというのは手間や労力もかかりますし書き方も難しい上に読んで好意的な印象を持った人からの反発を招くこともあって疲れることが多いからです。

さらに、丁寧な非専門家向けの説明を入れるととても時間がかかりますので、今回はあくまで私の読書メモという感じにしています。読書案内も基本的には付けませんが、私がむかし書いた関連記事に読書案内が含まれているものはあります。

また、この記事で言及するもの以外にも問題がありそうなところはいろいろ見つかります。kindleで気になるところにハイライトを付けながら読んでいたら蛍光ペンを使いすぎてどこが重要か分からなくなった教科書のようになってしまいましたので、すべて列挙するのは諦めます。私が言及した箇所以外の内容は信頼できるとは思わない方が良いです。

もちろん私の方が不正確である可能性もあると思いますので、できれば各トピックについてさらに詳しい方から解説等あると嬉しいです。

全体の印象

参照している文献は基本的なものが多く、議論の出発点になっている引用箇所などはそんなに変に感じることはありません。しかし、そこから展開される議論と導かれる主張・結論に違和感があることが多いです。特に根拠が示されることなく追加される筆者の見解や論理展開に問題があるケースが多いように見えます。

また、研究・調査が進んでいるトピックであるにもかかわらず参照されている文献が古いものだけとか、下で触れる個別のケースでも言及するように文献の参照の仕方に問題がある(都合の良いところだけに言及している)というようなこともあります。

ところで、脚注でWikipediaがかなり参照先として挙げられているのも気になりました。Wikipediaを参照すること自体がダメというわけではなく、専門家によってWikipediaにあるこの内容は信頼できるという明言があるとありがたいとも思うのですが、実際にWikipediaの該当ページを見てみてもその記事のどのような情報を参照したのかよく分からない挙げ方が多いです。

この下から具体的なメモに入ります。なお、kindleの電子書籍版しか手元にありませんので、引用箇所は「章タイトル:小見出し」という組み合わせ方でおおよその場所を示します。

言語と方言の関係、琉球諸語の取り扱い

問題の整理

長くなってしまうが先に問題だと思われる箇所を引用する。まずは「言語」と「方言」の関係に触れながら日本における言語にはどのようなものがあるかというのを整理しているところ。

『エスノローグ─世界の言語─』(Ethnologue-Languages of the World、第24版、二〇二一年)のデータベースには、現在、世界に存在する言語として七一三九種類が登録されています。けれども、大まかに六〇〇〇種類から七〇〇〇種類と考えておくのが妥当な気がします。というのは、言語を数えるのは、ものすごく難しい。一つの「言語」とみなすのか、それとも「方言」とみなして言語数にはカウントしないのか、といった問題が起こることが多いからです。
たとえば、『エスノローグ』の日本の項を見ます。すると、「日本語族」として、次の一二種類の言語が数え上げられています。
日本語、①北奄美語、②南奄美語、③喜界語、④徳之島語、⑤国頭語、⑥沖永良部語、⑦中央沖縄語、⑧与論語、⑨宮古語、⑩八重山語、⑪与那国語。
(中略).
私たち日本人は、これら①から⑪の言語を、日本語とは違った別の「言語」と考えていますか?いませんよね。日本語の中の「方言(琉球方言)」ととらえています。でも、『エスノローグ』では、別の言語としてカウントしています。ですから、『エスノローグ』のデータベースにある七一三九種類という数は、「方言」も「言語」数にカウントされている可能性が高く、割引して考えておくほうが無難だと思えます。
(第一章 おしよせる言語消滅の波:世界にある言語の総数は)

ここまででも長いが、次の部分も合わせた方がより問題点がはっきりする。

ユネスコの調査では、日本で消滅の危機にある言語は「八つ」と指摘されています。「えっ」と驚く方もいらっしゃるでしょう。そこに記されている言語とは、次のものです。
アイヌ語、奄美語、八丈語、国頭語、宮古語、沖縄語、八重山語、与那国語。
奄美語、国頭語、宮古語、沖縄語、八重山語、与那国語は、すでにお話ししたように、日本語の中の「琉球方言」と考えるのが普通です。また、八丈語も、日本語の中の「八丈島方言」です。「方言」だとしても、消滅の危機を迎えていることは間違いありません。
(中略).
方言は、国家という概念ができると、減少する傾向があります。ゆっくりと国家の標準的な言語形態に向かって方言が変化し、消滅していってしまうからです。
方言の消滅に続くのは、より高いレベルの国家語です。つまり「日本語」の消滅です。「日本語」の消滅の恐れさえ、抱かなくてはならない状況になってきたのです。消滅の波は、「方言」から国家レベルの「日本語」にまで、ひたひたひたと音もなく、おしよせてきています。
(第一章 おしよせる言語消滅の波:日本の消滅危機言語)

問題は以下に示すように複数あって整理するのは意外とややこしいように思う。

  1. 琉球諸語および八丈語を「方言」として取り扱っていること
  2. その根拠や自分の立場をはっきりとは述べず、読者の感覚などに委ねていること
  3. 国家(標準語)による方言への抑圧に言及はしていて、琉球諸語や八丈語を「方言」として取り扱っているのに方言に関する具体的な言及がほとんどない

琉球諸語および八丈語を「方言」として取り扱っていることとその根拠(1と2の問題)

「琉球方言」なのか「琉球語」なのかというのは日本語の研究ではよく知られている問題で、山口氏が本書でもしばしば引用している『言語学大辞典』の術語編(1996年刊行)「言語と方言」という項目でも具体的に取り上げられている。そこではどちらかというと方言とする立場が述べられているが、その後日本語からいつ分岐したのかということなどをはじめ研究が進み、現在は「琉球諸語」として取り扱い「日本語」「八丈語」と合わせて「日琉語族」とする考え方が標準的になってきているのではないか。

なお、エスノローグの分類は言語学的な研究でなされるものよりはかなり細かくなっている。琉球諸語の研究内でもいくつかの立場あるようだが、下記の記事でその分類の1つや日本語と琉球諸語の「距離」についても紹介しているので興味のある方は見てみてほしい。重要な箇所は記事内に引用してある。

dlit.hatenadiary.com

現在日本語の研究者として琉球諸語を方言とする立場を取るなら、琉球諸語に関する最近の研究(概説書でも良い)を1つでもいいから挙げて「でも自分は方言と考える」と宣言するのがフェアではないだろうか(その是非は別としても)。しかも新書なので想定される主な読者は上述のような研究の状況をまったく知らない非専門家ではないのか。

なお、本書では危機言語に関する文献は複数参照され、2010年代の文献も時折参照されているにもかかわらず、最近の琉球諸語に関する文献はまったくと言って良いほど参照されていない。

個人的には琉球諸語を「方言」と判断することの根拠や自身の立場をはっきりと示さず、読者の捉え方に委ねたり「普通はそうだ」としか述べていないところがより大きな問題ではないかと思う。「日本語の研究では長く方言として扱われてきたので自分もそれを踏襲する」というくらいのことすら宣言していない。

確かに言語(と呼ぶ)か方言(と呼ぶ)かという線引きは難しく、また言語そのものの特徴だけでなく政治的な要因などが関わるということは、言語学概論のような授業の最初の方で出てくるような基本的な話だ。しかしそれは言語の専門家が根拠も示さずに好きなように呼び方や分類を決めて良いということではないだろう。

方言に関する具体的な言及がほとんどない(3の問題)

理由は良く分からないが、本書では日本の「方言」についての言及がものすごく少ない。言語の危機と消滅が主題の本であり、言語と方言の区別の難しさにも「方言」の消滅にも一応言及があるにもかかわらずここまで「方言」を取り上げないのは不自然にさえ感じる。

琉球諸語を「方言」扱いにすることで、「日本の危機言語はアイヌ語だけ」というような結論を出してしまったりもしている。

一九九七年には、「アイヌ文化振興法」が制定され、それをきっかけに、アイヌ語の保護育成活動が起こっていますが、残念ながら消滅危機言語から抜けきってはいません。というわけで、日本での消滅危機言語は、アイヌ語だけと考えていいでしょう。
(第一章 おしよせる言語消滅の波:日本の消滅危機言語)

アイヌ語についてはこの箇所のほかにも弾圧・抑圧の話が具体的に紹介されている一方、「方言」に対する弾圧・抑圧の話はまったく出てこない。なお、沖縄・琉球だけに言及がないというわけではなくそのほかの地域の「方言」にも言及がないのでやはり「方言」への言及を避けているのでないかとしか思えない。

「方言」の話をするのは大変なので便宜的に避けたのかという可能性も考えたのだが、次のような箇所を見るとそうでもなさそうである。

日本人の多くが日本語を「母語」とし、「母国語」とするというのは、極めて恵まれた状態であることを、まずは心にとめておいてください。一国一言語に近い状態にある国は、韓国、北朝鮮、モナコ、バチカンくらいしかないのですから。
(第五章 母語の力を意識する:母語とはなにか)

また、たとえ「便宜的に」というような理由で「方言」への言及を避けていたとしたらそれはそれでひどいというか、言語の危機と消滅を扱う本としては本末転倒ではないかという気がする。

言語の危機と消滅を扱っている本であるにもかかわらず言語の保存・保持・復興に関する活動や言語政策には具体的な言及が少ないのも特徴的である。弾圧・抑圧の方では一応上記のアイヌ語の話のほか、第二次世界大戦時の日本の植民地に対する日本語教育の話や、ほかの国・地域の話などにも言及がある。

下記のように警告している前の部分にマオリ語とハワイ語の言語政策・言語復興について言及があったりはするのだが、

日本人が日本語を守らなければ、日本語は消滅するのです!
(第八章 多様性こそ活性化の源:日本語に自信と誇りを持って)

それなら、現在日本で行われている琉球諸語や各地域方言を対象にした保存・保持・復興に関するさまざまな取り組みに少しくらい言及があっても良いのではないか。

なお、日本語以外の言語に関する言及具合もどうもアンバランスな感じで、ヘブライ語の言語復興についてはこんな言及の具合になるかなという印象だが、「アイルランド語」については、危機的状況と英語の脅威のみが強調されすぎではないかと思える。

アイルランド政府は、この事態を重く見て、アイルランド語の保護復興に力を尽くしているのですが、英語を話したほうが経済的・社会的メリットがあるので、アイルランド語は、学校で学ぶだけの言語になっています。
(第二章 文字はどんな力を持つか:文字があっても、消滅する)

後半の方でも言及がある。

アイルランドの人々が自らの意志でアイルランド語を捨てて英語にのりかえているように、日本人も自ら日本語を捨てて英語にのりかえる人が多くなる可能性があります。
(第八章 多様性こそ活性化の源:絶対に心配はいらない?)

アイルランド政府が頑張っているということは一応述べられているが、実際の言語政策は紹介されていない。また、確かに全体としては厳しい状況ながら話者が日常的に使用している地域もあるのではなかったか。

さらにそのほかの問題

ほかにもいろいろ気になるところはあるのだが、その中から2つ紹介しておく。

まず、言語が「役に立つかどうか」とか「ユニークな特徴を持っているかどうか」ということと、消滅させてはいけないという主張・結論をダイレクトに結びつけている点である。

独自性を持った言語ほど、人類の進歩に役に立ちます。日本語は、粗末にしてはいけない価値を持っている言語です。
(第八章 多様性こそ活性化の源:日本語に自信と誇りを持って)

特に危機言語について「役に立つから守らなければならない」というロジックの危うさについては、上でも紹介した下地氏の記事で説明されているので、ぜひ読んでほしい。

note.com

公平のために触れておくと、筆者は言語がその話者集団のアイデンティティにとって重要だという話もしているし、役に立たない言語は消滅しても仕方ないというようなことまで言っているわけではない。

もう1つ気になるのは手話の話が(も)まったく出てこないことである。

なぜそこが気になるのかというと「日本の危機言語」としては、上述のエスノローグでも、ユネスコの方でも手話が挙げられているのである。

山口氏は危機言語のリストについてはユネスコの方のリストを参照していて、本書の脚注に挙げられている下記のページでも日本手話と宮窪手話がリストに入っている(ユネスコのサイトでも確認したがそちらでも挙げられていた)。

www.hasegawadai.com

また、エスノローグの方では、奄美の古仁屋手話が危機言語として挙げられている。

日本の危機言語の話であり、また日本語(日琉語族)と系統関係がないと認めているアイヌ語にも言及があるのだから、手話をわざわざ外す理由がよく分からない。一応、山口氏が参照したときに手話が載っていなかった可能性はなくはないが、閲覧したとされている日付を見るとその可能性も低そうである。

おわりに

思ったより長くなりすぎたので、一番気になった方言の話だけでこの記事はここまでとします。書き始める前から書いているうちに後から問題が出てきそうだという予感はありました。

おそらく、私よりこの辺りのトピックが専門の方が読むともっとほかにも問題が見つかると思います。

こういう問題点の指摘に対して「一般向けの情報提供に完璧を求めるな」とか「分かりやすさを優先すると正確さが犠牲になるのは仕方ない」といった反応が出ることがあります。それは一般論としてはよく分かって、私がこれまで紹介してきた書籍なども別に完璧なものではありません。この辺りは専門家でもポリシーや基準が異なりますが「さすがに最低限この辺りはなんとかしてほしいライン」があるというのが私の感覚です。

ハナミズキ語に含まれるコンパクト語も探してみよう

ハナミズキ語、すごく面白いですね。

は→はな→はなみ→はなみず→はなみずき、というように一文字ずつ足していって言葉が成立するもの.
ハナミズキ語(或いは右切り捨て可能言葉)集め|海

私はこういう言葉遊び的なものはぜんぜんセンスがあれなので、アイディア自体を思いつく方にも、探すことができる皆さんにも感服です。

さて、理屈先行かつ言語学の研究に携わっている人間だからなのか「アクセントも引き継がれてるものがあったら面白いな」ということを思いついてしまいました。でもセンス×な自分には探すの無理そう…と思っていたら、こんな素晴らしいプログラムを書いてくださった方が。

というわけで、提供されているリストを見てみたら思ったよりあっさり見つかりました。「コンパクト」がその例です。ハナミズキ語にならってこれを「コンパクト語」と呼ぶことにします。

  • コンパクト語:ハナミズキ語のうち、一文字足しても元の語のアクセントが継承されているもの

なお、どれがその語のアクセントなのかということの判別は時に難しいのですが、遊びの範疇ではそこまで厳しく判定しないでも良いかなーと思います。一応、多くの方が使いやすい方法をと思って『NHK日本語発音アクセント新辞典』でも調べてみました。アクセントの位置を示す表記法も同辞典に従います。

ハナミズキ語としての構成は「こ(粉/弧)→こん(紺)→コンパ→こんぱく(魂魄)→コンパクト」、それぞれのアクセントは下記のようになっています。

  1. こ\(が):粉/弧
  2. こ\ん:紺
  3. こ\んぱ:コンパ
  4. こ\んぱく:魂魄
  5. こ\んぱくと:コンパクト

コンパクト語はハナミズキ語の真部分集合になっていると思うので、興味のある方はハナミズキ語を考えたり探したりするついでに、探してみてはどうでしょうか。なお私は上記のリストで「コンパクト」を見つけた時点でやめてしまいましたし、そこまでも一語一語検証したわけではなく気になる奴だけピックアップして調べたので、「コンパクト」の前の部分にもあるかもしれません。

実は予想としては見つかるならぜんぶ平板型のやつかなと思っていたので意外でした。5モーラでいわゆる頭高型(最初の位置にアクセント)はあまり多くないですしね。2モーラ目に撥音入りなのがちょっとずるい?感じでしょうか。重音節無しで5モーラまでのびるものが見つかったら面白いと思います。

追記(2023-10-02)

コメントありがとうございます。

ハナミズキ語に含まれるコンパクト語も探してみよう - 誰がログ

1音の言葉は当然1音目がアクセントなのでコンパクト語になるには全ての語頭がアクセントにならないといけない。実質コンパクトと同じ発音でなければコンパクト語になれないのでは

2023/10/02 01:56
b.hatena.ne.jp

意図が正確に汲み取れていなかったら申し訳ないのですが、アクセントがどこかに位置する起伏型だと1モーラ語(上の例だと「粉/弧」)のアクセントを引き継ぐので自動的にその後もすべて最初にアクセントがあるパターンになるという推測は適切だと思います。

ただ、1モーラ語のアクセントは一応最後にあると考えることもできるので、すべて最後にある次のようなパターンも考えられます(いわゆる尾高型)。長いのを探すのは大変なので3モーラまででやります。

  1. て\が:手
  2. てま\が:手間
  3. てまき\が:手巻き

こうやって並べるとなんか移動してるような感じがしちゃうかもしれませんけれど。

さらにもう1つ可能性があるのは上で平板型と呼んでいるやつです。3モーラまででやると次のような感じになります。これも前の語のアクセントを引き継いでいると考えて良いのではないでしょうか。

  1. ひ(が):日
  2. ひざ:膝
  3. ひざし:日差し

平板型は言わばアクセント(の位置)がないタイプなので不思議に思う人もいるかもしれませんが、一般的には日本語(標準語)のアクセントのパターンの1つとして扱われるのではないかと思います。