誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

東日本大震災の断片的な記憶(茨城県つくば市)

はじめに

東日本大震災(の発生)から15年ということで、被災時、被災直後の覚えていることを少しだけ書くことにしました。

最初は書くのがためらわれたので少し遅くなりました。次の節目は20年で5年後ということを考えると、確実に今より余裕がなくなっていると思いますし(主に仕事)、ネットに何か書くモチベーションが保てている自分があまり想像できませんので、断片的にでも記録を残しておくことにします。

私は茨城県つくば市で被災しました。震度で言うと6弱です。

具体的な話は下に書いていきますけれど、やはり東北や長野、茨城県の北部に比べると被害は軽かったように思います。その分、あまり語られているのを見ることがありません。ニュースバリューのようなものがなくても、こういう個人的な体験を残せるのはwebの良さの1つですよね。

下書きを書いてみて、だいぶいろいろ忘れてきていることに気付きました。もう15年ですもんね。しかし、忘れられるというのは幸せなことでもあると思います。自然災害だけでなく、一旦「被害者」になってしまうと、周りがステージから降りることを許してくれず、忘れられないということがありますから。さいきんは被害者であることは間違いない人に対してすら「被害者ぶっている」「被害者仕草」のようなひどい言葉が投げかけられることすらありますし。

ここから先は、具体的な体験談を中心に書きます。あまり生々しい描写とかはないと思いますが、読む際はご注意ください。

地震発生時の状況

上にも書いたように、最初の地震発生時は茨城県つくば市の、春日四丁目という地域にある当時住んでいたアパートの自室にいました。

博士号取得後で、筑波大学で非常勤研究員、他大学でいくつか非常勤講師をしていたときです。

アパートの部屋は大学院生のときから借りていたもので、当時の家賃は月27,000円。今ではこの水準のアパートはあまり残っていないのではないでしょうか。当時の基準でもかなり安い方でした。それでも6畳一間で、風呂トイレも共同ではありませんでした。

2009年に結婚していまして、春休みだったので当時四国の大学に勤めていた妻が部屋に一緒にいました。大学教員や研究者だとそれほど珍しくないと思いますけれど、最初から別居婚で、婚姻届をつくば市役所の今はなき桜庁舎に出したとき、住所が異なることを職員の方に驚かれたのを今でも覚えています。

地震発生直後

1998年に筑波大学に入学してからずっとつくばに住み続けていましたので地震にはだいぶ慣れていたのですけれど(沖縄から出てきた当初は震度3くらいでは動揺しない周りの人たちが信じられませんでした)、それでもすぐに部屋を飛び出すくらいの「これはやばい」という直感が働きました。

最初の大きな揺れで、少し高いところに置いてあったガラス細工かなにかの小さな置物が、机上に置いてあった手鏡に直撃して鏡が割れてしまいました。ものすごい焦っていたはずなのに、「よくあんなピンポイントで直撃したな」「あとで部屋に戻ってくるときに破片に気をつけなきゃな」と思ったのを今でも覚えています。

かろうじて携帯電話と財布は持ち出すことができたのじゃなかったかな。ただ、どちらかはこのあと部屋に引き返したときに回収したのだったかもしれません。アパートの駐車場でやはりほかの部屋から出てきた住人たちとしばし呆然としていたところに、2回目の大きな揺れがきました。

妻は四国にいれば被災を免れていたはずでまさに災難でしたけれど、私としては身近に親しい人がいるというのはほんとうに心強いことでした。

アパートの部屋は入口横に設定してあった高さのある棚が倒れたために最初は開けられずだいぶ苦戦しました。ただ、家具が邪魔になってどうしても開かないというような状況にはなっていなくて、かなり無理やりがんばったら押し開けることができて助かりました。

そのあとすぐに、近所のコンビニに飲料水や食料などを買いに行きました。当時はセルフレジとかはまだなかったので店員さんが売ってくれたということですから、すごいですよね。

このとき、沖縄にいる両親に携帯電話で連絡することができました。発生直後だったからなのか、ほんとに単なる幸運だったのか。これはあとから考えるとすごく幸運でした。このあとしばらくは携帯電話での通話はできなくなってしまったのではなかったかと思います。

地震発生から少し経って

つくば市の、少し離れたところに妻の友人(女性)が生後それほど経っていない赤ちゃんと一緒にいるのが心配という話になり、連絡が取れたのでそちらの自宅に向かいました。

家のテレビが壊れて見れないので、カーナビに付いているテレビでニュースを見ようとしたところ、東北の津波の映像が繰り返し流されていて、それをずっとただただ見ていました。

自分たちもどうすれば良いのか、今どういう状況なのかということが分からず途方に暮れていたというところもあったでしょう。でもずっと見続けているとつらいということで、自分たちで見るのをやめて今後どのようにするかを検討し始めたのだったと思います。

その後、私と妻2人ともこの友人宅にしばらく住まわせてもらえることになり、ほんとうにありがたかったです。この方の夫が災害への対応で仕事に出なければならない職業の方で、生後間もない赤ちゃんと母親の2人だけというのは大変という事情もあったように記憶しています。

地震発生直後の生活

私の住んでいたアパートとこの友人宅は、つくば市内でもそれほど離れていないところにあったものの、電気や水道の復旧についての状況はけっこう異なっていました。

これはほかの記事やTwitterで書いたかもしれませんけれど、当時つくば市のある課が試験的に運用していたTwitterアカウントが水の配給などの情報提供をこまめにしてくれていて、大変助かりました。つくば市のwebサイトは、特に地震発生の後はつながらないときが多かったように記憶しています。

このとき、Twitterでの情報共有にはほかにもいろいろ助けられました。印象が強いのは、ガソリンスタンドの状況の共有でしょうか。特にしばらくは、時には何時間も待ってガソリンを入れるという状況があったように思います。

地震発生直後にスーパーに買い物にいったときに、水がぜんぜんなくて、やっとあったかなと思ったら焼酎や日本酒などのアルコール類だったということがありました。これは後日、似たような体験をした人がけっこう多かったようだということを知りました。

しばらくは毎日ニュースなどの情報を追いつつ、日々の生活をどうするか対応に追われてはいたものの、非日常的過ぎておそらくやや興奮状態にあったこともあり、それほど追い込まれた状態にはならなかったと思います。

住んでいた安アパートも、部屋の中はめちゃくちゃになったものの、アパート自体がダメになるということはなく、しばらくしたら戻れましたし。

大学で非常勤研究員で使っていた部屋がダメージとしてはひどかったです。新しく立てられた比較的簡易的な建物だったということもあったでしょうけれど、壁がずれて床と離れたりしてましたからね。しかしあとでいろいろ話としては聞きましたけれど、当時教員だった先生方はほんと大変だっただろうなと思います。

近畿圏の方からの励まし

地震発生直後に、近畿圏に住んでいる何人かの研究関係の方から思いのほか励ましのメールをもらってとても心の支えになったのが印象的でした。

中にはそれまであまり交流が頻繁でなかった方も含まれていたのですけれど、ほとんどのメールには、阪神・淡路大震災のことを思い出して心配になったということが書いてありました。

おわりに

妻は、3月中には四国に戻ることができました。4月から新学期も始まるのでその準備とかありますし、何よりもつくばに留まってまた大きな地震が来たら、という不安がありましたので無事帰れたときはほんとうにほっとしました。

このときにどういう交通手段をとったのかあまり詳しいことは覚えていません。でも、とにかくなるべく早く帰れるようにしたのではなかったかな。

2011年度は、筑波大学での非常勤研究員の職もなくなり、完全に非常勤講師のみで生活した1年でした。言語学会のシンポジウムで発表させてもらえるというような幸運はあったものの、全体的に心細い1年だったような気がします。2012年度からまた筑波大学で専任職を得られるわけなのですが、このときは非常勤生活を3年くらい続けていて公募全敗だったので、あまり希望は見えていませんでした。

書いていたらまた何か思い出すかなと思っていたのですけれど、それほどは思い出せませんでした。でも、それは最初にも書いたように幸運なことなのかもしれません。人と話したらまた何か思い出すこともあるかもしれませんね。

言語学とデジタルコミュニケーション研究のこれから

はじめに

この記事は言語学な人々 Advent Calendar 2025 の4日目の担当として作成したものです。

adventar.org

また、この記事の内容は、Twitterに関する論文、

(PDF) Twitter (X) 上の日本語を対象にした言語学的研究に関する覚え書き

デジタルコミュニケーション研究会での発表

(PDF) マイクロブログを対象にした日本語研究の可能性:XからBlueskyへ

で書いたり言ったりしたことから抜粋して整理したものです。

内容はささやかなものですが、若干煽り成分も含んでいますので、大仰なタイトルにしました(ほかに良いのが思いつかなかったというのもあり)。

なぜTwitterに関する論文(上記)を書いたか

この論文を書いた一番の理由は、2024年までにTwitterからXへの移行とそれに伴うさまざまな変化が急激で予測が付かず、またその後が不安になるようなものが多かったので、「今記録も兼ねて参照可能な形で文章化しておかないとヤバい」という焦りがとても大きくなったからです。

アイディアはそれまでに考えたことや調べたことで材料がいろいろ揃ってはいましたが、かなり急いだ執筆になってしまいました。それにもかかわらず当時情報収集に協力してくださった研究者の皆さん、ありがとうございます。

この論文の内容に関するアイディアの原点は、自然言語処理との合同勉強会での発表(2014年、下記参照)です。

第8回言語学×自然言語処理合同勉強会の発表スライド(Twitterと言語研究の話)を公開します - 誰がログ

この時点でTwitterはすでに巨大なデジタルメディアとしての地位を確立し、日本語社会にも十分定着していたので、自分が研究しなくても自然に言語学・日本語学分野での研究も増えていくだろうと楽観視していました。使用している研究者も多かったですしね。私の一番の専門は次のようにTwitterの研究からはそこそこ離れているということもありますし(宣伝)。

共著書『形態論の諸相』が刊行されました(読み方とか訳語とか) - 誰がログ

しかし実際には、言語学・日本語学分野でTwitterを対象にした研究は思ったほど増えませんでした(楽観視分を差し引いても)。私にとって「2024年」というのは、上の発表からちょうど10年という意味合いもあったのです。だいぶ遅きに失した感もありますが、自分でももうちょっと発表や論文のような形にしていこうという決意表明も兼ねて、2024年の論文を書きました。

ざっくり言うと、10年経っても状況が良くならなかったので自分でもやるか、というところです。私は言語学分野ではコミュニケーション研究についてそれほど専門家ではありませんので絶対にもっと適役な方々がたくさんいるのですが、そういう人たちが本格的に動くまでのつなぎ役くらいはやろうかなと。

言語学(者)と新奇な/非規範的な言語現象

言語学の概論的な授業を受けたり、アウトリーチ的な企画に参加したりした人は、「言語学は若者言葉やネットスラングのような表現について「正しくない」とか切って捨てるのではなくちゃんと分析対象にします(できます)」という話を聞いたことがあるのではないでしょうか。

これ自体はその通りなんです。でも、研究論文や研究書の形にまでなっているものは、思ったより少ないと思います。教科書で分析の例示として取り上げられたり、コラム的なところに登場したりはするんですけどね。もちろんガチなレベルの研究発表で取り上げられているのもそれほど珍しくはないんですけど、その後を追うと論文化はされていなかったりする。

上記のTwitter論文でも紹介している「み」の新用法(「食べたみ」とか「わかりみ」みたいなやつ)に関する国際誌論文なんかはむしろ例外的な方だと思います。

Mi-nominalizations in Japanese Wakamono Kotoba ‘youth language’

私もいつの間にか言語学・日本語学という分野で研究活動を始めてから20年以上経ちましたが、流行語、若者言葉、俗語、スラング、のような新奇な/非規範的な言語現象に対しては、業界内でもやや厳しめな目があると感じます(もちろん研究者にもよります)。

TwitterとかLINEとか、比較的新しめのメディアについても、それこそSNS上とか、YouTubeのような場とか、学会での雑談や質疑応答では「面白いよね」と言及されるのに、実際の研究のアウトプットがそれほど増えていないのは個人的にはちょっと健全ではない状況なのではないかとさいきんでは考えるようになりました。ちょっと厳しい言い方をすると、分野の事情に詳しくない人からはダブスタというか言ってることとやってることが違うと捉えられてもおかしくないのではないかという心配があります。

もちろん、新しい現象や資料について、十分その意義や質が確かめられたものより慎重な姿勢が取られること自体は良いことなんですけどね。言語学・日本語学が、言語や日本語に関する研究のエキスパートを名乗るのであれば、それを踏まえてさらにチャレンジした方が良いのではないでしょうか。

上で紹介した、デジタルコミュニケーション研究会での発表の資料に書いたことから引用しておくと、「たとえば100年後、誰かがこの時代によく用いられていたコミュニケーションツールとしてTwitterの研究を探したときに、「なんだか日本語学では研究されてなかったみたい」となるのは分野の人間としてはさみしい」のです。

これはTwitterだけでなく、Instagramとか、YouTubeなど動画系での実況やコメントとか、さいきん私自身も取り組んでいるデジタルゲームとかにも及ぶ話です。

ただTwitter論文にも書いたように言語学・日本語学という分野自体圧倒的に研究者の数が足りていないので、状況的に仕方ないところでもあります。

おわりに

研究者の皆さん、それでも、少しでもやったものを形にしてもらえるととても嬉しいし助かります。釈迦に説法ですが、文献が0と1とでは大違いですので。上記Twitter論文も、そのような踏み台にできるものを1本、ということでむりやり形にしたところがあります。壊れて跡形もなくなるくらい踏み台にしまくってもらえると著者としては嬉しいです。

これから研究してみたいなと考えている皆さん、大変かもしれませんが、これからもう少しは状況を整備しておきますので、気になる方は研究テーマの1つとして考えてみてください(いちおう進行中の取り組みもいくつかあります)。

私自身は、次の少なくとも10年は、デジタルゲームとデジタルコミュニケーションの研究を最優先の研究テーマにすることにしました。10年で多少の基盤整備くらいしかできないかもしれませんが、面白い研究はいろいろ出てきているので、楽しみな側面もあります。依頼でいただくお仕事はこれまでの業績によるので依然として形態論・理論言語学絡みのものが多く大学の業務が肥大化する中どうやりくりするか頭の痛いところではありますけれども。

パラオにおける日本語に関する補足:今村・ロング (2019) の確認だけ

先週末から今週前半は集中講義のために神戸市外大に行っていて、そちらにかかりっきりだったので、まつーらさんの記事に昨日気付いた。

「25%が日本語由来」とか言語学者だったら言わなさそう|まつーらとしお

記事中で言及されている今村・ロング (2019) は借用・外来語(語彙層)の研究をしている関係で購入済みだったので、簡単に確認してみた。

パラオにおける日本語の諸相 今村圭介、ダニエル・ロング著

パラオ語における日本語由来の語彙の割合・比率について、購入時にざっと読んだ際に書かれていたかどうか思い出せなかったのだが、今回改めて読んでみてもそのような記述は見つからなかった。下記のような存在感に関する記述がある程度。

900語を超える日本語借用語がパラオ語に見られ語彙体系の一部として重要な機能をなしている。戦後70年たった現在、パラオ社会全体の変化や日本語を理解する世代の急激な減少により、使用される日本語借用語の数が減少するとともに、いくつかの借用語の意味や音に変化が起きている。(今村・ロング 2019: 113)

「900語を超える日本語借用語」という数はまつーらさんも紹介している下記の辞典の項目数ともほぼ同じ(完全に一致しているかどうかは未確認)。

A Dictionary of Japanese Loanwords in Palauan

なぜこれくらいの数になったかについては、本書の研究とも深く関わるところで明確かつ詳細な記述がある。この900-1,000(弱)という数自体は本書にたびたび登場するが、パラオ語の語彙における割合・比率に関する情報は見つけられなかった。もちろん私が見落としていたり、他の文献では言及がある可能性はある。

本書の巻末にも「付録 日本語借用語一覧」という資料が付いており、上記の辞書とは違って、話者による使用・認知の度合いの情報がそれぞれの語について付されている。たとえば"bakking"(罰金)は、『ツカレナオース!』の方のAmazonページの紹介画像中でも取り上げられていて上記の辞書にも項目はあるが、「一部に認知されるが使用されない」となっている(今村・ロング 2019: 188)。

「第9章 アンガウル州の公用語としての日本語」に気になる一節があったので引用して紹介しておく(具体例は挙げられていない)。

「パラオで日本語が公用語となっている」という話題は、一般人の間にも関心が高く、インターネットの書き込みなどを中心によく聞かれることがある。しかし、完全に間違っている情報から、誤解を招く情報まで様々な不適切なものがある。(今村・ロング 2019: 99)

本書で取り扱っているトピックは、日本語からの借用語(語彙)だけでなく文法、表記、教育、法、接触言語など多岐に渡り、特に借用、外来語、言語接触に興味がある人にとってはどの言語を専門にしているかに関わらず大変参考になる研究であるという印象を改めて持った。