誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

古典、ひいては自分から「遠い」ものを読むこと

 ここのコメント欄の議論を読んで(もちろんROM)考えたことです↓

 気になったのはコメント97, 98辺りから始まる、「古典を読むことにどれだけの意義があるのか」についての議論です。
 ちなみに、実は以前書いた論理に関するエントリも若干ここの議論に触発されて書きました。当の議論、進むにつれて議論が拡散したり、なんだかかみ合わないやり取りが登場してきたりするんですね。それについても色々考えさせられたわけです。
 あと、このブログでも二回ほど著書を取り上げた伊勢田哲治さんが直接議論に絡んでるというのも注目してた理由だったりします(^^;

 さて、このエントリの目的はそれらの議論について評価したり、特定の論者について反論したりすることではありません。自分の研究フィールドにおいて次のような行為をどのように捉えているのか整理しておきたいというだけです。

  • 自分(の専門)から「遠い」ものを読むこと
    1. 専門に比較的関連する分野(僕なら「語形成」とか「活用」とか)の古典を読むこと
    2. 専門にあまり関連しない分野(僕だと談話関係とかかな?)の古典を読むこと
    3. 完全に領域外のもの(僕だとつまり「言語学+関連近接領域」以外)について、
      1. その入門書や解説書を読むこと
      2. その古典を読むこと

※なお、言語学には若い分野も結構あるので「古典」には三、四十年前ぐらいの比較的最近?のものも含めて考えています。

 さて、僕の基本的な考え方は、

  • 自分から「遠い」ものを読むことにどれだけの意義(利点)があるのかというのは、そのa)目的とb)状況(上の分類)に大きく依存する(だから簡単にどの選択肢が良い/悪いは言えない)だろう、ということと、c)リスクの観点から捉えるとわかりやすいのではないか、ということになります。

1. 「目的」の観点から見る
 まずは、読む人の立場というか「研究者かそうではないのか」から考えたほうが良いのかもしれませんが、意外と線引きが難しい気がするのでここでは対象を主に研究者として想定します*1
 目的については、荒過ぎることは承知で次のように二分できるかな、と考えました。

  1. 自分の研究内容に関する何らかのインスピレーションやアイディアを得たい。
  2. その領域に関するまとまった議論を効率よく把握したい。

 2についてはあまり議論の余地が無く、「定評のある教科書や入門書を読んだ方が良い」となると思います。もちろんできるだけ最近の動向も知りたいのならば、新しく発表されたものが良いですよね。(とりあえず言語学では)結構便利なのが博士論文です。そのテーマのものについては、問題点や時系列に沿った丁寧な重要文献に関しての詳細なまとめがあることがほとんどですから。また教科書や入門書には載らない結構専門的な文献についてのまとめも読めることが多いですし。
 結構考えてしまうのが1についてなんだと思います。これについては次の2.「リスク」の観点から、で詳しく考えてみます。

2.「リスク」の観点から考える
 さて、まず簡単に「リスク」という用語の意味を明示しておきましょう。もっと詳細な議論はwikipediaの記事などを参考にしてもらうとして、ここでは

  • リスク(risk):ある行動をする(あるいはしない)ことによって、不利益を被る可能性

ぐらいに考えておきます。
 なぜこんなことを言い出すかというと、私たちの時間は限られているからです。何を当たり前なことを…と思われるかもしれません。何が言いたいかというと、つまり、もし時間が無限にあるならば、どんなものだってとりあえず読んでしまえば良い、ということです。それで特に何も得られなくても時間はたっぷりあるのだから、特に不利益にはならないでしょう*2
 つまり、自分から「遠い」ものを読むという行為は、時間や労力を確実に消費するのにも関わらず、利益を得られる可能性が低い、あるいは読んでみるまでわからない(!)という点でリスクが大きいと言えます。ここで、利益と不利益を次のように考えてみましょう。

  • 利益:自分の研究に関する何らかのインスピレーションやアイディアが得られる。
  • 不利益:特に有益な情報が得られない(≒時間と労力の浪費)

 ここで重要なのは、「遠い」ものというのは、そのリスクが大きいのとまったく同じ理由で、「その利益の大きさもあまり見積もれない」ということです。リスクが大きく、しかし儲けももしかしたら大きいかもしれない…なんだかギャンブルっぽくなってきましたね。ところで、自分のことについて述べておくと、僕は「遠い」ものも積極的に読み漁るタイプです。ということは僕は研究に関して一種のギャンブラーなのでしょうか。
 しかし、ここでリスクには「行動しないことによる不利益」という面もあることを考えてみましょう。つまり、リスクが大きいからといって「遠い」ものを読まない場合、その状態ですでに「読まないことによる不利益」を被っている可能性があるわけです。
 このように考えると、「遠い」ものを読むという行為はリスクが大きいからやらない、というのは確実に堅実な選択であるとは言えなくなってくるのではないでしょうか。つまり私たちは「遠い」ものに関しては、

  • それを読むことによるリスクがなるべく大きくならないように、状況や読む対象の性質に応じて判断した方が良い。また、その判断の技術を上げていくべきである。

と考えた方が良いのではないでしょうか。リスクを小さく抑えるためには、もちろん自分で色々試行錯誤してみる必要があるでしょうが、他にも例えば「詳しそうな先輩や先生に聞いてみる」といった事前の下調べなども有効だと思います。
 では、ここから先は参考までに読むものの質に応じた私見を述べていきたいと思います。

3.何が得られるか
 と、その前に、どういう利益が期待されるか一般的なところを書いておこうと思います。
◆古典から得られること

  • 切り捨てられた現象や議論

 基本的に、というか当たり前ですが、古典がその後の文献によって紹介される場合、その重要な部分が抜き出され整理されます。その過程でたくさんの現象や議論、概念などが切り落とされることになります。古典を読んでいると興味深い現象の記述や提案などに出会うことが多いです。特に脚注や展望などには現在では解決されたものの他に、忘れ去られた、あるいは注目されなかった現象や課題などが書かれていることがあります。

  • 理解から実感へ

 入門書や教科書の紹介を読んで、その議論を「理解」するということは比較的楽にできると思います。時には原典を読むよりよりその方が楽だったりするでしょう。しかし大体の場合、一つの独立した議論でも様々な他の議論や動機となる理論的背景、問題などと絡み合っています。そういった背景などを丸ごと体験することによって「なぜそれが問題なのか」「なぜそういった解決が選ばれたのか」といったことに対する「実感」を得ることができる場合があります。この「理解」と「実感」の違いは研究を進める上で非常に重要であると個人的には考えています。
◆違う分野から得られること

  • 新たな議論の可能性

 議論の構造にはある程度のパターンがあると思います。内容としては全然言語学と関係無くても、似たような自分の知っている議論とその論理を重ね合わせながら読むことで、思わぬ可能性や反論の方法を思いつくことがあります。つまり、「お、そういう突っ込み方もあるのか!」とか「そんな第三の可能性もあったなんて…これはあの議論にも当てはまるんじゃ…」といったことに気付かせてくれたりします。

4.特徴別雑記
 では、それぞれの種類について個人的な感想を記しておきます。

◆専門に比較的関連する分野(僕なら「語形成」とか「活用」とか)の古典を読むこと
 これはもう、かなりオススメです。著者にもよりますが、古典は基本的に忘れ去られた現象の宝庫です。また、もしかしたら近い将来それもきちんと読まなければいけなくなる可能性もあることですし、できるだけ読んだ方が良いです。もしかしたら研究の新しい方向を見つけることができるかもしれません*3
 また、概念や理論についても、当時は難しかったけれども現在の理論にはうまく乗るようなアイディアについて言及されていたりしますし、実は後の人たちがあまり重視しなかった部分が非常に重要だったりすることもあります。
 自分が新しい提案として考えていたアイディアが実は古いものの中ですでに提案されていてがっかり、なんていうこともよくありますが…その場合僕は「この人も実は提案してたんです!」と味方にすることにしてます。

◆専門にあまり関連しない分野(僕だと談話関係とかかな?)の古典を読むこと
 この種類の文献もまた、実は新しい現象の発見につながったりします。どういうことかというと、例えばまあ談話関係→統語論、ということは少ないかもしれませんが、音韻論の論文を読んでいて、「おい、それ結構統語論に関係してるんじゃないか」などと思うことが結構あります。でも大体そういう性質については触れていないか、かなり適当な扱いを受けていることがほとんどです。
 こういう風に、他領域の文献の中でも、自分の領域のものとして捉えなおすことができそうな現象や議論というのは意外とあります(あくまで可能性ですが)。また、自分の専門で取り扱っていたような議論が実は他の領域にも属する問題かもしれない、というようなことに気づかされることもあるかもしれません。
 また、途中まであまり関係しないと思っていたら、いきなり自分の専門に関係する議論が出てきたりすることもあります。こういう論文のタイトルやキーワード、果てはアブストラクトからですらその存在がわからないものは、人から教えてもらうか、自分で出会うしかないのです。

◆完全に領域外のもの(僕だとつまり「言語学+関連近接領域」以外)について、
 これについては、やはり最初は入門書や解説書などを読むことをオススメします。インスピレーションを得るようなことが目的であれば、おおまかな議論が把握できれば良いのではないかと思います。もちろん、細かい概念の追求などから何かを得ることもありますが。
 この分野に関しては、読むかどうかは結構意見が分かれるところかもしれません。しかし、僕はこここそ、言語学者が参考にするべきところが大いにあると思っています。なぜかというと、数学、心理学、哲学、社会学、物理学、…などには参考にできる、あるいは参考にするべき概念や議論がたくさん散らばっているからです。
 また、言語学者がいかにお手軽にある概念を持ち出してしまっているかということを反省させられることもあります。「連続/離散」ということに関しては数学、哲学に、「情報」という概念に関しては哲学、社会学などにたくさんの濃い議論があります。そういった観点から言語学の議論を見直すことも重要なのではないでしょうか。


5.まとめ
 なんだか色々ごちゃごちゃ述べてきましたが、つまりは、

  • 「遠い」ものを読む、ってことは一見リスクが大きそうに見えるけど、そうでもないし、具体的な利点もたくさんあるんだよ。

ということです。まあ半分は専門以外のものを読み過ぎる自分に対しての言い訳じみたところもありますが(^^;僕はこういった活動によって、研究の過程でたくさんの驚くべき「実感」や「出会い」を体験することができたので、他の方にも体験してもらいたいなあ、と思ったわけです。
 また、言語学自体が結構学際的な性格をもっています。哲学、心理学、電子情報系の学術雑誌なんかを読んでると、言語系の雑誌に載ってるものより自分の専門に近いテーマの論文が載っていたりしてびっくりすることも結構あります。国語学系の雑誌にものすごく理論的に面白い論文がぽん、と載ったり。
 最近「テーマがあまり広がらなくて…」というような相談を受けることがあるのですが、時には思い切って「遠い」ものを読んでみるのも良いんじゃないかな、と思います。

*1:単純にその人の所属先からの線引きは簡単かもしれませんが、ここから先の議論は「研究」に当たるような行為をするかどうかが重要な気がしますので。

*2:不愉快になることはあるかもしれませんが。

*3:「なんだ、あの論文での紹介の仕方は間違ってるじゃないか!」とか、「この文献の本当に重要なところはあまり気づかれなかったんだなー」なんてことに気づくことすらあります。