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『日本語に主語はいらない』に突っ込む:(1)生成文法と日本語教育

 まずは簡単なところから。あまり順番どおりに取り上げるということにはならなくなってしまいますが、第4章「生成文法からみた主語論」から↓

 母語話者でない学習者を対象にする我々日本語教師にとって、生成文法理論の最大の弱点は、その考察や理論が教室で一向に役に立たない、ということだ。(金谷武洋『日本語に主語はいらない』p.147)

 この147ページまで読み進めてきた日本語教師なら、「一緒にしないで」という人も出てきそうな気もしますが、まあそれは置いておきます。ここで引用した部分は正しい認識だと思います。生成文法なんか全然知らなくても日本語教育はできますし、今現在日本語教育に直接生成文法の知見を応用しようと努力している人というのは、(ほとんど)いないのではないかと思います(「ほとんど」と書き添えたのは、僕は生成文法の研究分野の動向を全て知っているわけではないからです。一口に生成文法といってもたくさんの立場やアプローチがあります。その中でも、例えば語彙意味論なんかの分野では教育との連携があっても不思議ではありません)。
 しかし、ここでの問題は、

  • 教育に使えるかどうかということと、理論や説明が妥当かどうかということは独立した問題である。

ということです。金谷氏は上記の引用部分を、おそらく、生成文法の理論や説明が間違っている理由の一つとして挙げているのですね。はっきりと「だから生成文法は間違っている」と明示していないかもしれませんが、あの文章の流れだとほぼ断言しているのと一緒だと思います。
 そもそも生成文法に限らず、言語学というのは言語が持つ様々な仕組みや性質を理解しよう、という試みなので、その記述や説明の妥当性と教育に使えるかどうかは原理的に関係無いはずです。
 もちろん、

  • 言語の仕組みは基本的に教育に有用な成り立ちになっている。

という前提の下で研究を行うのは自由ですが、もしそうであれば言語の仕組みの研究を進めていれば自然に教育に適した文法書ができるということになって、人間はもっと語学に悩まされなくて済むような気がしますし、(第二)言語教育が専門の方々の研究や取り組みももう少し楽になるのではないかと思います(仕事が減っちゃうかもですが(^^;)。
 僕には、ある言語理論が「教育に向かないので間違っている」。という主張は、「相対性理論は高校生相手に教えるようにできていないので間違っている」、あるいは「ある科学理論Aがある応用工学Bに上手く援用できないから間違っている。」*1というぐらい無理な主張に思えます。
 教育に役に立たないのであれば、教育に使わなければいい、だけの話でしょう。だから、「日本語教育に有用な文法としては、生成文法は失格である」というなら話はわかります。それを生成文法理論自体の妥当性と混ぜて論じるのはとてもフェアだとは思いません。金谷氏は見たところ、ところどころでこういうロジック、というか論点のかき混ぜを行っているようです。これは啓蒙書としてはちょっといただけないのではないでしょうか。

*1:これは援用できない理由によってはあり得るかもしれませんが