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歯切れが悪いのは仕様です。

『日本語に主語はいらない』に突っ込む:(3)ちゃんと先行研究とか勉強してから批判してください

 タイトルの通りです。ちゃんと色々勉強・調査してから批判しましょう。これは議論の基本だと思うのですが…何より学究の徒ならばなおさらのはず。
 引用は本書最後の方から

日本でも米国でもないカナダという地理的な特権を大いに活用して、ご覧のように学界の権威と見なされている方々の主張も遠慮なく批判させていただいた。学者間の議論がそのまま非礼に繋がるとは思わないが、日本的感覚からは不愉快に思われた方もいらっしゃるに違いない。しかし、本書で展開した批判や反論は純粋に学問上のものであるし、個人攻撃や誹謗ではないことはご理解いただきたい。(金谷武洋『日本語に主語はいらない』p.247)

 二つに分けて検討してみます。

日本でも米国でもないカナダという地理的な特権を大いに活用して、ご覧のように学界の権威と見なされている方々の主張も遠慮なく批判させていただいた。

 この方の不幸なところは、日本に常駐していないために、日本の言語関係の学界事情・研究の現状に疎いというところがあると思います。あるいは、情報が入ってきても非常に偏っているか、情報量が少なすぎるのではないでしょうか(何回も書きますが、もしそれらの情報に精通していたならば、こんな内容の本は書けないと思います)。
 しかもこの書き方だと日本の言語学関係の分野では遠く離れたところからでないと大御所の批判はできないような印象さえ与えてしまいそうですが、そんな事情は無いと思います(少なくとも僕が知っている限りでは)。第一、研究自体が常にオリジナリティを要求されるものなので、むしろ大御所の批判なんかはそんなに珍しいことではありません。ただ、それなりに生き残ってきた論というのは部分的に批判、破棄するにもきちんとした証拠や議論が必要で、大変なことが多いというだけです。
 少なくとも僕が関わっている範囲では、もし大御所を批判するという発表をしたならば、少なくとも最初は興味を持って聞いてくれるし、タブー的な扱いは受けません。ただ、その論がなってないと叩かれるか、無視されるかするだけです*1
 日本で研究活動をしていないにも関わらず、なぜこんなに日本の学界事情を決め付けてかかるのでしょう…

学者間の議論がそのまま非礼に繋がるとは思わないが、日本的感覚からは不愉快に思われた方もいらっしゃるに違いない。しかし、本書で展開した批判や反論は純粋に学問上のものであるし、個人攻撃や誹謗ではないことはご理解いただきたい。

 ちゃんとした学問上の批判や反論を個人攻撃や誹謗ととる人はきちんとした研究者であればいないと思いますが…反応が過激な人はたまにいますけど(^^;しかし、「日本的感覚からは不愉快に思われた方もいらっしゃるに違いない」というのは日本の学問に携わっている人全体に対してあまりにも失礼ではないでしょうか。
 で、「学者間の議論がそのまま非礼に繋がるとは思わない」とありますが、学問に関する議論であれば何でも許されるかというと、そんなことは無いと思います。僕はこの本の中で金谷氏が展開されている論は多くが非常に失礼であると思います。それは、表現が攻撃的だとか、大御所に噛み付いているとかそんなことではありません。
 「あまりにも勉強せずに決め付けで批判し過ぎ」なのです。一例を挙げてみます。
 金谷氏は久野や柴谷の論を引いてきて、生成文法という理論自体が「主語」という概念を盲目的に設定し、強引な主張をしているように書いていますが、そんなことは全然ありません。久野氏・柴谷氏の研究はもちろん、日本語生成文法研究の中で*2非常に重要なものですが、その主張への賛否に関しては、いろいろな立場がありますし、実際に他にも議論や研究がたくさんあるのです。
 生成文法では、主語という概念を「構造上のある位置」のことであると考えます。なので、「英語には主語がある」という主張は、「英語では常にその位置がある(顕在的な)要素によって占められている」という主張になります。
 この点について言えば、例えば日本語生成文法でやはり重要な研究を多数発表されている黒田成幸氏、福井直樹氏、影山太郎氏などは「日本語ではその位置(≒主語位置)には要素が無くても良い、あるいはその位置自体が存在しない」という研究を発表されています*3。特に黒田、福井両氏の論文は80年代後半に発表されたものですが、日本語で生成文法をやるなら必読文献に挙げられるほど重要かつ有名なものです。実際に両氏の発想を現在の枠組みでも取り入れて研究している人も少なくありません。
 このような事情は、論文を読まなくても例えば日本語生成文法に詳しい人に聞けばすぐわかることです*4。しかし、金谷氏は久野・柴谷に対する反論をもってして、生成文法という理論自体が間違っているかのような論を展開してしまいます。これは、先人にも現在一生懸命研究している人々に対しても非常に失礼な議論の仕方でしょう*5
 他にも橋本文法は間違ってるから国語学系の分野はダメだとか、大野晋『日本語練習帳』はダメだったから現在の日本の研究は進歩してないとか…研究者ならちゃんと(新しい)研究論文も色々読んでください。しかも専門分野の専門のトピックのはずなのに…
 生成文法以外にも、例えば野田尚史氏や尾上圭介氏の研究にも全然触れてませんよね…先行研究を大事にするというのは、研究活動の大前提ですし最初に学ぶことの一つだと思うのですが。
 どこかの記事で、金谷氏が「自分はこんな本を書いたのに、全然批判などが無い。やはり日本語に関する学界は閉鎖的で権威主義的だ」みたいなことを書いてましたが(数年前の『日本の論点』だったかな?)、上のような事情があるから、取り合ってもらえないだけです。
 もし日本語の学界に一石を投じたいのであれば、研究論文を投稿すれば良いのではないかと思いますが…それが掲載されて、検討に値するような内容であれば、その後の他の研究論文や研究書で検討や批判がなされることでしょう。
 …いや、つい熱くなってしまいました…最近似たような内容で憤慨させられることが多いので(熱くなり過ぎたせいか、後でチェックしたらタイポがいつもより多かった…修正しておきました。すいません)。
 もちろん、ちゃんと勉強してからものを言う、というのは何より常に自分に言い聞かせている言葉でもあります。僕も研究者の端くれではありますので。

*1:あまりになってないと理由の説明もほとんど無く、「やめとけ/もっと勉強して出直せ」という反応を受けることがあるかもしれません。まあそれもダメだということを教えてもらえるだけ親切だと思います

*2:記述的研究においてさえ

*3:まあ影山氏はあまり積極的にこの点について議論しているわけではないが…

*4:もちろん、関連する研究論文を全て探し出してからでないと研究してはいけない、ということではありません。やはりカナダでは論文とか入手し難いんでしょうか…でも主要文献はさすがに落とすとまずいでしょう。

*5:分別のある人なら「私の知っている範囲では…」と書くとか、批判の対象を明示的に限定すると思います。でも、こういう方に限って一方的かつ決め付けで議論しちゃうんですよね…