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歯切れが悪いのは仕様です。

『日本語に主語はいらない』に突っ込む:(5)仮説ってなんだっけ

◆「第4章 6「サピア・ウォーフの仮説」とチョムスキー理論」から
 さて、金谷氏は(2)「深層構造」の把握に関係する問題で取り上げたように、深層構造や変形という(初期)生成文法の道具立てについての誤解から次のような主張をしてしまいました。

  • 生成文法の「深層・変形・移動・省略」などを用いた説明は「何でもアリ=検証不可能」な主張だ!

 この批判?が正しくないということは上のエントリで書いたので割愛します。
 今回気にするのは、その流れでサピア・ウォーフの仮説を紹介した後に出てくる次の主張です。

 さて、私がこれまで「サピア・ウォーフ説」を長々と紹介したのは実は伏線である。私が不思議なのは、「サピア・ウォーフの仮説」と呼ぶなら、同じく検証の不可能であるチョムスキーの理論全体も何故「チョムスキーの仮説」と呼ばないのか、ということだ。(金谷武洋『日本語に主語はいらない』p.154)

 どうも、僕の「仮説」という用語の理解と、金谷氏の「仮説」の用語の理解には大きな隔たりがあるようです。「仮説」をこんな意味で使う人いるのかなあ…と個人的には思うのですが、とりあえず検討してみましょう。この表現は二重のおかしさを含んでいます。

※生成文法の道具立て・理論が本質的に検証不可能なものではない、ということは上記のエントリに書いたので、以下の議論ではそれを前提としています。

◆仮説:=検証不可能!?
 上の引用部分からは、僕にはどうしても

  • 仮説とは、検証不可能なものだ。

 という主張(前提)が引き出されてしまうような気がするのですが、金谷氏はそれで良いのでしょうか…もしかして勇み足だったのかもしれませんが、公刊されてしまったので突っ込まれてもやむをえないかな、ということで。
 いや、厳密に議論するなら検証と反証の非対称性や、デュエム=クワインのテーゼなんかに触れないといけなくて、仮説は原理的には反証による棄却が不可能なんていう議論にもなりえますが、ここはそこまで踏み込みません。
 おそらくその前の段階のお話で、そもそも検証/反証する可能性(方法、と言った方が良いかもしれません)を持たないと、仮説とは呼べないと思いますが。検証不可能だから「仮」説なのではありませんよね…文字通り、棄却されるまでとりあえず掲げ続けておく主張だから仮説なのです。
 もしサピア・ウォーフの仮説がその性質上検証不可能性を含むのであれば、仮説と呼ぶのをやめるべきというだけです*1。それとも、全てわかった上での金谷氏一流の皮肉なのかなあ…ちなみに、サピア・ウォーフの仮説に関してはその妥当性を実験などで確かめようとした研究も存在します。実験の方法やデザインにも突っ込みどころ満載なのものもあったりしますが。

◆理論=仮説!?
 こっちはもっと変なお話です。もう一回引用しておくと、

チョムスキーの理論全体も何故「チョムスキーの仮説」と呼ばないのか

という部分です。「〜の仮説」って名前が付くのは通常一つ、少なくとも数個の命題なんじゃないでしょうか。理論全体に対して「〜の仮説」って呼ぶことなんかあるのかなあ…だいいち、対比されているサピア・ウォーフの仮説だって、サピアとウォーフの言語に対する理論全体への名づけではないですし。
 生成文法にも、具体的な個々の命題としては「〜の仮説」ってのが出てきますけどねえ。例えば"Lexicalist Hypothesis(語彙論の仮説)"とか。第一、例えば生成文法の理論自体も「全ての自然言語には移動が存在する」なんて決め付けているわけではないですよ。各言語に「移動」が存在するかは、具体的な言語現象を持って示さなければならないのです*2
 この人は仮説・理論って一体何だと思ってるんだろう…

 まあ、好意的に解釈したとしても金谷氏のここでの表現は大分ミスリーディングと言わざるをえないと思います。生成文法へのきちんとした理解が無い上にこういった一般的な用語についても使い方があやふやだと…生成文法は良く知らないけど、科学哲学は知ってる、なんて人*3がこの部分読んだら結構混乱してしまうのではないでしょうか。

*1:実際、金谷氏が主張しているサピア・ウォーフの仮説の検証に付いて回る種々の困難には説得力があると思います。

*2:「移動」は普遍的に存在する(だろう)という「信念」を持って研究に取り組んでいる生成文法研究者は多いですが。というかほとんどそうかな?

*3:もしかしたらそうでない人が読んでもおかしいのかもしれませんが