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歯切れが悪いのは仕様です。

議論におけるタグ付けとしての罵倒表現

 ここ最近ふと考えたこと。
 僕は基本的に言論、特に論理が必要とされる議論においてなんで人を罵倒するような強い表現が使われることがあるのかよくわからなかったのだけれど*1、なんだかそういう強い表現って「タグ」としての機能を持っているんだなあ、という気がしてなんだか少しだけ納得した。
 つまり、「あの誰それがこれだけ罵る程の内容」というようなタグ。
 これは少し前にニセ科学批判の文脈でも話題になった、権威付け、ラベル/レッテル貼りというものに近いだろう。そこでもすでに言われたことなのだけれど、(的確な)ラベル付けというのは情報の収集や整理をスムーズにしてくれる。つまり、「あれだけの人がほとほと呆れているようなのだから、まああまり真面目に取り扱わなくていいだろう」というような判断ができるというようなことだ。
 特にネットで出会うような膨大な数の議論に対して、片っ端から一つ一つ内容を細かく吟味していくのはとても大変だし、とんでもない量の知識と時間が要る。そういう点から見ると、詳しい人が「これはダメ」「トンデモ」などというタグ付けをしてくれるのはとても有益な情報になるだろう*2。自分も普段からよくこういう取捨選択はやっているし、専門の論文に優先順位を付ける時にでさえ、似たようなプロセスは存在すると思う。
 ただ一つ気になるのは、こういうタグ付けをしてもらって、自分がそれを受け入れたときには「あとで読む」とか「unchecked」のようなタグも自動的にくっついてきている、ということをどうも忘れてしまっているのではないかと思える議論や意見を見かけることだ。
 これが本当に内容を全然読んでさえいないような場合は大抵本人にも自覚があるのでそこまで変なことにはならないのだけれど*3、厄介な事態を引き起こしがちなのは、自分の中では議論の内容について中途半端な理解のままなのに、タグ付けを受け入れていることによって、なんだか完全に内容を把握し、自分で判断したような状態になってしまった時だと思う。そういう時に、例えば「タグの内容(つまり表現の仕方)に脊髄反射したのになぜだか内容について議論した気になっている」ような錯覚に陥ってしまうのではないだろうか。
 僕にもこういうタグ付けをしたまま放ってある議論、情報のストックは結構あるけれど、それについて言及することになったら、最初にすることはまず内容をしっかり読んでできるだけ理解し、関連する議論やリンクにもできるだけ目を通す、というようなことだ。それができなければ、言及しない…というかできない。
 …と、ここまで書いてこの記事自体の内容を書くにあたっても色々参照すべき情報があったかなあ、と不安に(笑)しかしなんで今回の記事はですます調ではないのか…まあ、いつも通りまずは自戒として心に留めておきたいと思います。

◆余談
 実は、この問題はネットでの議論について考える前から自分の中に問題意識があったりします。
 研究会やゼミなどで(特に後輩などに)コメントする場合に、強い評価表現(これ全然ダメだね、みたいな)を使ったほうが時には良いんじゃないだろうか、と悩んだことがあったんですね。僕はどちらかというと内容について淡々と指摘するコメントの仕方に憧れていて、そうするように努めているんですが、まずは「ダメ」ってことを認識させるってのも時には本人にとって有益なのかなあ、と思ったり。まあ勇気が無いので実際にはできないままですけど*4(笑)学生を指導する立場の先生方は時にはこういう手段も取らなければならないんでしょうねえ…

*1:これはもちろん学問に携わるものとしての信条という面もあるけれど、僕が穏やかな人間だからではなくて、多分激昂しやすい性質だから意識的にそれを抑制している、というようなところも影響していると思う。

*2:これにはもちろん、逆のパターンもある。つまり、「ああ、またか。あの人がこういう批判をしてしまうときは大体…」みたいな感じのもの。

*3:それでもよくわからない人はたまに?いますが…

*4:まあ僕は今のままでも時々質疑応答に移る前からすでに怒りオーラが出てたりしてて十分怖い、みたいな意見もあるようですが。