誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

卒論と学問リテラシー?

 以下、卒論を書かなくてよい学部、学科があることはもちろん承知の上で。
 ほぼ一年、あるいはそれ以上の時間をかけて、大きな一つのテーマについて問題を絞り込み、調査し、論文や資料などを読んで、なおかつそれらに対する自分の思考をまとめ、一つの文章群にする、というのは貴重な体験ですし、やっておいて損は無いんじゃないかなとは思いつつも、学部在籍中から、研究の道に進まないのに卒論書かなきゃいけないなんて大変だよなあ、とも感じていました。
 でも良く考えると、学問という営みがどういうものか理解し、それに直接触れる最初で最後の機会、と見ると意外とその意義は大きいのかな、と。
 やはり一旦社会に出てしまうと、どんなに好きな分野のことでも専門の論文を片っ端から読むというのはかなりの動機付けと時間のやりくりが必要でしょうしね。あ、もちろんそれを実行されている方もいらっしゃるというのはわかっていますし、実際に何人か知っていますけど。
 となると、世間一般に出回る新書や啓蒙書に書かれているようなことを導き出すまでに、専門の研究者がいかに地道な作業、考察を膨大に行っているかということに直接触れるのにはやっぱり卒論執筆というのが一つの良い機会なのかな、と。
 もっと簡単に言ってしまうと、「この問題について”専門的に論じる”ためには最低これだけのものを読んで考えないといけないリスト」を目の前にして圧倒されるという経験が一度ぐらいあっていいのではないかと最近よく思うのですよね*1
 そういう体験がきちんと教訓として残れば、新書や怪しい一般書一冊読んだだけで専門家の議論に”対等に”対抗できると思い込んでしまったり、あまつさえ一つの分野全体を簡単に否定してしまったりということはなかなかできることではないと思うのですがどうでしょう。
 もちろんこれは「素人が専門の議論に口出しするんじゃねえ」ということではないです。素人さんでもセンスの良いアイディアや疑問を出してくるというのは普通にあることですからね*2。ただ、そういう発想がどういう問題に結びついていくのか、ある分野においてどのような位置付けがなされるのか、オリジナリティはあるのか、ということを論じるにはやはり知識が重要でして。だって、オリジナルかどうかを判定するには「それが今まで一度も提案されたことが無い」ということを保証するだけの知識が必要なのですよ。
 これはむしろ研究者だと身にしみてわかっていることだと思います。同じ言語学のトピックでも、例えば談話標識の議論に口出しする場合などは、「僕はこの分野の議論には素人なんですが…」みたいなエクスキューズを付け加えたりしますしね。

ここから恒例の愚痴タイム

 ただ、別の問題はあって、おそらく卒論で特定の分野について多少考察しただけで、必読文献も網羅してないしおそらくあまり読み込んでもいない、もちろん最近の研究の動向にも気を配っていないような人が、一般の人に向けて「この分野のことは全然やられていない」とか、「専門家は大したことをやっていない」と宣伝したり、用語や学説史の間違った理解を広めたりしてしまっているのもたまに見かけるのですよね。実はこれが一番頭が痛かったりします。「学問」に触れて、自分がその営みに一時期でも参加したという誇りがあるのであれば、本当に自重してほしい、というかもう少し慎重になってほしい。もちろん専門家に対する正当な批判も(部分的に)出されていたりするので難しいところではあるんですけどね*3
 僕みたいに、特定の理論を採用して、特定の文法現象に関してしか研究してない輩の部屋でさえ一体どれだけの論文の山ができるのか、見てほしくなることがたまにあります。僕だってそれでも全然足りていないのですけれどね。

おわりに

 なんか最後はタイトルとかけ離れたところにきてしまった感がありますが、「議論のレベルに応じて、求められる知識や経験、技術には段階があるんだよ」ということは頭の片隅にでも置いておいてほしいなあ、と思います。
 まあなんか心が痛いのは、こんな記事を読んでものすごく反省してくれたり、自戒にしてくれたり、「自分は大丈夫かなあ…」なんて不安に思ってくれるのは、普段から気をつけている方々ばかり、ということですね。
 もちろん、何より自戒をこめて。
 僕が専門だと胸を張って言えるのは本当に限られた分野についてだけですから。

※追記:
 あーっと、突っ込まれないうちに追記しておきます。
 もちろん、とにかく関連文献を全部読めと言いたいわけではなくて、一つの本や論文について批判や疑問を論じることは特に問題ありません*4。ただ、その場合はそれが「〜の〜年に書かれた〜という論文/本の〜という議論についての批判」という限定的な内容だというところが重要ですね。
 たとえばChomsky(1981)に対する批判を展開できたからといって、それが即Chomskyの枠組み全体に対する批判にはなりませんし、ましてや生成文法全体の批判にもなりません。
 もちろん、モノによってはそれが今の理論や理論全体にとって重要で本質的な問題提起である可能性もありますけど、その判断もやはり他の文献を読んでいないとできませんよね。まあ運が良ければ親切な専門家が、「それは重要だね」とか、「それは今でも解決されてないんだよ」とか指摘してくれる可能性もあるでしょうけれど。
 それはそれで出発点としてはアリだと思います。もう少し詳しい人が「それはもう解決済みだよ」とか、「それについては次は〜を読んでみると良いよ」というような指摘をしてくれれば次のステップに進めますしね。

*1:そこで呆然とするか、興奮するかはその人次第ですね。

*2:この点では、僕なんかむしろ言語に関してはセンス無い方だと思ってます。だからこそ理論言語学なんかやってるわけで。

*3:これ、実は逆の現象も結構見かけられたりします。専門家なのに(ある分野に関しては)勉強足りてない人もいますし、専門にしてなくても研究論文をきちんと読み込んでる人がいたりしますからね。ただ、やっぱりきちんと勉強してる人の方が慎重だという傾向はある気がします。

*4:まあ大体他のものも読まないと問題設定などから理解できないような場合が多かったりして、結局読むはめになるんですけど。