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歯切れが悪いのは仕様です。

『陰摩羅鬼の瑕』へのもやもや

※ごく個人的感想ノートです。人によってはネタバレを含むかもしれないのでご注意ください。といってもたいした内容も無いですけど。
※興味のある方は、本文を飛ばしてでも(僕以外の方の)コメントを読むことをお薦めします。こんなエントリにぶら下がっているのが本当にもったいないコメント群です。
 自分ではどうにも上手く触れられそうになかったので今まで京極夏彦に触れることは無かったのですけれど、黒猫亭さんと京極堂シリーズの話をさせていただいた時に、自分が抱き続けていた『陰摩羅鬼の瑕』へのもやもやの原因がわりとはっきりしたのでちょっと書いておきます。というか、書こうと思ってたのに忘れてたのを思い出したのですけど(^^;
 まあそんなに複雑でも長い話でもなくて、多分僕はあの作品のテーマの一つでもある儒教について、あの圧倒的知識と言葉の奔流で語り倒して欲しかったんだと思います。いつもの「これでもか感」というか「そこまで行っちゃうのかよ感」が感じられなかったというか、きっとその辺りで物足りなさがあったんだろうなあ、と。
 確かにミステリーの方のトリック自体も途中で予想できたりして大体その通りだったので拍子抜け、という点もあったのですけれど、僕にとって京極堂シリーズは(主に京極堂の)語りの内容と語りの方法を楽しむ作品なので、そこに満足できていたらきっと仕掛けやストーリー展開が大方同じでももっと楽しめたんじゃないかなあ。そういうわけで、例えば『姑獲鳥の夏』で僕が一番好きな、というか一番衝撃を受けた、というか印象に残っている場面は最初の関口相手の「おいおいいつ終わるんだよ」っていう長い語りのシーンだったりします。
 こんなことをつらつら考えていたらまた最初から読み通したくなってきた…でも読み始めると止まらなくて困るんだよなあ。そういえば『前巷説百物語』もまだ読んでなかった。日本に帰ったら読みたいものがどんどん溜まっていってるってのがいくつかある大きな楽しみの一つですね。