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『日本語に主語はいらない』に突っ込む:寄道(4)三上章は省みられていないか

 寄り道の方ですが、久しぶりの記事です。そのうち寄り道の方が多くなってしまわないかな、なんて思ったり思わなかったり。
 このシリーズで一貫して取り扱ってきた以下の本では、三上章がいかに学界に省みられずに不遇の研究人生を送ったのかという主旨のことについては思ったよりは強調されていなかったと思うのですが*1

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

その後の著作でそういう内容のことを書いているのか、金谷氏に感銘、あるいは影響を受けた人の発言などを見ていると「三上章は日本語の研究関係の学界において冷遇され、忘れられた研究者である」のような認識を持っている人もたまに見かけるので、その辺りのことについて一応書いておきます。
 まず、結論から書いておくと当時の研究界から完全に無視されていたというのも間違った捉え方(少なくとも正確ではない)ですし、そのために死後省みられることが無かったというのも嘘です。特に後者に関してはひどい誤解です。具体的な出来事などはkillhiguchiさんの以下のエントリに列挙されています*2(僕もコメントしてあります)。そこに出てくる数々の研究者の名前も、日本語の研究者ならばどれもおなじみのものでしょう。

そこにもあるように、三上の文法論自体にどれほど詳しいかは別にして、日本語文法論に携わっていて三上章の名前を知らない人はおそらくいないのではないかと思います。「主語論をやっているなら」という条件は付きません。killhiguchiさんもお書きのように、(もちろん主語論も含めて)様々な点で、特に現在の日本語記述文法研究の礎を築いた研究者の一人だからです。僕が個人的にそう思っているというわけではなく、多くの研究者がそのように認識していると思います。
 現在残念ながらページが消えてしまっているのですが、2003年には生誕100年を記念して、「三上章フェスタ」が開かれ、多くの研究者が出席し、三上章の功績について確認し合いました。三上章の代表的著作も改めて発刊され、庵功雄氏による『象は鼻が長い』の解説本も出版されています。ちなみにこのフォーラムでは生成文法の立場から見た三上文法に関する発表もありました。
 ちなみに僕が学部の頃に受講した日本語学史の授業*3、およそ十人ほどの研究者について学生が調べ発表する、という演習形式のものだったのですが、もちろん三上章もその中に入っていました。日本語の研究に関する学説史を学ぶ上で外せない人物であると認識されているわけです*4

金谷氏の著作の意義について

 こういうことについてネットに書くと、しばしば「でも金谷氏の本のおかげで多くの人(素人)が三上章について知ることができたから良いじゃない」というような反応が返ってきます。まあそのような事情があるのならその点に関しては評価できると思います。しかし、それは僕が一連のエントリで批判してきたこととは独立した問題です。
 話は単純で、「専門家(と世間に認識される人間)が一般の人たちに対して間違った情報を広めるのはダメだ」、ということです。三上章(とその文法論)のことを世間に知らしめたいならば、ただ「あまり専門家以外には知られていないけどこんな素晴らしい研究者がいて…」と語るだけで良いはずです。決して、そのために間違った、あるいは誤解を招きやすい学説史についての情報を書いたり、他の研究者や研究分野を不当に貶める必要は無いはずです。
 三上章は、killhiguchiさんもお書きのような学校文法に対するルサンチマン、あるいは欧米の文法理論に対するルサンチマンといったものをダシにしてしかその魅力を表せないような研究者ではないと思いますし、もしそのような位置付けをするとすれば、それは実際には三上章とその理論を矮小化して評価しているとしか思えません。
 個人的には、上に書いたような主張は、僕にとっては水伝問題における「良いこと言ってるんだから良いじゃない」という考え方とほとんど同じように聞こえるのです。専門家(と世間に認識される人間)がそうでない人々に対して嘘を教えてはいけないはずです。同じ専門家に対しては、まあまだいいです。その人の評価を落とすとか、無視されるとかですみますから。

三上章に対する個人的な思い

 ここで、少し個人的な思いについて記しておきます。このシリーズを書いている動機の一端でもあります。
 上で触れた学部の演習の授業で僕が担当したのが、三上章でした。僕はその頃まで言語を専攻しようとは考えてなかったので、それが言語に関する初の演習の授業でした。そして、『現代語法序説』が初めてまともに読んだ日本語研究の専門書でした*5。いや、本当に難しかったのを覚えています。『現代語法新説』も『三上章論文集』も何度も読み返しました。最終的には、発表の時に授業を担当する先生に「なんか語り口が三上章っぽくなってるよ」とまで言われてしまいました。確かに、彼の理論とその語り口には人を熱狂させる何かがあるような気がします。もちろん今でもファンですよ。
 僕のこの一連の批判エントリは、一貫して述べてきたように生成文法に対する間違った認識をこともあろうに専門家(と世間に認識される人間)が広めるのはやめてくれ、という思いも動機になっているのですが*6、三上章に対して偏った学説史的評価を与えたり、変な祭り上げ方をしないでくれ、というのも動機の一つなのです。
 killhiguchiさんのエントリのコメントにも書きましたが、金谷氏の著作に乗っかったような形での「三上章への回帰」など本気でやっていたら、三上章自身に「お前らオレの後何十年も何やってたの、というか何やってんの」と言われそうな気が個人的にはしています*7

*1:当時から支持者もいたということについてもきちんと触れていたと思います。

*2:おかげで僕が書くべきことが大分少なくてすみました。ありがとうございます。

*3:これは確か2000年頃の話。

*4:もちろん、他の大学の授業などでどうなっているのか正確にはわからないのですが。

*5:これで言語研究に目覚めた、ということであればまたある意味ドラマチックなのですけれど、実際には色々他の要因も絡んでいます。もちろんこの授業がきっかけの一つであることには変わりありません。

*6:この点については最近諦めかけ、というか悲観的になっていますが。

*7:何度も書きますが、もちろん三上章の文法理論を基にして新しい日本語教授法を作ろう、というような提案や運動は現在でも十分有効だし、面白い試みではないかと思います。ただ、それを文法研究とは混同しないでほしいということです。