言語を話題に出す割にはいつも「〜は専門ではないので」というエクスキューズを出してばかりいるので、たまにはちょこっとだけ専門の話題(の一つ)について書いてみる。といってもやっぱりメモ程度のものだけれど。
かなりマニアックに書き過ぎたので、おそらくほとんどの人にとってはつまらないです。すいません(^^;
というのも、久しぶりに伊藤・杉岡(2002)を読み返していて思い出した問題があったので。以下引用。
...生成文法の枠組みにおける語形成研究においては、すべての語形成を記憶装置としてのレキシコンで扱う立場、逆にすべての語形成が統語原則に従うとする立場、および語形成にはレキシコンと統語部門の両方が関わるとする立場がある。語形成に見られる規則性をどこで扱うか、という点に関わる議論は、(1)語形成プロセスに見られる規則性は、句の形成に見られる種々の統語原則と同じ原則に従うか、(2)語形成が句の形成と同様の完全な生産性・規則性を見せるか、という2点に集約できる。
最近のミニマリスト統語論では、(1)の論点から語形成プロセスの統語分析が盛んである(Hale and Keyserの一連の論文)。また、ミニマリスト統語論と整合する新たな形態理論として注目を集めている、分散形態論(Distributed Morphology: Halle and Marantz(1993))の枠組みでは、(中略*1)語彙挿入を統語派生の後に位置づけることで、語(あるいは形態素)として実現されるものを算出する派生が、統語部門の種々の操作によるものであり、したばって統語原則に従うことが必然的な結果として導かれることになる。言い換えれば、分散形態論は、(1)が正しいことを前提として組み立てられた枠組みであると言ってもよい。このような、語形成を統語原則で扱う枠組みは、(1)と同時に(2)も正しいと主張することになると思われる。
(伊藤たかね・杉岡洋子(2002)『語の仕組みと語形成』:pp.195-196、一部改変*2、強調はdlit)
まず、強調部分の推測は正しくない。
分散形態論について言えば、(2)のようなことを主張している研究者は管見の限りいない。また、その他の統語論的アプローチを採用している研究者についても、そのようなことを主張しているかどうかは非常に疑わしい。何より、生産性の差というのは、言わば言語現象であり、どのような言語理論も最終的には捉えなければならない分析対象である。統語論的アプローチを採る研究者が主張するのは、語形成にも統語論に見られる原理(の一部)が見られますよ、ということであり、「完全な生産性・規則性を見せる」とまでは主張しない。
さらに、語形成に対する統語論的アプローチの特徴としては、(1)のまとめも非常にミスリーディングである。なぜなら、統語論的アプローチは、語形成が句の形成に見られる種々の統語原則と全く同じ原理にだけ従うということは主張しないからである。分散形態論に関して言えば、各形態素を“結びつける”原理や局所性に関わる原理は統語部門と同じものであると仮定するが、語形成全体のプロセスに関しては、Morphology, Encyclopediaといった統語部門外の部門が関わってくる*3。
ただ、統語論的アプローチは語形成の統語論的な性質に多く焦点を置くので、実際に生産性に関する議論は取り上げていなかったりする。従って、「今のままでは生産性を上手く扱えないのではないですか」あるいは「具体的に生産性を扱えていないではないですか」という批判は有効である。「統語論的アプローチは原理的に生産性を扱えない(はずだ)」という批判は(モデルによってはもしかしたら当てはまる場合もあるかもしれないが)ほとんどの場合当てはまらないということである。
統語論的アプローチにも色々ある
時々混乱が見られるように思うが、
a. 語形成が統語部門の原理に従って行われる
b. 語形成が統語部門(narrow syntax)において行われる
という分析(立場)は、厳密には区別される。例えば、Hale and Keyserは少なくとも有名な1993*4の段階では、L-syntaxとS-syntaxの区別を設けていた。これはすなわち、aは採用しているけれども、「句と語の派生を行う部門を区別する」という点でbは採用していないと考えられる。一方で、分散形態論は「何らかの要素をくっつける」という点ではいかなる部門の区別もしないという意味で、bも採用する強い立場である。そして、これは理論的にaを含意する。
さらに、かつてEdwin Williamsとともに"On the Definition of Word*5"を書いたDi Sciulloは、最近は統語論的アプローチを採用している*6が、Mergeや局所性に関する原理は統語部門のものを用いているものの、語形成に属する現象において形成される構造そのものは句レベルとは異なったものを仮定している。
このように、いわゆるLexicalisticなアプローチにもその立場が色々あるように、一口に統語論的アプローチといっても様々である。
統語論的アプローチは(語彙)概念意味論を否定しない
もちろん、実際の現象をどのように分析するか、という点で統語論的アプローチと(語彙)概念意味論的アプローチが対立することはあるが、それは文レベルにおいても見られる分析アプローチ上の対立であって*7、(語彙)概念意味論に関する部門(component)そのものの存在を否定するわけではない*8。
ちなみに、分散形態論では、そのような意味に関する情報は、Encyclopediaという部門に貯蔵されていると考えられている。この部門には、その名の通り百科事典的知識や、語用論的な知識なども存在していると考えられ、それらの情報が同一の部門にあり、直接的にインタラクトすると見る点においては、Jackendoff(1990)の概念意味論に近いものがあるように思う(ここは個人的感想)。
再び生産性について
言語表現の生産性については、もちろん明らかに生産的なもの、非生産的なものもあるが、その中間に位置するものも多くある。生産性をレキシコン/統語部門という部門の違いによって捉える、というアプローチは、そのグラデーションのどこかに原理的に線が引ける、という主張になると思われる*9。生産性についての言語理論は、これの二分法が、(α)汎言語的に成り立つのか、という点、(β)それが要素が存在する部門の違いによって捉えられるものなのか、そして(γ)それが成り立つのならそれはどの二つの部門によって担われるのか、ということに答える必要がある。もし部門による分割を選択した場合、「レキシコン/統語部門」という区別はもちろんその最有力候補の一つではあるが、必然的選択ではない。異なった二つの部門によってそれが捉えられるかもしれないし、それ以上の部門が関わっているかもしれない。分散形態論の立場は、(おそらく)グラデーションを重視し、原理的な二分法を認めない、というものである。もちろん生産性の差自体はなんら否定しているわけではない*10。
かなりラフですが、とりあえずこんなところで。
*1:DMの文法モデルのちょっと詳しい説明。Morphologyの位置とか。
*2:もちろん文意は変えてないです。
*3:もちろん、これらの部門は句レベルの形成にも関わる、という点でやはり語彙意味論的アプローチとは違いがあるが。
*4:On the syntax of arguments and the lexical expression of syntactic relations. The view from building 20, Ken Hale and Samuel Jay Keyser(eds.), pp.53-109, MIT Press.
*5:1987, MIT Press.
*6:Di Sciullo, Anna Maria(2005) Asymmetry in Morphology. MIT Press.
*7:統語理論が意味部門の存在自体を許容しないという誤解を持つ人はどれぐらいいるのだろうか。
*8:ただ、そこにどれぐらいの豊かさを認めるかはもちろん理論によって異なる
*9:もちろん、二つの部門に分けた後、それぞれの部門で連続性を取り扱うという分析方法はありうる。
*10:この点に関する積極的な研究が少ないことは確かである。