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歯切れが悪いのは仕様です。

ニセ科学に対する人文系的コミットメント

 上のエントリとこのエントリはpoohさんのところの下記のエントリのコメント欄のやりとりを追っていて色々考えたことの一部です。

 ニセ科学批判のかなり早い段階から、人文社会科学系のコミットがあまり無いよねえ、ということは言われてきたようなのですが、それは特定領域の専門家の積極的な参加があまり無い、ということであって、ニセ科学批判、あるいは疑似科学批判、懐疑主義においてはむしろ人文系的な考察、試みは盛んになされていると思うのですよね。というわけで、「人文社会系の専門家も、もっと積極的に関わろうぜ!」という言い方はわかるのですけれど、「ニセ科学批判には人文社会系的な視点や考察があまり無い」というような意見にはどうも違和感があるというか(具体的にこのようなところが足りない、という指摘ならわかることもあるのですが)。
 どちらかに分類すること自体にそこまで重要な意味は無いと思うのですが、最近だと、id:lets_skepticさんの一連のエントリは優れて人文系的な視点からの考察ですし、id:tikani_nemuru_Mさんも精力的に人文系的な視点からの色々参考になる考察を公開しています。僕がよく参考にしているpoohさんのところも、TAKESANさんのところも(コメント欄でのやりとりも含めて)スタンスとしては人文系的、だと思うのですけれど。そもそも懐疑主義の文脈だと、ホロコースト否定論のようなものまで広く射程に入りますしね。自然科学の専門的な内容までよく踏み込んで言及されるNATROM先生や、黒影さんのところにも、そういう論考は色々あると思いますし。
 そもそも、各学問にはそれぞれ取り扱える対象がおおよそ決まってます。僕や朴斎先生の水伝に関するエントリはニセ科学に対する直接の人文系からの批判だと思いますが、これはこれらの論考が珍しい、ということもあるかもしれないのですが、主張そのものに言語や人間の主観が関わっているという点でむしろ水伝そのものがニセ科学の中では特殊という側面もあると思うのです。例えば千島学説に言語学の観点から反論しろ、と言われても困ってしまう。
 僕自身はちょこちょこ書いているように、ニセ科学問題を専門家軽視、先人の蓄積の軽視、学問というプロセスの軽視、あるいは歪曲(ニセ学問)というようなより広い(異なった)文脈と関連付けて考えていて、人文社会系の研究者にとっても他人事ではないし、似たような危機感を持っている人も結構いるんじゃないかな、と勝手に思っていますが…
 僕自身もこれまで様々な立場の人たちが蓄積してきた議論や情報を(人文社会系の)専門的な知識やノウハウがある分野から捉えるとどうなるのか、というところには興味がありますし、戦略的にも様々な分野の研究者がコミットするというのは良いことだと思うのですが、これもあまり無理強いはできないところでしょうしねえ。今より裾野が広がると個々の負担が減るという利点もあると思うのですけれど、どうなっていくのかな。