最近盛り上がってたらしい疑似/ニセ科学批判批判関係のはてブ↓
んで、メタブとメタメタブ↓
- http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771
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疑似/ニセ科学批判にイラっときたり釈然としないものを感じたりして批判したいな、と思ったらとりあえず以下のページとそこに上がってるリンク先を読んでみることをオススメしますが*1↓
疑似/ニセ科学批判への拒否反応に「熱意の非対称性」という問題が関係してるのかなーってのはずっと色んなところでトピックを変えながら話題になってきていることではあって。僕も昔「そんなに熱くならんくても」みたいな反応をされたこともありましたし。
疑似/ニセ科学批判を行っている人たちがなんでそんなに厳しかったり憤ってたりするのかわからない、というのは結構多くの人が一度は抱く印象なのかもしれません。というか、ほとんどの人がその憤りや危機感などに即座に共感できるのであればそもそも疑似/ニセ科学批判の活動もここまで活発にならないでしょうし。
そういう文脈の中で僕が一つ疑問に思うのは、「他人が自分の知らない何かについて憤ってくれる」こと、そして「それをきちんと説明・表明してくれる」ことって結構ありがたいことだ、という発想は出てこないのかなあ、ということです*2。
世の中には疑似/ニセ科学以外にもたくさんの問題がありますが、自分の目が届く範囲に限って考えても、その全てについて憤ったり情報を発信したりってのはしんどいですよねえ。怒るって結構エネルギー要りますし、情報を発信するってのは色んなコストがかかりますし。
ってことを考えていくと、自分があまり詳しくない分野のことについて「それが重大な問題である」ことを憤ったりするというような手段で、もっと一般的に言うと「熱意を伴うことによって」伝えてくれる、というのは個人的にはとてもありがたいことだと思っているのですけれど。
そういう情報を受けてどのように行動するのかはまた別の問題で、個人個人の事情を考慮してそれぞれが決めていけばよい、と思いますし。もちろん、疑似/ニセ科学批判の内容をきちんと踏まえた上で「そんなに熱くなるのはおかしい」というのであれば、それはそれで議論すれば良いでしょう。
とりあえず僕は以下のエントリで述べた理由でニセ科学批判に時々言及していますが↓
疑似/ニセ科学批判をする動機は結構人によって異なっていたりすることもあるので、そこだけ考えても疑似/ニセ科学批判を一括りにしちゃうのはやっぱり無理があるよなあ、と思います。
そりゃあ風邪っぽい時に病院に行くかレメディに頼るかの選択は大人であれば個人の自由で良いかと思いますが、僕は何かの病気で倒れて運び込まれた病院の救急でレメディを処方されて終わり、ということがあるかもしれないという社会にはなってほしくないので。
- 関連エントリ:怒りという感情と怒るという行為 - 思索の海(特にコメント欄でのTAKAさん、lets_skepticさんとのやりとり)
※追記:ちなみにこういう議論でほぼ必ずと言っていいほど「文系(笑)」みたいな反応がありますが、僕がニセ科学批判にコミットしているのはこういう問題を理系/文系の対立なんて話にもって行きたくない、ってのも動機の一つとしてあります。せっかく人文系の研究者なので。でも、そうやっていくつか発言してきたら、「文系の学生が「自分はニセ科学を判別できる」と自負する時代に」なんてコメントを書かれちゃったこともあったり*3(^^;
※追記2:あ、もちろん罵倒とか誹謗中傷とか人格批判とかは別問題で。これは「批判の方法」にもつながってくる問題かな。