誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

クワインとか科学とか雑感

 見事に予想通り忙殺される日々を送っております。研究する時間をうまくその他の時間に組み込むペース作りがまだあまりできてません。なんとかしなきゃなー
 さてさて、ブコメにも書いたんですけど

 なんとなく感じたことを書いてみる。まとまってないですし、上記のエントリに対する批判というレベルまでは言ってないと思います。

  1. 自然科学(の理論/モデル)の目的を大雑把に言うと「自然現象をよりよく記述/理解/説明すること」だと思うけれど、これを即「真理の対応説」に基いている、とみなすのは(ちょっと)飛躍だと思う。
  2. クワインを引き合いに出しているのは、デュエム・クワインのテーゼ、翻訳の不確定性辺りのことを念頭に置いているのだろうけれど、理論/モデル/仮説群に対する全体的な優劣の決定/選考ができない、ということと個々の自然現象に対して個々の理論/モデルのどれがよりよい記述/説明を与えられるのか、というのは別に考えられるのではないか。

 特に2に関しては、経験科学の実践においては、xという現象に対してはAの理論の方が良い説明を与えられるけれど、yという現象に対してはBの理論の方が優れている、ということは普通に起こりえることだ(これだってたぶん状況を単純化し過ぎ)。
 そういう時科学者はどうするか。対応の仕方には個人差もあるだろうし、別のポイントで勝負するということも多いけれど、基本は「xという現象に対してはAの理論の方が良い説明を与えられるけれど、yという現象に対してはBの理論の方が優れている」という事実をそのまま受け入れることではないだろうか。次のステップとして、自分の賭ける理論を改善する、とかさらに独立した現象で検証を行ってみる、といった方法がある。
 ちょっと余談だけど、個人的には、クワインのホーリズムに感動する気持ちはわかるけれど、そこから強い相対主義や「科学ってなんでもアリなんだ」「科学って科学者の恣意的な操作が可能なんだね」的な虚無感に襲われるのは、行き過ぎだと思う。実際には、都合の悪い現象からある仮説を守るために、別の仮説を変更しようとすると、今度は別の現象との折り合いが悪くなることが多い。
 クワインとクーンによって、確かに最も素朴な真理の対応説と科学の直線的進歩主義の幻想は打ち砕かれたと思うけれど、むしろ現実の科学というのは弱い対応説と整合説のミックスのような感じがしている。すなわち、科学理論は内部でも整合しているように、さらに関わりあう現象(全て)ともできるだけ対応*1しているように、随時改訂していかなければならない、って感じ(つか、クワイン自身がこういう議論もしてなかったっけ?)。
 こんなこと言うと、やっぱり科学者は能天気/ナイーブでいいな、なんて思われるのだろうか。
 ちなみにこれは僕が言語研究をやっていての実感に基くものなので、他の経験科学の分野の研究者だと違った実感、方針を持っているかもしれない。最近の科学哲学の議論だとどうなってるんだろうなあ。もう今は哲学の論文読む余裕は無いなー
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最初は僕もコメントしようかと思ってたんだけど、なんか他の方々を混乱させるだけのような気がしたので自分のところで書き殴ることにしました。

*1:こっちにも「整合」という用語を使いたい気分だ。