※相変わらず長い上にホントまとまってないです。
最近なんだか色んな言語系の人に読んでいただいているようで、言語ネタを書くのはもはや論文を書くより気が重いような気もするのですが。と一応恒例の言い訳をしておいて恥を晒す覚悟で書いてみます。
結構盛り上がってたみたいなんですが僕が最初に読んだのは以下の記事。
で、その後これが↓元ネタらしいと気付きました。
実はそのNHKの番組はちょっと見ていたんですけど(というか見てたら勝手に始まった)すぐに変えてしまいました。井上史雄先生とか出てくるんだったらもうちょい見ておけば良かったかなー
ちなみに個人的な内省を書いておくと、まあまあ許容する方かと思っています。たとえばハンバーグを注文したとして、時間をおいても
- 「ハンバーグでよろしかったでしょうか」
といきなり確認されるのはOK。ただ、確認したいということ自体を
- 「確認してもよろしかったでしょうか」
なんていきなり聞かれると気持ち悪い、という程度。
あんまりまとまってないのですが以下考えたことを適当に列挙。僕はこの辺りうとい領域もあったりするのでくれぐれも鵜呑みにしないように。もし幸運にも言語研究系の方々からコメントとかブクマとか付いたらそっちを(も)参考にしてください。
「た」の研究について
現代日本語の「た」の分析は専門の方でも人気があるテーマで、「タの本質(本義)」みたいな発表は定期的に見かけますが、結構難しいテーマのようです。個人的には
- (探し物を見つけて)あったあった。
とか
- 明日論文の締め切りだった!
みたいなやつ(いわゆる「発見のタ」)を過去・完了のタと一緒に説明してしまおう、というものが多いと感じています。
- ちょっと待った!
- どいた、どいた!
のようないわゆる命令のタは命令表現の研究の文脈ではよく触れられますが、タの研究の中ではそこまで取り上げられないような気がしますので、上のsumita-mさんの記事で紹介されている分析は僕にとっては新鮮でした*1。
「婉曲表現」と方言
そもそもこの表現が許容される言語話者にとってきちんと「婉曲表現」として機能しているのかは何らかの研究手法で確かめられるべきですよね。その辺りはもう研究があるのかもしれませんが。
東日本(特に東北)方言にいわゆる共通語とは異なるタ(あるいはテンス・アスペクトの体系)があるというのは有名な話で、日常レベルでも結構話題になるのは山形などで電話に「はい、○○でした。」と出る、というもの。
ただ、そういう(共通語から見れば)変わったタがあるというところから共通語にも婉曲のタを認めるべき*2、というのはアナロジーとしてはわかりますが論理的には成り立たないでしょう。
まず繰り返しですが、それらの各方言でのタが本当に「婉曲」の機能を持っているかどうかを確かめる必要があります*3。単に「婉曲」の機能しか持っていないのか、それとも別の文法的な機能、意味を持って分布しているけれど「婉曲」の効果も引き起こしてしまうのか、またそもそも「婉曲」としては機能していない、とか*4。
また、そもそも方言(variation)というのは程度の差はあれ文法体系自体が異なっているものなので*5、たとえ全国の方言に「婉曲表現のタ」があったとしても、それが共通語*6に無いというのはありうるしあっていいことだと思います。おそらく方言同士の差ではなくていわゆる方言と「共通語」の関係ということで話がややこしくなるんだと思いますが、この辺りは社会言語学専門の方におまかせ(丸投げ)。
「過去」と「非現実」と「丁寧」
で、関連エントリやブコメで英語の助動詞の過去形が婉曲表現になるという事実やそれに対する分析を挙げてるものが散見されましたが、これも個人的には簡単には言えないところだと感じています。
例えば、こういう説明↓
過去形は距離感を表す
助動詞や動詞の時制(tense)には「現在形(present tense)」と「過去形(past tense)」の2つしかない。この過去形を単純に「過去を表す」ものだと、覚えるのは間違い元である。過去形は、「遠く離れたこと=距離感」を表すのである。
- 時間の距離感=過去を表す
- 現実との距離感=非現実を表す
- 相手との距離感=丁寧さ・婉曲を表す
時制と相−過去形は距離感を表す(dlitが一部省略・改変)
まず、過去と非現実(いわゆる反実仮想、仮定法過去)のそれぞれが属するカテゴリ(領域)というのは意味論的にも近いと考えられ*7、英語以外の言語でも過去と非現実を両方表せる形態を持つものが結構あるそうで*8、よく統一的な分析が試みられます。上では「距離」と言ってますが、形式的には包含関係を使ったりします。
ところが、時制(tense)、様相(modal)といった意味論的カテゴリと「相手との距離」のようなレベルのカテゴリが近いとか相性が良いとかいうのはそれほど自明ではないし、きちんと論証すべきだと思います。もしかしたら意味論の分野ではその辺り常識なのかもしれませんし、過去形が丁寧さを表すというのは汎言語的に見られる現象なのかもしれないので、ここは専門家の意見が聞いてみたいところです。
おわりに
もちろん、上で紹介した分析は「過去形→丁寧・婉曲」に最も分析的・合理的な説明を求める方法の一つであって、それ自体は日本語については成り立たないけれど英語のCould/Would you〜みたいな言い方の単なる直訳が日本語に入ってきた、という可能性はありうると思います。実証するのが大変そうですが…
また、上記の分析ほどのメカニズムはないけれど単に有標(marked)な形態を用いるということ自体が「婉曲」さを引き出しているという説も考えられますが、これも「じゃあなんでタという形態(だけ)が選ばれるの」という点に答えないとあまり説明にはなっていません。
あと、これまで出してきた説明がそれぞれ排他的ではなく、両立する可能性さえあると個人的には思います。言語変化/変異は難しいです…
本音としては「婉曲」とか名前付けただけなんじゃ…とか、タがその意味・用法になることだけじゃなくて、他の用法にならないこともきちんと言わないと分析じゃなくて解釈になっちゃわないか、とか色々勝手なことも思っちゃいますが、自分では専門的には手に負えないところですし、分析の難しさも感じるところなのでこの辺りで。
おまけ:言葉に対する態度
個人的には「(絶対的に)正しい言葉」みたいな捉え方は気持ち悪いわけですが、場面(相手、目的なども含む)にある程度適切な言語運用というのはあると思います*9。もちろん完璧は無理なのである程度の寛容の心と調整(しようとする姿勢)が大事ではないかと。
一つの解決策として義務教育で言語学を教えることによって、よくわからない/気持ち悪い表現に会った時に拒否反応を示すのではなく、「へー、それ面白い」「じゃあさ、これは言える?この状況では?」って反応しちゃう人を増やす、という案を提唱したいと思います。そんな人ばかりになったらそれはそれでうざいのかもしれませんが…
*1:まあ僕が無知なだけかも。sumita-mさんが挙げている本は未読なので評価は保留。
*2:主張の強さは問題としてあります。
*3:もうこの「婉曲」という用語自体が微妙なタームだと個人的には思うのですが…
*4:まあ井上史雄先生が言ったのであれば色んなところにあるということだと思います。
*5:もちろん部分的に同じってことはたくさんありますよ。
*6:文脈からは東京の方言というより共通語の話だと理解しています。
*7:少なくとも可能世界意味論などを使う枠組みでは。
*8:例えばギリシャ語とかなら論文を読んだことがあります。もちろん細かいところは色々違う。
*9:ただ突き詰めていくと極端なpragmatismに行っちゃうかなっていう心配も無いではありません。心配するべきかどうかも考える必要があるかな。