誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

「言葉の正しさ」みたいな(よくわからん)ものについてもちょっとだけ

 今までもちょこちょこ似たようなことを書いてきたと思いますが。
先のエントリでa-geminiさんから下記のようなコメントをいただいて良い機会だと思いましたので少しだけ。僕の少しだけは大体長いのですが…

>個人的には「(絶対的に)正しい言葉」みたいな捉え方は気持ち悪いわけですが

以前、ライターの高橋秀実が「言語学者は言葉の乱れを面白がっているばかりでケシカラン!正しい日本語を示すのが仕事だろ!」みたいなことを雑誌に書いてました。漠然と同じように考えている人もいるじゃないでしょうか。変わった現象を見つけて学者がよろこぶのは当たり前だと思うのですが
昆虫学者が新種のチョウを見つけてよろこぶようなもので。
「よろしかったでしょうか」についてちょっとだけ(むしろ情報求む) - 思索の海コメント欄より(改行だけ調整しました)

で、コメント欄に書いた返事の繰り返しになりますが、言語学者に「正しい言葉(日本語)を示せ!」というのは生物学者に「正しいチョウを示せ!」というぐらい変な話だと思います。この辺りのことは以下のエントリでも少し論じました。

まあそれだけじゃあ味気ないので、では言語学者に一体何ができるのか、ということについてちょっと書きます。

そもそも「正しい」という用語自体が曖昧

 「正しい」という評価に関する言葉自体が、結構曖昧だと思います。しかし、「正しい」の内容をもっと正確に定義するならその例を示すことができるかもしれません。例えば、「正しい」を

  • 文法体系上ある程度合理的である
  • 通時的な変化の上で語源俗解などによるaccidentalな混乱が無かった
  • そもそも(一定の時期)ほとんど変化していない

などと定義すれば、モノによってはそれに大体相当する言語表現を示せる可能性はあります。ただ、程度問題が絡んできてやはり色々難しいでしょうけど。

「正しい”とされている”言葉」なら示すことができる

 「されている」と書きましたが、「されていた」言葉についても同様です。ある時代、ある地域、あるコミュニティ(の一定数のメンバー)において「正しいと解釈/認識されている(た)言葉」ならある程度調査することができます(過去のものについては史料上の制約が付きます)。そして、そのような性格の言葉なら確実に存在すると思いますし、そういった知識が重要だったり有用だったりすることはありそうです。

言語研究としてはデータを出す/リスク評価まで

 言語政策研究、社会言語学の知見を生かせば、「言葉がこうなっちゃうと、後々こういう問題が出てくるかも」といった、リスク評価のようなレベルまで行けるのかもしれません。ただ、自然科学の分野では散々言われていますが、データの提出/検討、リスク評価とそれを踏まえた上での行動(政策/個人レベル両方)は分けて考えるべきだと思います。kikulogの次の最近のエントリのコメント欄でも同じような話が出ていますので、参考まで*1(と言って宣伝)。

言語学者だって提言/介入することも

 ただ、これも上で挙げた昔のエントリに書きましたが、言語学者/言語研究者が「こういう言葉を使うのはよくない」とかいった提言をしたり積極的に言語の使用に介入することもあります。だって言語学者だって神様などではなく言語使用者に含まれますし、個人差がありますが言葉に対する好悪の感覚はありますから。僕は(今のところ)するつもりありませんけど。
 気をつけてほしいのは、ある言語学者が出したデータや分析の妥当性とそれに対する態度/処し方はそれぞれ独立に評価するべきだ、ということです*2。もちろん、独立に評価した上でどちらも受け入れる/どちらも受け入れないという選択はありえます。

おわりに

 「よろしかったでしょうか」のエントリの山形在住経験者さんへのコメントに書いたことの繰り返しで、言語学的自然主義の誤謬のエントリにも書いたことですが、合理性/理屈が通ることは論理的にも概念的にも必ずしも「正しさ」のようなものを保証することは無いと思います*3。なんかカオスだったり、よくわからないけどidiosyncraticだったりする部分に「正しさ」や「美しさ」を見出すってことが言語の場合にはあると思いますから。

*1:kikulogなんかではこういった話は散々既出ですけど。

*2:僕だって「提言/介入はしない」という処し方を表明しているわけです。

*3:こういう「正しい言葉遣い」の議論ではどうしてもその部分が大きな論点の一つになりますし、それ自体が問題ではないのですが