誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

遅くなりましたが「言葉の正しさ」みたいな(よくわからん)もんについてもうちょっとだけ

 というか、killhiguchiさんへの応答…にすらなってなくて考えたことを適当に羅列してあるだけです。なんかの後killhiguchiさんのところが変な方向に賑わったようで水を向けた者としては少し申し訳なかったり。killhiguchiさんのコメントへの応答にも書きましたが、池田先生の言語関係のエントリももうちょっとちゃんと批判した方がいいのかしら。正直絡みたくないんですが。
 さて、ではいくつか雑感を。

第一に、「言葉咎め」をする人々が相変わらずいて、その人々が、所謂知識人であるということだ。これは、文献に残る限り、中古より変わっていない。それは、知識層によるそうでない人々への反感に基づいている。Sollenはどれだけ唱えてみたところでSeinを変えられるわけではない。なのに、資源を独占する地位にある人々の「正しい」とする規範で、そうでない人々の現実を、「間違っている」と断罪する行為が行われ続けている。
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 これはもう仕方が無いというか、これからもずっと続いていくんだろうなーと思っています。
 でも別に悲観的に眺めているしかないとかそういうわけではなくて、一つの対抗策としてはできるだけ対抗言論をばらまくこと。この辺りの論点において、僕の中では言葉の問題とニセ科学問題がつながってくるわけです。今はインターネットがあるので、個人的な発信もそこまで大変ではありませんし。ただそれだけではやっぱり届く場所に限界があるので、専門家による、書籍とか講演といった形での情報発信もできれば望ましいのでしょう。
 もう一つは実行は難しいのかもしれませんが、教育上での対応。以前から義務教育で言語学をと言っているのはあながち冗談というわけでもありません。もちろん、義務教育レベルで知らない言語の形態素解析をしろとかそういうわけではなくて、「言葉」にどう向き合うのかというテーマの元に言語学の考え方を導入しておくというのは、それほど荒唐無稽ではないと思っているのですが…義務教育でできなくとも、大学の一般教養ぐらいでは扱ってほしい。
 あれだけメジャーな自然科学の分野でも、ニセ/疑似科学の氾濫とそれらへの対応、情報発信・科学教育の方法については色々問題があって大変なので、言語学でどこまでできるかは想像さえ難しいのですが、ある程度の基礎的な知識や方法論を身につけていて、「専門家ではないけれどある程度の情報発信やデバンキングができる」人の絶対数が増えないと、こういう状況の改善は難しいんじゃないかと思います。とにかく「言葉」に興味を持つ人の総数と、専門的な知識、技能、トレーニングの経験がある人の総数の乖離が大きすぎるような。もちろん、それと同時に現役の専門家がもっと広く情報発信できれば良いんでしょうけれど、現在の状況では完全ボランティアでしかも変な人に絡まれるリスクがあったり、大変ですからね。
 僕自身のモチベーションは、それでもやはりこういう場に書くことによって色々勉強になったり、思いがけない交流も得られることや、僕自身がその情報発信によって多大な恩恵を受けている他の(分野の)専門家の皆さんの真似をしたい、というところにあります。

第二に、言葉の「正しさ」について、いつまでも議論が深まっていないことだ。
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この点については前のエントリでも書きましたが、一つ僕が考えている対応策としては、

  • 言葉については、そもそも「正しい」という言葉を使うのをやめる。

というのがあります。「正しい」という言葉は曖昧(おそらくvague, ambiguousどちらの意味でも)すぎます。例えば「文法的に機能している」とか「伝統的である」とかその内容をできるだけ具体的に言うようにするとか。
 もちろん、人が言葉のどういう側面に「正しさ」や「美しさ」を感じるのかは別にきちんとした手法で調べるしかないでしょう。これは言語学だけではできない気がします。

第三は、仮に文法の正しさや歴史的使用の議論をするときでも、必ず出てくるのは知識人であって言語の専門家ではないということだ。物理学や経済学やニセ科学批判の問題で、素人が大きな顔をすることがあるだろうか。

 これは実は結構いろんな分野であるんですよね…程度を考えると、やはり言葉関係はひどい方だとは思いますけど。

学問的議論の蓄積が、言葉の問題を語るときに、参照されることは極めて少ない。多くの人が、特に知識人が、自分の母語のことなのだから自分にはよく分かっていて語る権利があると言わんばかりに顔を出す。無論、素人が専門家の話にしゃしゃり出てきてはいけないということはない。議論は開かれているべきだ。しかし、専門家が参照されないことには問題がある。
(中略)そのコメントを見てみると、日本語学の成果を参照したものは、ほとんど見受けられない。「持論」か、偶々読んだ評論家の書いた「日本語論」の影響を受けたものばかりである。何故に、こと言語に関して、人々は、欲求を持ちながらも専門家を軽視するのか。
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 おそらく、専門家が誰か、専門領域にどんなものがあるのかすらわからない、ということが結構あるのではないかと。テレビに出るコメンテーターや評論家が(も)経済や医療の専門家であると錯覚する人がいるように*1。こんなことを言っていると「お前らの一般への情報発信が足りないんだ」とか言われちゃいそうな気もします。ただ、情報発信にも色々コストがかかるんですよね。専門家だからこそ、自称専門家とは違って適当なこと、うかつなことは書いたり言ったりできませんから。

確かに、言語学者は、自然主義の誤謬を恐れて、「正しさ」の議論には入ろうとしない、というのはあるのかもしれない。しかし、市民が言語についての知見を欲求しているときには、資源を独占してきた専門家として、情報を提供する義務が、この市民社会ではあるのではないかと思う。
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 僕ももっと情報発信はあって良いと考えています。ただ、具体的にどのようにするのか(すれば良いのか)というのはよくわかりません。科学者・研究者は自分たちのフィールドにこもってないでもっと社会にコミットしろというような考え方からしても、自然な流れだと思います。

 言語政策の話は苦手なのでパス。ただ、国家としてそれぞれの言語とどう向き合うかというのはもっと明確にした方が良いのでは、とは思います。色々考えてることが無いでもないですが、まあそのうち、ごにょごにょ

 教科書文法はやっぱり変えるべきですかねえ。いや、もちろん研究の場から見て変えられるところはたくさんあるわけですが、古典文法とのつながりまでを含めて改変するとなるとかなり大変そうです。もちろん大変だからこそ国家レベルでやってほしいわけですが、昨今の状況だとそもそも予算がもらえなそうですね…

 相変わらず竜頭蛇尾な記事になってしまいました。ところでページビューとかからすると僕のブログよりkillhiguchiさんのブログの方が影響力があるような…

*1:いや、実際にそうであるということもあるのでしょうけれど。