今回はこの本の紹介です↓
主語とは何か?―英語と日本語を比べて (中部大学ブックシリーズActa)
- 作者: 大門正幸
- 出版社/メーカー: 中部大学
- 発売日: 2008/12
- メディア: 単行本
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この本の良いところは
- 分量が少ない。
- 細かい議論は思い切って省いてあって論旨が明快。
という点にあると思います。
あ、ちなみに、日本語にも主語はあり、それを具体的な議論で示すという立場が貫かれています。
分量が少ない
文法の議論では、問題の設定の後、概念の導入、一般化/仮説/分析の提示、経験的証拠(典型的には例文)を用いた検証、といった一連のプロセスが何度も繰り返されることになります。慣れている人であっても、分析の枠組み(理論)を把握し、ロジックを追いながら具体的な証拠の検証についてきちんと吟味するというのは、大変骨の折れるというか気力と時間を要する作業です。
この本は、前にちょっと書いたように40分ぐらいで読みきってしまいました。もちろん、僕が文法研究とこの本で取り扱われているトピックに慣れているということも大きいと思いますが、その総ページ数100にも満たない分量は上で書いたような負担をかなり軽いものにしてくれると思います。もちろん、慣れていない方にはこれでも最後まで読みきるのは大変かもしれません。
議論が簡潔
上記の分量の少なさを可能にしているのは、細かい議論のあるところや、主語論に関わる全ての話題を網羅しようとせずに、取り上げる論点を絞って、その代わりそれらについて明確な議論を提示している点だと思います。正直、かなり大胆なスリム化だなーと思いました。
もちろん、それでも軸になっているのは現象の観察、一般化、仮説の検証といったプロセスなので、具体的な文法研究を味わうことは十分できると思います。
注意したい点など
上に書いたような性質を持つ本なので、以下書くようなことを述べるのは大変アンフェアであるような気もするのですが、いちゃもんではなく、良い本だからこそのお節介な補足であると捉えていただけると嬉しいです。
◆あくまでも入門編である
上で書いたとおり、かなり思い切った議論の提示の仕方をしていますので、議論の進め方が強引に感じたり、現象の観察が雑に感じる人もいるかもしれません。しかし、この著者が不誠実な議論の提示の仕方をしているのではなく、一般向けの紹介としてわかりやすいものを目指すとどうしてもこうなってしまうものだと思います。
この本の内容に違和感を感じた方には、ぜひこの本で引用されている先行研究や、もう少し詳しい文法の入門書、概説書などに挑んでほしいです。間違っても、この本のおかしいところを指摘できれば主語必要論が論破できる、などとは考えないようにお願いします*1。それは、「マンガでわかる相対性理論」のような本を読んで疑問がわき、現代物理学が根本的に間違っていると直感してしまうようなものです。まあ啓示を受けてしまうのは止められないものなのかもしれませんが。
◆あくまでも入門編である2
専門的には、この本で紹介されている議論を基本的には受け入れたとしても、やはり英語の主語と日本語に現れる「主語に見えるような何か」はかなり異なったものである、という分析も可能です。しかし、そのためには、理論や概念の規定についてもっと踏み込み、現象についての議論もかなり細かく吟味しなければなりません。つまり、主語という概念を採用するにしても、退けるにしても、先に進むにはこの本だけではカバーできなくて、もっと勉強しなくちゃいけない、ということですね。
◆言語学らしい考え方
この本では、「言語学らしい考え方」と「言語学らしくない考え方」というのがいくつか紹介されています。
その中に、
言語学らしい考え方1:直接の証拠がない場合でも、他からの推論で結論を導いてよい。
(同書 p.36など)
というものがあります。そのままだとずいぶん乱暴だなあ、と感じられるかもしれませんが、もちろん言語学者は推論でどんどん色々決め付けていってしまうわけではありません。
確かに推論から結論を導くこと自体はしますが、推論から導かれたものは直接的な証拠や間接的な証拠、あるいは傍証があるものより弱い主張として位置づけられますし、その部分に反証が出てきて結論が撤回、改定される可能性も視野に入れます。
この辺りはあまり詳しい説明が無かったのですが重要だと思うので、ここで勝手に補足しておきます。
◆主語の定義は
この本には主語という概念自体に関する明確な定義は実は出てこないと言ってよいと思います。「英語の主語の定義」とか「日本語の主語の定義」といった議論はなされていますが、そこで主張されているのは、「〜といった性質を持つ(≒あるテストにパスする)要素を主語とみなそう」というもので、それをなぜ「主語」という用語で一くくりにした方がいいのか、という議論は紹介されていません。
むしろ、主語に当たると判断されるような要素が常に均一な振る舞いを示すということも無理には主張されておらず、日本語、英語の双方において典型的な主語(とみなせるような要素)とは少し異なった振る舞いをするものがあることも具体的な議論とともにきちんと示されています。これもやはり、上で述べたように「主語」という概念自体をさらに精密にするか、あるいは「主語」を他の(複数の)概念に還元する分析の可能性を示していると”僕は”考えています。
金谷論については
冒頭で述べたように、最後にほんの触れているというぐらいのものですが金谷氏の論に対して具体的な反論がいくつか提出されています。この辺り僕が批判をさぼったところでもあるのですが、「お米ができる」と「英語ができる」を構文的に同一だとする金谷氏の議論に対する反論などはわかりやすいと思うのでおすすめです。
おわりに
結局金谷本とはほとんど関係無いエントリになっちゃいましたね。定価にして金谷本の半額なので、こういう本が広く読まれてほしいですね。ただ、学校文法や偉そうな学者をこきおろしたりというような内容は一切書かれていないので、そういうものを読んでストレス発散したいだけの方にはおすすめしません。
余談
◆資料
例文を英語と日本語の対照がしやすいようにバイリンガル版から取っているのですが、そのメインの資料が、
- 『ああっ女神さま』
で、それを補うために用いられているのが
- 『ラブひな』
- 『金田一少年の事件簿』
- 『部長 島耕作』
です。素敵です。
◆あとがきで
あとがきに、大学院入院一年目にチョムスキーの"Barriers"を天野政千代先生の授業で読んだ、というエピソードが出てきます。一年生で"Barriers"とか授業中に泣き出してもおかしくないような気がしますが。感じ方は人によると思いますけど、たぶん生成文法で一番難しい時の理論ですよ…僕は今でも泣きそうになります。
*1:もちろん、その違和感や疑問自体が実際の専門的な議論でも重要な、議論になっているトピックである可能性は十分にあります。