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歯切れが悪いのは仕様です。

感動と努力と犠牲と

 為末大氏と乙武洋匡氏による、今回の女子サッカーのWC優勝をきっかけにしたやりとりのまとめを読んでの雑感。だいぶ感傷的に書きました。

努力と犠牲

好きな事やってるんだからそれぐらい我慢しろと世間も言っていた
為末 大 on Twitter: "女子サッカー代表の数人と今回代表にはなれなかった数人の選手と交流がある。食事に誘ったら決まって彼女達は来れない。7時から練習がありそれ以前は仕事をしているから。好きな事やってるからと彼女達は言っていた。反対に言えば好きな事やってるんだからそれぐらい我慢しろと世間も言っていた"

 こういう発言を聞くと、「いやそんなことは言ったことも思ったことも無いよ」と感じる人は多いのではないか。しかし、この手の主張は見える形でも見えない形でもいろんな分野に潜んでいると感じる。
 関わる者の、当然必要とされる労力を過渡に越えた「努力」を強制する、あるいは必要とするシステム・仕組みはうまいやり方ではないと思う*1
 厄介に思えるのは、「無理してもものすごく頑張ること」によって一時的にものすごく良い結果がもたらされたり、犠牲を払い続けることによって良い結果を長期的にも維持できたりしてしまうと、それが容認されたり時には賞賛されてしまう(そして当事者たちは降りられなくなってしまう)ということである。
 僕はスポーツは学生時代にやっていただけなので、こういうつらさは実感としてはわからないけれど「好きなことやってるんだから努力しろ」という物言いは研究界隈でも聞こえてくることがある。

努力に頼りすぎない仕組みを作る、というのは意外と難しいことなのだろうか。

感動(をもらうこと)

感動には長い準備がある。準備は自分達でさせる。そして感動はみんなで分け合う。それではあまりに切ないじゃないかと思う。世の中がほんの少しだけでも準備を共有するだけでいいのに。マイナーと言われる文化産業、経済活動とは関係のない文化の世界にこれから少しでも目が向いてほしいと思う
為末 大 on Twitter: "感動には長い準備がある。準備は自分達でさせる。そして感動はみんなで分け合う。それではあまりに切ないじゃないかと思う。世の中がほんの少しだけでも準備を共有するだけでいいのに。マイナーと言われる文化産業、経済活動とは関係のない文化の世界にこれから少しでも目が向いてほしいと思う"

 「ほんの少し」というところがとても重要だと思う。上で書いた「努力に頼りすぎない」というのは選手などやる側の努力だけでなく、いわゆるサポーター、見る側の努力についても言えることなのではないか。理想論なのだろうし具体的な何かが思い浮かぶわけでもないけれど、ほんの少しの興味をうまく拾い上げてやる側の環境整備につなげられるような仕組みがあると良いのだろう。
 「普段興味も無くて何の貢献もしてないくせに良い時だけ感動をつまみ食いするな」と言う気持ちは、わからなくもない*2。でも、無理に感動を作り出し、それを長く消費しようとするようなこと(特にそれによってやる側に何らかの負担がかかるようなこと)が無ければ、たとえにわかでも競技内容や結果や少しのサイドストーリーに感動することがあっても良い気がする。ほんの少しであっても全てのいわゆる“マイナーな”スポーツや文化的活動に目を配るのは難しい。
 関連して最後に、言葉について。いつものエントリと違って、これは完全に僕の個人的な好き嫌いの話。
 こういうシーンで使われる、「感動/勇気を与える(与えてくれる)」という言い回しがあまり好きではない。スポーツの競技者や何らかの活動をする人がそういったことを動機にすることが問題だ、と考えているわけではなくて、感動とか勇気っていうのは受け手が勝手に「もらう(自分の中に生み出す)」ものではないかと思うからだ。
 最初に与えて側の方に感動や勇気が一定量用意されてそれが届けられると考えるよりも、観察することによって受け手が(勝手に)生み出してしまうと考えると、気が楽になること(人)も結構あるんじゃないかと思うだけれど、どうだろうか。

*1:過渡的に必要であることはあるかもしれない

*2:やはりわかってないのかもしれないが。