以下のやりとりを受けて。
僕は分散形態論(Distributed Morphology)の立場を取っているので、「統語論」とするよりは「統辞論」という方がしっくりくる(という話をtwitterでもしたことがある)。
ただ、「統辞論」はフランス語学が伝統的に使用してきた用語なのでそのイメージが強いとか、国文法研究にある程度詳しい人だと「詞/辞」がちらつく*1とかいったことはあるかもしれない。
その辺り(語/辞)の区別からニュートラルにするために、以前「統素論」という訳語を考えたことがあるが、そこまでして新しい用語を考えなければいけないほどの問題なのかという気もしていて、これからも主張しようという気はあまり無い(そんなにセンスが良いとも思わんし)。
分散形態論とMP(ミニマリストプログラム)の関係
福井氏の意図がどの辺りにあるのかはわからないけれど、MP(の研究)において分散形態論が広く受け入れられるようになってきているという状況はあるようだ*2。確かに論文を読んでいても、分散形態論を採用すると一言断っているものが増えた印象はある。
ただ、分散形態論を使うと一口に言ってもlate insertionを使うために導入するとか、ここで話題になっているような句と語の世界をそれほど厳密には分けないという立場を取るためとか色んな人がいて、今後はanti-lexicalismでいくという方針をはっきり打ち出した研究がどれほどあるのかというのはよくわからない。もちろん僕の勉強不足で、僕が考えている以上に普及しているのかもしれない。
訳語を変えるべきか
訳語はなんでも良いとは思わないし、できるだけ実情や内容/概念に沿ったものを使用することが好ましいとは思うけれども、これだけ定着した語について方針転換するとコストもかかるし混乱もあるのではないかと思う。僕はこれが問題になることで形態論に注目が集まると良いな、という不謹慎な立場。