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歯切れが悪いのは仕様です。

2011/10/23日(日)付朝日新聞天声人語「ら抜き」の記事に文句を付ける

 このエントリでは「言語学から見ると「ら抜き」は…」という話は書きません。
 「ら抜き」に関しては以下のエントリで簡単な文献集を作っています。全然網羅的なものではありませんが、これだけでもすでに色々な研究があるだろうことは見て取れると思います。演習発表や卒論などで「ら抜き」をやりたい人には少しは参考になるかな。

 「正しい言葉(遣い)」については今までいくつか書いてきましたので、これについても今回は書きません。

 さて、本論(宣伝)はここまでで、後はただの感想、というか愚痴です。天声人語の前半は次のようになっています。

冷凍庫を整理し、お宝を見つけることがある。旅先で買った干し烏賊(いか)だったり、作りすぎたパスタソースだったり。冷凍物と蔑(さげす)むなかれ。解かせば懐かしい時の恵みである▼東京紙面の投稿欄「ひととき」に、「私の日本語は冷凍品」なる一文があった。夫の転職で1960年に渡米し、ニューヨーク近郊で半世紀を過ごした江崎真佐子さん(81)からだ。「ら抜き」表現の広がりを小欄で知り、驚かれたらしい▼この方の日本語は米国に持ち込んだ時の状態という。「後生大事の母国語が、えたいのつかめぬものへと変身中の今、私の言葉は地球温暖化で徐々に沈む南方の島のごとく、立つ瀬をだんだん失っています」と結ばれていた
(2011/10/23日(日)付朝日新聞天声人語)

僕が気になったのは、結びの部分。

立つ瀬がないどころか、お持ちの「冷凍品」こそ貴重この上ない。語り部として、傷む前の大和言葉を「ら抜け」世代にお伝え願いたい。
(2011/10/23日(日)付朝日新聞天声人語)

 なぜ「傷む」という言葉を使う必要があるのでしょうか。「冷凍品」にうまくかけて話を展開したつもりなのかもしれませんが、「実際にあなたが使って(使えて)いるのだから、その日本語も冷凍品などではなく新鮮なものですよ」ではダメなのでしょうか。
 個人がある言語体系・言語表現に対して特別な価値を持たせること、それが少数派になる事態に対して不快感や寂しさを感じること、そしてそれらを表明すること、は自然な行為だと思います。僕もそのうちやりたくなるかもしれません。しかし、それは他の体系や表現を攻撃したり、貶めたりすることとは独立にできるのではないでしょうか。この書き出しから結びまでの間に「銀幕の原節子さんみたいな、美しい日本語」というような表現も出てきますが、たとえば当時の方言などは「傷む前の大和言葉」ではないのでしょうか。
 僕は、最後の「お伝え願いたい」という意見には大賛成です。しかしそれは「正しい言葉の使い手が間違った言葉の担い手に教える」ようなものではなく、一口に「日本語」とくくっても色々な体系があるんだなあというような体験に結びつくような場であってほしいと考えます。
 こういうところに気をつければ、たとえ外国語と接する機会が無くても他の言語体系(の存在)に思いを馳せる機会を生み出すことができるのに、それを「正しい/間違い」のような次元に落としこむ方向に誘導してしまうような文章が全国紙の論説として載ってしまうことに言語研究者としては寂しさを覚えます。