誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

「専門家は〜してない(からイカン)」的な何かと想像力の話(あと言語学はなめられているか)

 話の背景というか発端についてはばらこさんの以下のエントリをお読みください。

あとそれに続くエントリもおすすめ。

僕が付け加えられることはあまり無いのですけれど便乗して過去に書いたものの宣伝でもしてみようかなと思います。というかほとんど断片的な愚痴の集積です。

まず、言語研究者は文脈を考慮しないか

 そんな適当な研究したらゼミ・研究会レベルで真っ先にツッコミが入ると思います。文法研究の論文とかで文脈との関連が取り上げられていなかったら、それは無視されているのではなく、検討した結果(それほど)関係無いので取り上げないということが多いでしょうね。「大きな問題なので改めて論じる(≒難しいので後回し・誰かやってくれないかな)」ってこともありますけど。
 もちろんその検討が不十分だったら他の研究者からツッコミが入って、さらに研究が進んでいくわけですね。というか言語研究でそれまでの文法研究に対して文脈・語用論的条件・自然談話なんかを考慮すると別の研究の可能性が開けてくるってのは結構よく見かけるパターンのような気が…しかもごく最近の話でもないような。
 ただ文脈に大きく左右される現象(の多く)は語用論や談話・文章研究と呼ばれる領域で取り扱われることも多いので「文法」というキーワードだけに注目していると見逃す可能性はあるかなあ…文法研究でも文脈との関連について踏み込んで言及されるのもよく見かけますけどね。また、言語研究の入門書レベルでもその辺りのことは言及されますよ。たとえば以下の書籍でも

現代言語学20章―ことばの科学

現代言語学20章―ことばの科学

  • 作者: ジョージユール,今井邦彦,中島平三
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 1987/12/01
  • メディア: 単行本
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20章のうち2章が文脈に(大きく)関わる言語現象を取り扱う領域の紹介に割かれています。ただ「言語学の入門書」と言っても網羅的でないものも結構あるので知らない人がちょっと探す範囲だと見かけないこともあるかな。

Wikipediaとか

 まあ「研究ではそうかもしれないけどそれが社会に還元されていない」とか言われてしまうとそういう側面はあるかもしれません。それでも「あたかも「文脈は文法ではスルーする」ということが、言語学者たちにとって世界共通の文脈であるかのように」というのは言い過ぎだと感じますねえ。僕が言語学の関係者だからかな。専門の論文じゃなくてもちょっと大きめの書店やgoogle booksでチラ見する程度でもそんなこと言うのは躊躇する根拠になる情報ぐらいは見つけられそうなもんですが…
 Wikipediaにある程度十分な情報があってほしいという気持ちはわかりますし、僕も積極的に編集に関わったりしているわけではないので偉そうなことは言えないんですけど、「語用論」の項目をのぞいてみたら

語用論は統語論などの研究者から見れば枝葉の研究と見なされがちである一方、実際の使用と切り離して文法や意味の理解に至ることはできないという立場をとる研究者もいる。
語用論 - Wikipedia

とか書いてあってやっぱりもうちょっと編集に関わったほうがいいかなとも思ったり。「見なされることもある」ぐらいの言い方ならそう言いたくなる気持ちもわからないでもないんですけどね…

専門家によるネガキャン

 ややこしいのは、専門家自身が「〜学はこういう事実や観点に気づいていなくてダメ」みたいな言い方を一般書や入門書でしちゃうことがあるんですよね。もちろんその情報が事実だったら良いんですけど、そうじゃない上に書いてるのが「言語学者」って肩書きを持っていてしかもビッグネームだったりするから困ります。
 僕は個人的にそういうのはまずいなと思っていて、ここでもたまに愚痴っています。

上記から少し引用。

Q4. 一般向けの本なのである程度の間違いは仕方ないのではないですか。
A4. 一般向けの本であるからこそ問題です。なぜなら、上に書いたような問題(研究史上における位置付け、学界における受容)は、実際に資料や文献を調べたことがある人、実際に学界に身を置いている人、つまり専門家でないと気付けないことだからです。たとえば論理のおかしさ、などであればいわゆる素人でも気付く余地がありますが、素人が気付くことの大変難しい事実について、しかも一般向けの本で間違った記述をすることは、専門家として大変問題であると思います。
金谷武洋氏への批判記事についてのまとめ、あるいはFAQ - 思索の海

 「〜学には〜に関する研究が無い」ってのもここでの「気付くのが難しい」情報だと考えています。
 言語学/言語研究って研究領域が色々ある上に各言語ごとに研究があるもんだから研究の量自体が膨大ですし、しかも「〜に関する研究がある」って言うのに比べて「〜に関する研究は無い」ってことを言い切るためには可能性のある範囲を全部調べている必要があるので、ほんとに言い切ることができる研究者はそんなに多くないと思います。僕だったらよっぽど自信のある研究テーマ以外では「見かけない」とかそういう慎重な言い方を選びますね。いや自分の専門でも言い切るのは怖いかなあ…論文とかだと「管見の限り」っていう必殺技がありますが。
 余談ですが小飼弾氏は金谷氏の著作を結構好意的に紹介していたことがありまして、著作でも好意的に紹介したりしてと思うとちょっと暗い気分になっちゃいますね。asaokitanさんが最近ツイッターで僕のエントリを紹介してくれたようなのですが(ありがとうございます!)、僕程度の書いたものだとあまり影響無さそうです。

知らない分野に対する想像力

 なんでこう長々としつこく書いているかというと、「自分の知らないところで支払われている多大な労力/コスト/人生がある」ことに対する想像力って大事だと思うのですよね。それが意義のあるものなのか「良いこと」につながるのかという辺りの評価は難しいこともあると思いますけど。以下長いですが過去の関連するエントリから引用しておきます。

科学を含んだ、学問という活動は基本的に蓄積の上に成り立っています。僕はこの活動において、「正しい方法で間違った人々(研究)」が重要な役割を果たしていると考えています。
 一般書などでよく紹介されるのはやはり特に重要な研究を発表した人や、最初は間違っているとされながら、後にその正しさが認められた人だったりするのでなかなか認識されないのは仕方が無いと思うのですが、実際の研究の世界では無数のチャレンジがあり、多くの失敗…というか上手くいかなかった研究があるのです。後になって否定されるものもたくさんあります。
 重要なのは、それらが結果としては上手くいかなかったとしても、きちんと学問の(+それぞれの分野の)方法に従っている、ということです。そういう研究があるからこそ、次の人は同じ失敗を避けたり、どこかを改めて再挑戦したりできるわけです。
僕がニセ科学問題に(ちょこちょこ)コミットしているわけβ版 - 思索の海

これは学問に限らず当てはまるところもあるのではないでしょうか。学問に限らず専門領域に対するリスペクトが無い社会ってなんだか嫌な方向に行きそうな気がしています。
 こういった重要性を知るために、学問に関しては卒論が意外と重要だなと思っていて以前こんなことを書きました。

世間一般に出回る新書や啓蒙書に書かれているようなことを導き出すまでに、専門の研究者がいかに地道な作業、考察を膨大に行っているかということに直接触れるのにはやっぱり卒論執筆というのが一つの良い機会なのかな、と。
 もっと簡単に言ってしまうと、「この問題について”専門的に論じる”ためには最低これだけのものを読んで考えないといけないリスト」を目の前にして圧倒されるという経験が一度ぐらいあっていいのではないか
卒論と学問リテラシー? - 思索の海

もちろん、卒論(や卒業研究)自体を体験する機会が無かった人たちにどう知ってもらうか、という問題はあります。

言語学はなめられている?

 ばらこさんのエントリに着いているブコメには言語研究関係者のなげきがいくつか見られますね。

僕の感覚ではなめられているというよりは忘れられている、知られていないという感じですかね(それをなめられていると言うのかもしれない)。以前からちょこちょこ書いてるのですが、言語学(の考え方)を少しで良いので義務教育で導入しちゃうってのはどうですかね。異文化理解とか言語運用能力とかが重要って言うんだったら使える話がいっぱいありますよ。わりとマジです。
 言語自体はなじみも興味もある話題なので耳目を集めやすいのに加えて、一部の、他分野への敬意が無く言語学もよく知らない何かの専門家/研究者とか、知識人と言えば良いのでしょうかよくわからない頭の良さそうな人たちとかが、自分の経験とか新書で得た知識とか三十年ぐらい前のしかも学部で習うレベルの言語学の内容とかだけをもとにてきとーなことを言うのがややこしいです。心の狭い僕はあまりスルーできません。しかもてきとーなことを言うだけならともかくなぜか「言語学」が「過去の研究を墨守するだけの頭のかたい象牙の塔の住人」みたいに槍玉にあげられたり…今後もここやブコメで愚痴り続けると思うのでこの辺にしておきます。
 さて、最近掛け算の順序と言語の関係について少し書いたのですが、

その後次の本があることを教えてもらいました。

言語と数学 POD版

言語と数学 POD版

初版は1970年ですね。図書館で借りたのは第二版(1972)ですが、その前書きから引用して締めにしたいと思います。

わたくしは言語研究者の中では理屈で割り切るのが好きな方ですが、そんな人間から見ても他分野の人の言語(日本語や英語のような「自然言語」)の扱い方にだいぶ不満を覚えるのが普通です。例ならいくらでもあげられますし、特に「日本語の非論理性」についての論理的でない床屋政談などは概して腹立たしいほどですが、それだけになおさら、諸分野間の風通しをよくしなければなりません。その一つの試みとして、国語学者側からの発言がしてみたい―これが、わたくしが本書の執筆をお引き受けした動機の一つでした。
(水谷静夫『言語と数学』「はしがき」より)

一応、このブログは言語学/言語研究の営業・広報も兼ねているつもりで書いています(ちなみに今のところ営業妨害だからやめろという苦情はいただいておりません)。僕がやっていることと言ったらここで愚痴っているのがほとんどですが、これを読んで営業活動もがんばろうと勇気付けられたのでした。