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『日本語に主語はいらない』に突っ込む:寄道(6)三上章『象は鼻が長い』の表紙の話(+おまけ)

 このシリーズはもう新しい話を書くつもりは(今のところ)ないのですが、三上章絡みの話なので、一応シリーズに入れておきます。

『象は鼻が長い』初版本の表紙の話

 ツイッターで

というやりとりがありまして(表紙の写真は発言の最後に付いている"URL"のリンクから見れます)、どこに書いてあったのか思い出せなかったのでちょっと調べてきました。『続・現代語法序説』の川本茂雄氏による「序」にありました。

 本のカバーの署名の印刷に象ハ鼻ガ長イ*1とあって、「ハ」を二つに割って「ノ」の意味をも表わしてあるところなど、三上さんの学問的洞察力の深さと、表現力の斬新さを端的に示していて、感じ入ったのだった。
(三上章『続・現代語法序説(復刊版)』「序」より)

現代語法序説 続―主語廃止論 (三上章著作集)

現代語法序説 続―主語廃止論 (三上章著作集)

 なんでこれが注目されるかというと、いわゆる二重主語(二重主格)文である「象は鼻が長い」は、「象の鼻が長い」というパターンの文との関連性が重要な話題の一つで、それを視覚的に表現したところのセンスにうならされるというわけですね。
 『現代語法新説』の金田一春彦氏による「序」にあったように記憶していたのですが、完全に間違ってました(^^; ちゃんと調べるって大事。

おまけ:三上章に触れているまえがきを二つ

 ついでといっては何ですが、三上章に言及しているまえがきや序文を二つだけ挙げておきます。こういうのをちゃんと色々読んでいると「三上章は学会から冷遇され、その説は長い間顧みられなかった」なんてことは簡単に言えなくなると思いますので。

 世界のいろいろな言語を視野に入れつつ、つまりひいては人間の言語に共通する普遍的なものを志向しつつ、一方でどこまでも日本語自体の中に生きている理屈をつかみ出さなければならないということを私がおそわったのは、バーナード・ブロックと、三上章という二人の言語学者からである。二人とも今は既に亡いが、その影響は本書の全巻のいたるところに見出されるだろう。とくに三上さんには、日本語、言語のことにとどまらず、物事に対する見方一般から、世に処する仕方まで、言わず語らずのうちにおそわったように思う。その晩年の数年にすぎなかったとはいえ、この人に師事し得たことは、私の生涯の幸福であったと思っている。とりあえずこの第1巻を、三上さんの霊前にささげたい。
(寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味1』「まえがき」p.2)

日本語のシンタクスと意味 (第1巻)

日本語のシンタクスと意味 (第1巻)

 現代日本語研究、また日本語教育にも多大な影響を与えた寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味』三部作の第一巻です。この「まえがき」を読むといつも寺村自身も三巻目を完成させることができないままこの世を去ってしまったということに思いをはせてしまいます。

 1964年、『国語学』誌に、「「ダ」で終わる文のノミナリゼーション」という論文を発表したところ、さっそく、亡き三上章氏からお手紙をいただいた。日本文法界に新風現わる、という激励のお手紙であった。そんなわけで、三上氏に縁の深い、くろしお出版の おかの あつのぶ 氏のご厚意によって、この本が世に出ることとなった。三上氏にも、この本を喜んでもらえるだろうか。
(奥津敬一郎(1978)『「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ―』「はしがき」p.2)

「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ

「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ

 ビブリオバトルのエントリでも少し触れましたが、これも後の日本語文法研究に大きな影響を与えた著作の一つですね。ちなみに分析の枠組みとしては生成文法が用いられています。
 三上氏が晩年生成文法にも興味を持っており、久野すすむ*2氏との交流もあったことは日本語研究界では良く知られていますが、三上章対生成文法みたいな単純な構図はやめて欲しいところです。
 他にもいくつか調べて書こうかとも思ったのですが、そうするとまたエントリがお蔵入りになってしまう可能性もありますので、とりあえず僕の記憶からすぐに引っ張ってこれるところを記録しておきます。

*1:原本では囲み線を使って「ハ」が二分されています。

*2:文字化けする…「日ヘンに「章」」の字ですね。