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歯切れが悪いのは仕様です。

人文(社会)系の必要性と「説得」の必要性

はじめに:「説得」の必要性

 先に書いておくと、特に目新しい提案とかがあるわけではないです。まとまりもないのですが、個人的な思いについて書いておきます。
 下記の記事をきっかけに色々議論が出てきているようです。

 僕もものすごく断片的なエントリを書きましたが

下記の隠岐さや香氏の記事のはてブコメントの反応を見ていると、心配し続ける必要があるのではという気になってきます。

私の周囲の、特に人文社会系の研究・教育などに携わる人の間では隠岐氏の記事への評価が高い印象ですが、個人的にはむしろ下記のようなコメントが付いているのが気になります。

この期に及んで"「気分はパッションフルーツ」レベルの比喩でしかない"というレトリックで抗うの? いくらなんでももうちょっと書きようがあるように思う。
はてなブックマーク - takehiko-i-hayashiのブックマーク / 2014年8月28日

僕も最初隠岐氏の記事を「そうだそうだ」と思いながら読んでいたのですが、id:takehiko-i-hayashiさんは、ブログやブコメを読む限り人文社会系の営みにも理解がある(偉そうな書き方ですみません*1)方だと感じているので、そういう方からこういうコメントが出るということをもっと気にした方が良いのでは、と思うようになりました。
 理工系の分野に携わる方々(特に研究者)というのは言わば「根拠と論理を揃えれば話を聞く・納得する」という土俵に上がってくれる人たちだと思うので(個人個人を見れば、実際には感情的な反発というような反応も十分考えられるわけですし、むしろそれも自然だと思うのですが)、そういう人たちを説得できないようでは、雑に括りますが、「社会」の説得は難しいのではないかと思います*2
 「知らないやつが悪い」「もっと人文社会系の本を読め」ではもはやすまない段階に、僕たちはいるのではないでしょうか*3
 killhiguchiさんの記事からも引用しておきます。

学問の世界の中の人たちは、外の市民に向かって情報を出しているし、市民に関わってほしいと呼び掛けているのだが、実際には、まだまだである。でもそこで諦めずに、市民を説得する議論を提供できなければ、シビリアンコントロール以前に、不要として切り捨てられる可能性が高いのは仕方がない。説得もできてないうちから、学問の中の人たちが学問の未来を決めよう、とか言うのは、凄く変だ。
2014-08-27 - killhiguchiのお友達を作ろう

 ちなみに、上記のエントリでも少し書いてありますが、僕自身は「理系文系」というのは大変雑で有用性のない切り分け方だと思っています。ここで言う「説得」には人文社会系->人文社会系という方向性のものも含みます。実際、人文社会系の末席にいるものとしては、そちらに限っても相互理解がまだまだ必要じゃないかと感じる場面は色々あります。

専門家-素人のコミュニケーションと大学での授業

 さて、僕は隠岐氏に比べると実際に分野間をつなぐ活動や研究をそれほどしているわけではありませんし、特に良いアイディアがあるというわけではないのですが、以前から気になっていることがあります。それが大学での授業です。
 僕は専門(言語学・日本語学)の授業では、講義でも演習でも「この分野に関係のある道に進まない人たちにも、この分野の理解者となってもらうにはどうすれば良いか」というポイントを忘れないようにしています。もちろん、研究者や高度な専門的知識・技術を持った人を育てる、というのも重要でしょうけれど、そういう道には進まなかった人たちが、日常会話やブログなんかで「そういえば大学でこんなこと習った」とか「言語学っていう分野があって」などと言ったり書いたりしてくれること、そういう人たちを少しでも増やすことも、重要な「専門家と素人のコミュニケーション」の一つなのではないかと思うからです。過激な書き方をすると、適当な授業をすることで、その分野にとって不要な敵を作ってしまうことが意外とあるのではないでしょうか。
※追記(2014/09/02):こういう面から見ても、大学教員が色々忙しくなって授業準備(や授業の基礎になる研究活動)に割ける時間が減っているとか、非常勤講師の給与が授業準備にかかる時間まで考慮した体系になっていない(ことが多い)のでは、というのは問題だと思います。
 もちろん、授業で人気取りをしろとかということを言いたいわけではありません。研究者・専門家にはしっかりしたノウハウや方法論があるということを知ってもらう・体感してもらうことが重要だと考えています。むしろ、ただ面白トピックを紹介するだけでは「なんか話は面白かったけど何やってるかわからない」みたいな印象にもなりかねません(概論など、授業の形態上そうならざるをえないことはしばしばありますが…)。研究とはあまり関係のない人たちにも「あ、この問題ならあいつらにやらせてみよう」とどれだけ思い至ってもらえるのか
 考えてみれば、大学に所属している研究者というのは、自分たちがやっていることについて、説得の機会・場面に恵まれていると思います。その他の活動や運動を見ていると、まず話を聞いてもらう機会を得るところから大変だったりしますよね。授業や講演(やメディアへの露出、etc.)といった様々な機会を、言論や説明・説得のプロでもあるはずの研究者集団が生かせないというのは大変残念なことに思えます。もちろん現在でもさまざまな取り組みはありますし、研究者の持つ説明・説得の技術というのはある意味で場面限定的というか条件付きみたいなところがあるので簡単には言えないのですが、いつまでそういう機会に恵まれているのかわからないということは気に留めておいた方が良いのではないでしょうか。
 ただ、僕自身の研究内容からするとがんばれるところは授業だったり大学説明会の模擬授業だったりブログ書きだったりするというところも大きいので、関わり方には色々なパターンがあるんだろうと思います。

次の世代へ

 隠岐氏のエントリは、こういう問題に取り組み続けてきたからこその「疲労」みたいなものも出ているように感じられます。そういう「疲労感」や大変さはなくならないのかもしれませんが、できるだけ減じて、あるいは何らかの希望とともに次の世代へ託したいものです。
 僕は研究者としてはそんなことを言うのはおこがましいぐらい「若手」で、むしろまだ駆け出しと言っても言い過ぎではないかもしれませんが、こういう問題を考えずにはいられない状況に今はあると思いますし、それを多くの人に知ってもらいたいと考えています。

*1:追記(2014/09/20):しかもこの書き方だとご自身の研究が人文社会系とは関係ないように読めてしまいますね。リスク研究・統計学がご専門ということなので人文社会系の諸分野・諸問題にも深く関わるのだと思います。こういう切り分け方自体「分断」につながりがちで良くないかもしれません…

*2:もちろん、研究者どうしだとかえって分野が近かったり、ある程度お互いの事情が分かっているからこそ、説得が難しいということはあるかもしれません。

*3:理工系の教育にもっと人文社会系の内容を採り入れるべきだとか、あるいは人文社会系の教育に数学や科学の内容をもっと採り入れるべきだというのは、別に考えていく必要があると思います。