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言語学の入門書その3(やや番外編):斎藤純男・田口善久・西村義樹(編)『明解言語学辞典』

はじめに

 過去のシリーズはこちら

 今回取り上げるのは辞典です。

明解言語学辞典

明解言語学辞典

フォローしているアカウントの方の発言も多いのですがこの流れはぜんぜん覚えていません。この時何やってたんだろう…

前置き:専門的な辞典・事典の使い方(やや番外編である理由)

 上記の三省堂のサイトには「初学者から研究者まで使える」と書かれています。確かに便利で、私も授業準備等でちょくちょく引くことがあります。
 では、初学者にとってはどうかというと、確かに初学者でも使える辞書だとは思いますが、初学者がこれをいきなり読んで「理解」するのはかなり厳しいでしょう(私はもう初学者ではないので推測ですが)。
 理由はそれこそ明解というか「辞典」なんだからある意味当たり前な話で、各項目の記述が非常に簡潔だからですね。専門的な辞典・事典は一般的な辞典よりは各項目の説明が丁寧であることが多いですが、『言語学大辞典』のように場合によっては1つの項目に何ページも割いているものはむしろ珍しく、これだけで内容が把握できるのはむしろある程度基礎的なトレーニングを積んだ人だと思います。
 では、初学者はこういう「辞典」をどう使えば良いのでしょうか。私のおすすめは「ポータルにする」と「復習・確認に使う」です*1

ポータルにする

 知らない、あるいはうろ覚えの用語に出会ったときにこの辞典で調べることによって、その用語について

  • どの研究領域やトピック(音韻論、社会言語学、表記、…)に関連する用語・概念なのか
  • 他のどのような用語・概念が関係しているのか

をある程度知ることができます。その後、他の用語をこの辞典や他の辞典で調べたり、入門書や専門書を調べたり探したりしてください。このような作業に慣れていない方には面倒に思えるかもしれませんが、結果的にこのような手順でやる方が早いことも多いです。

復習・確認に使う

 「言語学概論」のような授業をどこかで受けたり、数冊言語学の入門書・概説書を読んでも、基礎的な用語・概念を定着させるのは実はけっこう難しいことなのではないかと個人的には考えています。その後に、文法論や意味論といったさらに詳細な個別の研究領域の勉強を進めることによって、基礎的な用語・概念の理解も進むという側面がどうもあるようなのです。
 正確な理解を得るためには、一度勉強したはずの用語や概念でも、出会う度にその内容や理解の具合を確かめ直すという作業が複数回必要になってきます。
 もちろん、一度、あるいは何回か触れたことのある用語・概念については自分が過去に使用した入門書・概説書・専門書をもう一度読むというのでもいいのですが、こういう辞典の簡潔な記述で確認するというのも1つの手です。理解したと思っていたのに辞典の記述だとよくわからないというのであればまだ理解できてないという可能性がありますし、以前読んでさっぱりだった項目を読み直してわかるようになっていた時には勉強の成果を実感することができます。

他の本のお供として

 というわけで、全くの初学者がこの辞典だけで言語学に入門することはおすすめしませんが、他の入門書が概説書、専門書を読んでいく時に併用することをおすすめします*2

特徴

 前置きを細かく書きすぎてしまいました。以下、この辞典の特徴について簡潔に紹介しておきます。

安い

 税込2,376円です。自宅用、携帯用、保存用(?)と3冊買っても1万円行きません。言語学の研究者にとっては驚き…と一般化できるかはわかりませんが、少なくとも私はこの内容でこの値段というのはかなり驚かされました。

コンパクト

 かなりコンパクトで持ち運びに向きます。ペーパーバックなので軽いですし。私自身は非常勤の授業の時にかなり重宝しています。
 今だと『言語学大辞典(術語編)』をPDF化するというような方法もないではないですが、

言語学大辞典〈第6巻〉術語編

言語学大辞典〈第6巻〉術語編

辞典のような本は「パラパラめくれる」利点が大きいと思いますので、この辞典の存在はやっぱりありがたいですね。

分量は十分?

 コンパクトということで気になるのは内容量なのですが、項目についてはこのサイズでよくここまでカバーしているなというのが私の印象です。「この項目を載せないのはまずいのでは…」というのは今のところ思いつきませんね。ただやはり1つの項目についての記述はかなり簡潔なものもあります。これはしかたないところかなと。

新しい

 もう一つの大きな利点は、この辞典が「新しい」ことです。そりゃ2015年に出たから当たり前なんですが、新しいということは、古いものに比べて新しい研究成果を反映させられるということです。
 わかりやすいのは認知言語学に関連する項目が多く立てられていることですね(「アフォーダンス」「図・地」「認知言語学」「百科事典的意味論」「プロファイル」「メタファー」「メトニミー」「用法基盤モデル」等)。
 あと、音韻論の理論の項目がすごく充実していますね(「生成音韻論」や「最適性理論」だけでなく「韻律形態論」「音律音韻論」「語彙音韻論」「自然音韻論」「自律分節音韻論」「素性階層理論」「統率音韻論」「非線形音韻論」「不完全指定理論」「分節音韻論」すべて独立した項目になっています)。
 生成文法関連だと「極小主義」「進化言語学」辺りが新しめの内容でしょうか。項目は少なめですが、「語彙機能文法(LFG)」「主辞駆動句構造文法(HPSG)」もきちんと立項があります。
 他にも「おっ」と思ったのは「役割語」「枠付け類型論」(Talmyのあれ)などの項目でしょうか。
 また、項目自体は古典的なものでも、新しめの内容を盛り込んでいるものもあります。たとえば、「言語相対論」ではPinkerの研究や認知言語学との関連にも触れられています。
 用語として新しいというわけではないのですが、「作用域」「変項」辺りの「なんかあまり詳しい説明もなくよく出てくるけど具体的に何を指しているか初学者にはいまいちわかりにくい」用語(私の主観)について項目があるのもいいですね。

その他の特徴

 執筆者名が項目の最後に明示してあるのは個人的に好きです。そこからすぐに書籍・論文を探せたりしますし。
 索引が最初にあるのは使ってみるとけっこう便利です。索引自体も丁寧に付けられていて使いやすいです。
 付録は、言語学の事典だと鉄板でしょうがやはりIPAと音声学関連の情報がまとめてあるのは便利ですね。もちろん英日対照表も付いています。

気になるところ

 おそらく様々な制約等があってこのような形になっていると思うので、以下は難癖に近いかもしれません。

文献の提示

 文献が示されている項目とそうでない項目があります。内容を読んでいると文献を挙げようがないものもありますが、やはり専門的な辞典・事典では文献情報があるとありがたいです。ただ文献情報は意外と記述に行数かかりますからね…

内容の新しさ

 新しい成果が採り入れられているという話を上でしましたが、そうでない項目もあるように見受けられます。もちろん、項目によってはそれほど新しくする必要がないものもあるわけですが、ちょっと気になるものもありました。たとえば、「形式意味論」の項目では三分の一の分量が「理論の限界」に当てられている一方、1990年代以降の進展にはまったく触れられておらず、ちょっと厳しいかなと感じます。

内容自体の適切さ

 すべての項目を詳しく読んだわけではありませんので、専門的な内容に誤りがないことまでは保証できません。今のところ気になる書き方はありましたが、「明らかにまずい」記述には出会っていません。専門家の方は、見つけたらぜひどこかで指摘してほしいです。

おわりに

 最後に少し難癖も付けましたが、やはりこの内容でこのコンパクトさと値段はすごいです。この特徴は、最近出ている他の専門的な辞典・事典、たとえば

日本語文法事典

日本語文法事典

などとは一線を画すものだと思います(もちろんどちらが優れているというかいう話ではなく目的・用途が違うわけですが)。言語学が気になる、あるいはやらなきゃいけないという方はぜひ手に取ってみて下さい。

*1:初学者だけがやる使い方というわけではありません。私は復習・確認に使うことが多いですが、(特に不慣れな領域の話については)ポータルとして使うこともあります。

*2:初心者の段階で複数の本を平行して読むのは混乱する、というような人もいるかもしれませんが、私は「あれこれ読む」ことが結果的に理解を進める・深める上で効果的なことがけっこうあるのではないかと考えています。