誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

書くこと自体に意味がある(少なくとも言語使用の記録として)

先に断っておくと,継続して文章を書くとそのうち良いことがあるというような話ではない。定期的に書いているが,私はブログもそんなに継続しなくてもよいと考えている。

dlit.hatenablog.com

さて,下記の記事の「意味はあるのか?」という問いに対しては,おそらく期待されていない答えだろうけれど,少なくとも言語資料として意味はあると言える。もう少し細かく言うと,web(ネット)に何か書くことはある時点で文字という媒体を通してどのように言語(ここでは日本語)が使われたかの記録になる

anond.hatelabo.jp

そう考えると,内容はなんでも良い。「正しい日本語かどうか」なんてことも気にしなくて良い。非常に専門的/マニアックなことでも,その分野特有の言い回しや略記等のデータとして貴重だし(辞書には載ることがないものも多いだろう),方言の話や方言そのものを文字で残しておくのも面白いと思う。上には気にしなくて良いと書いたが,知恵袋系のサービスに投稿される「○○っていう言い方は日本語としておかしいと思いませんか」のような質問も現代の言語生活や言語(使用)に対する意識の記録になる。

現代は,webの恩恵によって,おそらく最も多くのそして多様な人々が文字を使って言語を生み出している時代ではないかと思う。少し時代を遡ると,残されている文字言語の資料は書籍,新聞,雑誌といった,文字を書くことを生業にしている人々の手によるものが多くなる。

量だけでなく,プロの文章には校正・校閲のようなチェックの過程があることを考えると,webに何か書くことは,言語の使い手が生み出した文字言語が(ほぼ)そのままの形で記録されているということも多く,質的な面から見ても面白い。個人的には,コンピューターとwebの登場・発展は,文字言語の使用と記録にとって(印刷技術の登場と普及に次ぐぐらいの)1つの大きな転換点と言えるのではないかと考えている。

もっと時代を遡ると,もちろん文字言語・文字資料は印刷されているものでもなく書いている人も(現代的な意味での)プロというわけでもなく校正や校閲のような仕組みが整備されているわけではないが,今度は文字を操って言語を記録に残すことができる能力を持っているのが(知的エリート等に代表される)その社会の構成員の一部に限られてくるという点でやはり現代とは状況が大きく異なる。

一方で,現在膨大に蓄積されている貴重な言語のデータを今後どのように残すことができるかという課題はけっこう深刻ではないかと思う。下記の発表でも少し触れたように,

www.slideshare.net

デジタルデータは少なくとも現状では紙の資料と違って継続的に保持・継承することが求められるだろうから,しばらくは問題ないかもしれないけれど,実は今観察・記述・研究しておかないと思ったより早く手に入らなくなってしまうデータも多いように思う。webのデータはサービス(を提供している企業等)の動向に大きく左右されるので,比較的短期間で突然大量のデータが使用できなくなってしまうかもしれない。

私が授業等で例に挙げるのはケータイメールのデータで,活発に使用されるようになったのはまだ20年ぐらい前だが,もはや古典資料になっているとさえ言えるのではないか。なぜなら,もうあの文体・コミュニケーションスタイルでケータイメールを使う話者自体いなくなってしまって,おそらく復活はしないだろうから。コミュニケーションにおける役割は日本語ではLINEに引き継がれたが,ケータイメールとLINEに現れる言語には,さまざまな違いがあってサービスが変わっただけとはとても言えない。ケータイメールのデータは(LINEも基本的にそうだが)Twitterのデータなどと違ってオープンではないので記録自体難しかったという事情もある。

専門家の希望としていろいろ書いてみたけれど,ブログをある程度書き続けてきた経験から言っても何気なく書いたことが思ってもみない展開につながることもあったりしておもしろいし,できれば多くの人にwebでいろいろなことについて書いてみてほしい。繰り返しになるが,「正しい日本語かどうか」なんて気にしなくて良い(むしろ気にしないでほしい)。ただ,ことばを使う以上ミスコミュニケーションやトラブルに発展する可能性は常にあるということは忘れないでほしいし,「書かない」ということも1つの判断として尊重される社会であってほしい。