最近後輩の相談なんかを受けててふと思ったんだけど、理論的研究(ここでは「名前が付いているような理論」の意味。特に生成文法)に対して拒絶的、忌避的、懐疑的なイメージをぬぐえない人たちって、むしろ理論家より「理論というもの」に対して潔癖なんじゃないだろうか。純粋な思いを抱いているというか…
譬えると、「素朴な基礎付け主義を素朴に信じてる」って感じかな…理論ていう体系には何か根本に確固たるモノがあると思っているらしい。
そんなモノは無いのに…
というわけで、最近デュエム-クワインテーゼの話なんかをする機会がちょこちょこある。まあそれで理論から離れるかどうかはその人によるんだろうけど、研究をしばらく進めたところで、ある日一人で勝手に「理論の限界」に打ちのめされてしまうよりかは早いうちに知っておいた方が良いんじゃないか、と最近なんかは思う。
そういう意味ではクールというかドライでないと理論研究って継続していけないのかもなーもちろん情熱も必要なんだろうけど。
「理論の根幹」ってところに関わる話としては、生成文法はGBからminimalistになってますます「基本理論セット」みたいなのが無くなっちゃった感がある。
最近自分が追っかけてる"head movement"って概念・装置に関しても色々な研究が乱れ飛んでる状況だ。まあそれが面白いのだし、head movementはGB後期からもともと色んな問題を随伴させた概念だった気もするわけだけど。
でもここをある程度収束させないと、自分のメインテーマである「日本語の述部の形態統語論的研究」はとても成り立たないんだよね…もうちょっと胃をきりきりさせながら向き合ってみよう。問題は周りにこの問題についてとことん付き合ってくれるような人があまりいないようだ、ってことなんだよなーう〜〜む…
というわけでたまには自分絡みの真面目な話をしてみました。