はじめに
言語学な人々アドベントカレンダー
この記事は「言語学な人々 Advent Calendar 2022」の6日目の記事として書きました。
adventar.org
昨年は登録前に枠が埋まってしまったので(情報を知った翌日の早朝でもうダメでした)今回はなんとか間に合って良かったです。
どうしてこんな記事を書くか
私の研究上の専門の1つに生成文法 (Generative Grammar)があるのですけれども、その割にwebではあまり生成文法をメインにまとまったものを書いたことがありませんでした。いつか書きたいなと思ってメモしていた話がいくつかあり、これはそんな記事の1つです。
当初は「日本語学の人が生成文法を勉強するときに注意した方が良いこと」のような感じで書いてみたものの、なんか説教臭くなったのでやめて体験談のような形してみました。それでもアドバイスのようなものは内容としては残しています。ただこういうノウハウとかについてはその人が置かれている環境とかにもよるので、参考程度ということで(参考になる人の範囲がすごく狭そうですが…)。
また私が気付けていないだけで私個人の環境ではそうだったというところもあるでしょうから、ここに書かれていることだけから「日本語学」や「生成文法」などに対する安易な評価・判断をしないようにお願いします。
ふだんはブログで非専門家向けの解説や読書案内を優先していますので、たまにはこういうエッセイ的な記事も良いだろうと勝手に思って書くことにしました。
用語
ふだんはブログやTwitterでも「生成統語論 (Generative Syntax)」という名称を使うようにしていますが、なじみがない人も多いでしょうし特にこの記事では必要なければ「生成文法」を使います。
「日本語学」についても解説があると良さそうだとは思いつつ、難しすぎてやめました。言語学や日本語学になじみのある方は(人によって考え方に幅はあるとしても)現在研究界で使われている「日本語学」として受け取っていただいて構いませんし、よくわからないという方は「言語学の手法で日本語を研究する研究分野」くらいの受けとめ方で良いかなと思います。
あと「理論」「枠組み」「モデル」あたりの用語も厳密に使い分けてはいません。言語学の研究では特定の名前が付いている理論を使っているものを特に「理論(的)研究」と呼ぶことが多いように思います。理論とよく対比されるのは「記述(的)研究」で、そのベースにも実は厳密に言うと理論的基盤があると思うんですが、こういう見方は好まない研究者もいるようです。私の理解(実感)では「理論(的)研究」と「記述(的)研究」に違いがあるとすれば研究の目的とか、どれくらいの抽象度まで許容するか、といった辺りの優先順位に関するものっぽいです(そもそもきっぱり分けるのもあまり良くないかも)。「記述」の範囲や内容に関する感覚も対象言語によって違いがありそうですしね。
言語学における「記述」についてまったくさっぱりという方はいちおう下記の動画でごくごく初歩の解説をしましたので見てみるとなんとなく感覚がつかめるかもしれません。
youtu.be
なぜ生成文法へ
生成文法との出会い
大学に入学してからはじめて言語学という分野の存在を知りましたので生成文法のことを知ったのも大学の授業です。実はこの辺りの経緯は竹沢幸一先生の退職に関する記事に書いてしまいました。
dlit.hatenadiary.com
「生成文法がもしかしたら合ってるのかもなあ」と感じたのは次のようなことがあったからです。
学部3年か4年の頃に竹沢先生の授業で読んでいた『格と語順と統語構造』の方が、並行して自分で読んでいた工藤真由美『アスペクト・テンス体系とテクスト』よりなんか分かりやすかったのですよね。
特に『アスペクト・テンス体系とテクスト』がなかなか理解できなかったのは当時かなりショックで、すでに大学院進学を希望していましたが日本語学(の文法研究)は自分には無理なんじゃないかと心配になりました。
(https://dlit.hatenadiary.com/entry/2022/03/25/093446)
ただ卒業論文では生成文法自体を自分の分析にぜんぜん使っていません。当時はまだよく理解できていないという実感の方が強くあまり使おうとも思っていませんでした。大学院に進学したらそのうち使うかなあくらいの予感はあったかな。
言語現象が入口に
ところでその卒論を進める上では生成文法を使っている先行研究はいろいろ読みました。これは研究テーマが格 (case)や態 (voice)だったというのが大きいでしょう。タイトルは「日本語における「に」の多義性―起点的意味役割を中心に―」というもので、「友達 に/から プレゼントをもらった」のように「から」と交替できる(ように見える)「に」に関する記述・分析です。文章が恥ずかしすぎてwebでの公開には踏み切れていません。
日本語学に限った話ではなく、非理論系の「○○語学」から生成文法のような理論系の研究を専門にしていく場合、特定の言語現象を入口にすることがけっこうあるのではないでしょうか。私の場合もこのパターンで、日本語で格や態についてやるとなると基礎文献に生成文法絡みのやつが並ぶんですよね。今はそこまで必読という感じでもないのでしょうか。でも重要な記述も多いからなあ。
下記の記事でも書いたように、ウナギ文で有名な(ウナギ文の知名度に比べるとあまり読まれていない感のある)奥津敬一郎 (1978)『「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ―』も分析は生成文法を使っています。
dlit.hatenadiary.com
特定の言語現象が言語理論の勉強・研究の入口になると、その理論にとって重要であっても勉強や理解が十分でないということが発生するのではないかと思います。自分のことで言うと、格とかに比べればwh移動とかの話はあまり得意ではなかったです。今は削除 (ellipsis)なんかにも手を出していたり(これは形態論の絡みもあるけど)。
言語現象の観点から見るとあまり関係づけられそうにないものがダイレクトに関係してくることがあるのが(少なくとも生成系の)理論研究の面白いところでもあり、利点でもあり、またこわいところでもあるので、言語現象に縛られず理論全体を知る方が良いです。その方が結果として理論そのものの理解につながったりもしますしね。
理論を(で)やっていて良い点
コミュニケーションの手段としての理論
理論を知っているとその理論を用いて書かれた文献が読めるようになる、というのは当たり前のこととして、より多くの人と議論や情報交換ができるようになります。
もちろん、理論系の研究者と理論の話を抜きにして言語現象の記述や分析の話をすることができますが、ある程度でも理論のことが分かっていると議論の解像度が上げられます(それが良いことかどうかはまた別の話かも)。
特に学会の質疑応答などでは時間の制限もあって(略称等も含めた)専門用語の使用に遠慮のないことも多いですから、用語を知っているというだけでも理解に影響があったりします。時間と機会がある場合は時間をかけてやりとりすれば良いのですけれどね。
特に日本語に関しては、英文に限ってもかなりの研究が出ていますので、それらの一部でも読めるようになると自分の研究にとって大きな刺激やヒントを得られるでしょう。これは生成文法に限らない話ですね。自分では使いませんが、LFGやHPSG、形式意味論やOTなどの勉強を院生時代にある程度やっていて良かったと今でも思います。
片方が最新の理論的な動向についてそこまで詳しくなかったり、生成文法系内での見解や立場の違いがあったりしても、お互いがある程度理論を知っていれば両者で議論のできる妥協点を探って話をすることができるのも良い点だと感じます。
理論と記述の関係
これは上の竹沢先生の記事でも書いたことですけれども、少なくとも言語学の研究において理論と記述の研究はかなり複雑です。
理論系の研究には特定の理論をベースにしているからこそ得られる言語現象の記述が出てくることがありますし、記述系の研究には特定の理論に依拠していないからこそ出てくる理論的な洞察が出てくることがあります。
理論になじみのない研究者が理論系の文献に接する場合、良い分析の枠組みや概念を求めてということがけっこうあるのではないかと思いますが、面白い言語現象の記述を求めて理論系の論文を探すのも実は個人的にはおすすめです。変な記述に当たったらそれを批判する形で1つの研究にできるかもしれませんしね。でも今の日本語学では「理論系の文献でこんな記述が出てくるけどもっとちゃんと調べると…」というパターンも論文はそれほど書きやすくはないんですかね。
凡人でも参加できる
理論系の研究は凡人でもその一部に貢献できるのが良いところだなと考えています。私は本当にそう考えて自分が研究の世界で生き残る道として、理論系の研究をメインにすることにしたのです。ただ誰でもできるという意味ではなく、相性や好みはあると思います。極端なこと言うと文献や分析に記号が出てきたときに嫌だなと感じるかわくわくするかといった辺りの、あまり本質的には思えないようなところの相性も大事なのかなと。
勉強の方法、あるいは英語との付き合い方
理論の勉強は知っている人とやる
言語理論の勉強は、とにかく(自分より)詳しい人と一緒に勉強会や読書会をするのを特に強くおすすめします。大学院生でしたら周囲の院生、今なら所属が違っていてもTwitterなどで仲間を集めたりオンラインでやったりというのもハードルが下がっているでしょう。
そりゃ詳しい人に聞ければ一番良いというのは一般的になんでもそうなんですが、理論系だと「教科書・入門書では特に言及されてないけど使われている記号・記法があって、実はそれほど重要ではない便宜的なものなので無視して良い」みたいなことがたまに出てきて、初心者だとその重要性が判断できず、また重要ではないので調べても情報がなかなか出てこないというようなことが発生します。こういうのを知っている人に聞けると「あーそれは気にしなくて良いよ」ですぐに話が終わって重要なところの理解に時間が割けるのですよね。生成系の統語論で私がけっこうトラップではないかと思うのはたとえば樹形図で内部構造の省略を三角形で済ませてしまう記法ですね(実際に何回か質問を受けたことあり)。
もちろん中にはじっくり時間をかけて考えていろいろ調べた方が良いということもあります。でも特に大学院生だと研究に限ったとしてもやることがいろいろあって時間がないですからね。
英語の文献
特に、英語に強い人と勉強会や読書会ができる機会が現れたら逃さないようにすることをおすすめします。英語が苦手な人はなおさらです。苦手だと一人ではなおさら勉強するの難しいですよ。
私は生成文法についてはかなり独学もしたという実感がありますが、独習で身に付いたという実感はあまりありません。特に自分の助けになったのは、大学院のときにその時点ですでに生成文法に詳しかった同期や先輩と下記の教科書で勉強したことでした。
この教科書は「(英語が苦手でも)分かりにくい和文文献より分かりやすい英文文献の方が良い」ということを実感できたという意味でも良かったです。
生成文法はどうしても英文の文献が多いので、対象を日本語に限ったとしても英語である程度文献が読めないと厳しいです。まあこれは今の研究界では生成文法に限った話ではないでしょうから大学院生にとっても釈迦に説法という感じでしょうか(英語で文献があるだけありがたいとかそういう話は置いておいたとしても)。生成文法系の文献は理論に対する理解ができて慣れてくれば例文の周囲と樹形図等の構造表示だけ拾って見てもかなりの程度内容が分かるようになりますので、ずっと英文の文章のみの文献よりかえって読みやすいと思います。
自分について言うと、英語は高校・大学とあまり得意ではありませんでした(期末試験で50点くらいだったり大学で必修の英語の単位落としたり)。でも大学院時代にたくさん文献を読んだり海外の大学院にお邪魔したりしたことなどの積み重ねで専門に関しては最低限何とかなるようにはできたかなと思います。今でも英語で司会をする時はものすごく緊張しますし英文文献の査読とか時間がかかりまくるんですが。
Chomskyは(先に)読まなくて良い
Chomskyの書いたものはまず英語が難しいので、初学者が先に読むものとしてはおすすめできません。生成文法そのものについてはほかの人が書いた概説書、入門書、教科書がいろいろありますし、Chomskyが書いた文献やChomskyが考えていること、個別の言語現象の分析についても、ほかの人がそれぞれの文献の中でたくさん解説を書いているのでまずはそういうものを手がかりにして勉強を進める方が良いと思います。
ただ、上に書いたようにChomskyの書いたものを読む(詳しい人が参加してくれる)読書会や勉強会があったらその機会は大事にした方が良いです。自分で、しかも1人で読むのは厳しいでしょう。私は大学院で加賀信広先生や柳田優子先生の授業でChomskyの著書や論文を読んだのがとても助けになりました。詳しくない人だけで読んでみようとするのはなかなか難しそうですが、英語がとても得意な人がいればなんとかなることもある…のかな。
実際に自分の分析に生成文法を使うとなるとChomskyの書いたものをいつかは読まないといけなくなる可能性が高いのでそれは覚悟するしかありません。
生成文法は英語ばかりやっているか
生成文法は英語ばかり分析しているというイメージがある人がいるようですが、現在ではまったくそのようなことはありません。さいきんの国際誌の論文や国際学会の発表内容をざっと見てみるだけで分かると思うんですが、特に入門書だと例に英語が出てくることが多いのでそのように感じるのでしょうか。日本国内だと、生成文法に触れるのが大学の英語学の授業内が多いというようなことなども関係しているのかもしれません。
そもそも生成文法に限らず英語はたくさん研究されている言語ですからね。少なくとも日本語を対象にした生成文法の研究は(今でも)たくさんあります。
そういえば、私は専業非常勤時代も含めて大学教員として生成文法の授業を担当したことがありません(もちろんトピックによっては個別の研究を取り上げることもあります)。日本語文法の授業なんかもほとんど持ったことがありませんが、言語学の研究者だと自分の専門に関する授業を持ったことがないというのは(日本では)あまり珍しいことではなさそうです。
おわりに
特にまとめのようなものはありません。
こういう話をする場として学会の休憩時間や懇親会があると思うのですが、さいきんあまりそういう機会を持てていませんのでこういう形で書いてみることにしたということも実は動機の1つとしてあります。
生成文法についてどれくらい知っていた方が良いかというのは対象にする言語や興味のある研究トピックによっても違うでしょう。日本語学系の学会・研究会に出ていると、日本語学から研究のキャリアをスタートして生成文法をある程度使っているという研究は減ってるんじゃないかなという感触があります。ほかの理論や研究手法もいろいろ発展していますから自然なことなのかもしれません。
研究に関する議論や活動はフラットでボーダーレスな方がもちろん理想です。ただどうしても人間のやることは制度や社会の影響を逃れられませんから、自分に関する枠としてどういうものがありそうか(私の場合はその1つが「日本語学」)ということを自覚しつつ、いろんなところに顔を出せるのが良いのかなあというのが院生時代も含めると研究のキャリアがだいたい20年に届いた時点での実感でしょうか。
今は論文や発表のハンドアウト、あるいは学会や研究会の情報もwebでオープンになっていることがかなり増えましたし、あまり知らない世界に飛び込む…までは行かなくても覗き見するハードルはかなり低くなっているのが良いですね。
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