誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

三上章とその著書,あるいは三上文法に関する読書案内(おまけ付き)

長いです(約17,000字)。ただできるだけ具体的な文献情報と引用を載せるという方針で書いたせいもあるので,内容としてはそれほど細かく書けていませんし,途中まで,あるいは一部だけ読んでもある程度参考になる話・情報があると思います。これでもまだまだ書くことあるなと思わされます。

なお,以下の内容で出てくる「項」などの関連用語については下記の記事が参考になるかもしれません。

ラーメンズで言語学(2):「熱が出ちゃって」「どこから?」述語と項のお話 - 誰がログ

はじめに

三上章(以降「三上」とします)については金谷武洋氏の著書に対する批判記事の中で断片的に言及してきましたが,三上自身の著書やその研究成果について興味のある方も多いようですので,読書案内を中心に私が知っていることを簡単にまとめておくことにしました。

言語,日本語,文法といったものは別に専門家や研究者の専有物ではありませんので,専門的な知識や先行研究を参照せずに考えたり論じたりするのはもちろん自由です。特に「文法」は嫌われがちのようですので興味を持ったり楽しんだりしてくれるだけで日本語の研究者としては嬉しいです。一方で,専門的な知識や先人の知見をベースにする楽しみや面白さというのもありますし,せっかく本や論文の内容を参考にするならある程度正確な理解に辿り着いてもらえるとより良いのではないかと考えています(もちろん研究者・専門家はそれ以上の水準が求められます)。

この記事の対象は,これから三上の著書を読んでみたいけれど難しそうで躊躇している,三上の著書を読んでみたけれど難しくてよく分からなかった(でももうちょっと理解したい),三上の著書や研究成果と関連のある文献や研究にはどのようなものがあるのか気になる,といった日本語学や日本語文法研究にあまりなじみのない方々を想定しています。もしかしたら日本語学や日本語文法研究の勉強をはじめたばかりの方の参考にもなるものもあるかもしれません。

なお,これまでも断ってきたように私自身は三上が(さいきん)一般の場で話題になるときによく焦点が当てられる「主語」も「主題」も専門の研究対象ではありませんし,また学(説)史も専門ではありませんので,その辺り差し引いてお読みください。日本語文法研究はいちおう専門の1つにしていますので,この分野に詳しくない方がふつうに調べるとたどり着くまで時間がかかるような情報は提供できているのではないかと思います。

じゃあなんでお前がこんな記事書いてるんだと思われる方もいるかもしれませんが,私もよく分からなくなってきました。ここまでくるともう「成り行き上」くらいしか答えがありません。専門の方からもっと詳しい,あるいはもっと丁寧な情報や記事が提供されると私としても嬉しいです。

読書案内

私がふだん書く専門的な記事では読書案内はだいたい後回しなのですが,今回はこちらがメインですしおまけも長いので先に書きます。

さいきん『象は鼻が長い』が売れているようで喜ばしい限りですが,読んでみた方,意外と難しくなかったですか。三上の著書は内容も文章そのものも実はそんなに簡単ではなく,その中では易しいものと位置付けられる『象は鼻が長い』でも読むのはけっこう大変な方が多いのではないかと思います。

先の方でももう少し詳しく書きますが,私は主語・主題に関する内容だけを持ち上げるのはかえって三上の(文法)研究の過小評価につながる可能性すらあると考えています。三上の文法研究の全体像に触れる一番良い入口は『現代語法序説』だと思いますが,ただこれも文法研究に関する慣れや背景知識がないとなかなか読むのに骨が折れるというのが厄介なところです。

なお,ここから先何回か言及することになりますので,三上の『現代語法序説』を『序説』,『続現代語法序説 主語廃止論』を『続序説』と略記することがあります。

またこれも表現をスリムにするために,この記事では三上の示した文法体系だけでなく,もう少し広く日本語文法に関する記述や研究成果も含めて「三上文法」と呼ぶことがあります。

庵功雄 (2003)『『象は鼻が長い』入門』

三上の文法研究の内容について知りたいという方にまずおすすめできるのが庵功雄 (2003)『『象は鼻が長い』入門』です。

全体として解説に例文や表が丁寧に提示されていて,日本語文法研究にそれほど詳しくない方でもけっこう読めるのではないかと思います。

この本,もしかしたらタイトルでちょっと損しているところがあるのではないかと思うのですが,『象は鼻が長い』だけではなく『序説』や『続序説』あるいは『現代語法新説』など三上の著書を広くカバーしているのですよ。主語廃止論だけではなく活用や文・節の構造,テンス・アスペクトなどの話も具体的に取り上げています。また,三上が当初学界から正当な評価が得られていなかったという話もしっかり書かれています(たとえばpp.7-10辺り)。

ちなみに庵功雄氏は「やさしい日本語」について精力的に活動している研究者で,以前も著書を紹介しました

益岡隆志 (2003)『三上文法から寺村文法へ』

庵 (2003)は三上の文法研究の内容そのものを中心的に取り上げているので,背景にある事情や研究史を知るために補完として益岡隆志 (2003)『三上文法から寺村文法へ』もおすすめしておきます。

全体としてあまり例や言語現象を提示しながら進めるというスタイルではないのでこれだけを読んで三上の研究を理解するのは難しいでしょうが,その分かえって「お話」として読めるので読みやすいという人もいるかもしれません。こちらでも三上が当初は(一部からしか)評価されず,ただ徐々に評価されるようになっていたという話が実際の文献等も挙げながら詳しく書かれています(たとえばpp.66-69)。

また,三上だけでなく寺村秀夫とその研究が紹介されているのも日本語文法研究者としてはおすすめしておきたいポイントです。寺村秀夫は,特に日本語教育に携わっている,あるいは興味のある方には知っておいてほしいですね。

金水敏 (1997)「4 国文法」『岩波講座 言語の科学 5 文法』

上記の2冊は三上の研究とその後への影響に重点が置かれていますので,三上について触れる文脈で出てくる当時の「主流」の文法研究について読めるものも紹介しておきます。

ここで紹介する金水 (1997)は以前も国文法に関する記事でもおすすめした文献です。この『岩波講座 言語の科学』はほんとうに良いシリーズでほかの巻もおすすめなのですが手に入りにくいのが残念です。身近な図書館に入っている方はラッキーです。

国文法がメインですので三上に関する具体的な記述は少ないのですが,国語学史や国文法を扱う文脈ではそもそも触れられること自体が少なそうですのでこうやって具体的な言及があるのは(私を含め)あまり詳しくない人にとっては助かります。この記事に興味のある方には少なくともこの周辺はすべて読んでもらいたいところなのですが長いので三上に関する言及を中心に部分的に引用します。

今,日本語の文法研究において(数の上で)主流を占めつつあるのは,寺村秀夫の影響を直接・間接に受けた研究者による現代日本語の記述文法である。(中略)彼の教え子や,またその教え子がたくさん日本語教師になった。日本語教育ブームの時流がうまく重なって,寺村の影響を受けた研究者は日本語研究者の中で一大勢力になりつつある。そのような研究者達を本稿の中で仮に「新記述派」と呼んでおこう。彼らの共有知識としては,寺村のほかに,三上章,南不二男,仁田義雄,益岡隆志,久野暲らの研究がある(中略)一方で,寺村らの国語学の伝統に縛られない研究態度が,学校文法に不信を抱いていた多くの若い研究者を魅了した,という点も大きかったであろう。ただし三上にしても寺村にしても,伝統的な研究を十分消化した上でそれをいわばカッコにくくっていたわけであるが,若い研究者にはその部分が十分伝わっていなかったかもしれない
(金水 (1997)「4 国文法」『岩波講座 言語の科学 5 文法』: 123-124,強調は田川)

またこの文献は,国文法を取り上げる時に優先順位の高い山田孝雄,松下大三郎,橋本進吉,時枝誠記,あるいはそれ以前では大槻文彦やさらに時代を遡る本居春庭などに加え,比較すると新しい方となる渡辺実や北原保雄の研究も具体的に紹介していて,たとえば国語教育に関わる方などにとっても良いガイドになるでしょう。しかし山田文法の後継者として森重敏,川端善明,尾上圭介,野村剛史,大鹿薫久の名前が具体的に挙げられていたり,文法理論としては依存文法やHPSG (Head-driven Phrase Structure Grammar)にも言及していたり,また学校文法への批判と合わせて言語学研究会も取り上げていますし,このボリュームでこれだけの内容に言及しかつ整理していることに改めて読んでも驚かされます。

そのほか

「主語」(と「述語」)という用語が日本語の文法という文脈でどのように扱われてきたのかという歴史については,特定の期間についてではあるものの服部隆 (2017)『明治期における日本語文法研究史』という専門書に詳しい記述があります。

取り上げられている資料も豊富で,また「象は鼻が長い」タイプの文への言及もあります。このトピックに関する章のベースになった服部 (2002)は機関リポジトリからpdfファイルをゲットできます。

寺村秀夫はどのように三上章の後継者か

思ったよりも寺村秀夫の紹介という面も強く出たセクションになりました(せっかくなので少しは触れようとは事前に思っていました)。その内容から判断すると寺村秀夫の文法研究は三上章の研究をそのまま引き継いで発展させたという性質のものではないと思いますが,研究史的には現代の日本語文法研究にとって三上章から寺村秀夫へというのが1つの重要な流れだというのはここまで触れてきた断片的な情報だけからでもうかがい知ることができるのではないでしょうか。

少なくとも寺村秀夫が三上章の「主語」という用語に対する考え方を尊重していたことを示すエピソードが『続序説』の復刊時に付された寺村秀夫による「解題」に書かれています*1

さて,今回の復刊に際して,刀江書院版の原著のあたまに「新訂版」とあったのを「続」とし,サブタイトルを「―主語廃止論―」と改めたのは,いうまでもなく個人の意志を生かしてのことであるが,このことについてこの機会に一応説明しておきたい。(中略)それ(田川注:主語否定論)を周到に論証して世に問うたのが『序説』であったのだが,まるでノレンに腕押しで,感心する声は聞こえてきても,まともな反論は打ち返されて来ず,現実は一向に変わらなかった(とミカミさんには思われた)。拍手され,有名になるだけで満足するには,ミカミさんは余りにも純粋でありすぎた
(中略)
ついでに,原著の副題「―主語は必要か―」だが,これは著者が自らの所蔵本その他に赤鉛筆でペケ(バツ)で抹消し,人にもかねてその語感が,自分の,「必死の希望」を表すには弱すぎる,と言っていた意志を汲み,今回のように改めようということになったわけである。
(寺村秀夫 (1972)「解題」『続序説』: 233-234,強調は田川)

「主語」の議論にフォーカスし過ぎるのは三上文法の過小評価では

上で紹介した本でも指摘がありますが,三上の研究は主語廃止論に関わるところ以外のトピックでもその先見性が指摘されたりその重要性が「発見」されるということがあります。たとえば,受身にできるかどうかで自動詞を能動詞と所動詞に分けるというアイディアは非対格仮説 (Unaccusative Hypothesis)を先取りしているとも考えられますし*2(益岡 (2003): 44,三宅 (2007): 114に指摘があります),

とにかく受身に成るか成らないかで動詞を二分して能動詞と所動詞とにする。
(『序説』: 104)

また名詞述語文の研究で重要な「指定」「措定」という考え方は今でこそ良く知られたものになり三上にも言及されますが,そういう状況になったのは比較的さいきんのようです。

この区別(田川注:「指定」「措定」の読みの区別)はその後の日本語研究者のあいだでほとんど無視されてきたが,最近の研究(上林 1988 西山 1990)では,この区別の重要性が再認識され,
(西山佑司 (2014)「名詞文」『日本語文法事典』: 609)

三上が学界から顧みられなかったという話をしたいならこの辺りを引き合いに出せば良いのになんてことも思うのですが,あまり見かけない気がします(私が見落としているだけかも)。指定・措定の話は「は」や「が」とも関係するんですけどね。

三上の研究がその後の日本語文法研究にどのような影響を与えたのかという話についてはとてもこの一記事でできるような話ではなくまた私の力量の問題もありますので先に紹介したものを含め先行研究に譲ることにします。

付け加えるならば,私は博士論文でも三上を引用していますし(従属節に丁寧の「ます」が入るかどうかの話),少し前に書いた不定法・不定形に関する論文でも三上を引用しています。このトピックで書くことにした時,最初にぱっと思いついたのがBloch,三上から話を始めることでした。せっかくなので少し宣伝もさせてください。

あと,個人的には『三上章論文集』に掲載されている「辞書には連用形を」という短い論文?(元は『言語生活』に載った記事のようです)が好きです。いや,(動詞の)連用形は私の特に専門のトピックでもあるので連用形推しなんですよ。

三上章論文集

三上章論文集

Amazon

「主語」に関する辞書の記述

ついでに,専門の辞書,事典における三上への言及も簡単に紹介しておきます。

日本語文法事典

以前別の記事でも言及しましたが,この事典はトピックによっては複数の執筆者が別々に独立した項目を書いているというのが面白い特徴で,「主語」の著者は3人です(尾上圭介,角田太作,野田尚史,ここでそれぞれの研究や著書を紹介したくなりますが長くなり過ぎるので割愛)。

まず尾上圭介は三上には触れていないものの下記のように述べ,その後で意味的,あるいは主格であるという特徴によって主語を規定できるかどうか簡潔に考察しています。

上記第一の立場(田川注:主語を統語的特徴から定義する立場)に立つならば,日本語に主語と呼ぶべき特別な名詞項があると認めることはきわめて難しい。
(尾上圭介 (2014)「主語」『日本語文法事典』: 267)

角田太作は三上に直接言及しています。

日本語についても,三上章が三上 (1960)(田川注:『象は鼻が長い』のこと)などで,主語を設定する根拠は無いと主張した。しかし,第2節で見たように,日本語に主語を設定する根拠はある。英語の場合ほど根拠は強くないが。
(角田太作 (2014)「主語」『日本語文法事典』: 272)

角田自身の議論については類型論的な観点からのもので紹介したいところですが簡単にはできませんので割愛します。なお,角田は「主語は普遍的ではない。」(角田 (2014): 272)とも述べています。

尾上,角田ともに日本語を考える上で主語を設定した方が良いという立場に立っていますが,両者の研究上の立場は生成文法的なものでも学校文法的なものでもありません。現代の水準では主語をめぐる議論・研究は三上章 vs. 生成文法/学校文法のような単純な図式化はできないものなのです。

3人目の野田尚史が「主語否定論」という独立した節を立てて最も三上に詳しく言及しています。

日本語の文法を記述するのに主語という概念は必要でないという説を「主語否定論」と呼ぶ。主語否定論の代表は三上 (1953)(田川注:『序説』のこと)である。
(野田尚史 (2014)「主語」『日本語文法事典』: 274)

なお,野田は「生成文法の主語肯定論」という節も書いていますが,ここで紹介されている原田 (1973)と柴谷 (1985)は重要な研究ではあるものの,ずっと下の方でも書くように生成文法は主語という概念に対してもっと幅広い立場,考え方を取ることができます。

「主語」の次の項目は「主題」ですのでこの事典を見ることができた方は合わせて読むと良いでしょう。

日本語学大辞典

こちらは全体としては簡潔な項目であるものの,三上の立場についても具体的に紹介しています。また,ほかの立場や文献も紹介されていますので,いろいろ調べてみたい人の出発点として1つの選択肢になるでしょう。ただこちらは個人購入はかなり厳しいお値段ですね。図書館に入っていれば良いのですけれど。

主語の設定に肯定的な立場と否定的な立場に大きく分けられる。否定派の代表として三上章があげられる。もっとも,三上の主語廃止(否定)論は,無限定な廃止論ではない。(中略)を認めた上で,英語のように,述語と独占的に呼応する存在としての主語は存しない,したがって,主語と述語という用語でもって,日本語の文を分析・記述することに反対するというものである。(中略)三上の主語認否は統語的観点からの認否である。
(「主語」『日本語学大辞典』: 498,強調は田川)

中間まとめ:三上の扱い

ここまで見てきたことも踏まえた上で,三上の日本語研究史における位置付けについてはおおよそ「主語・主題だけでなく日本語文法研究全般においてその後の研究に大きな影響を与え,今でもその著書が引用・言及されることが普通であるが,その研究の登場当初は日本語研究に関する学界の一部で反応が鈍かったり十分に評価されないこともあった」辺りにまとめられるのではないかと考えています。

さて,ここまではかなり「案内」ということを意識してできる範囲でではありますがあまり偏りのないように書いてきました。一方,ここから先は関連するトピックからいくつか選んで私の見解をいくつか書いておくことにします。端的かつ丁寧に書くのはとても無理だと判断しましたので端的に書くことを優先しました。そのせいで内容や使用する用語の専門性のコントロールがあまりできていませんし,端的過ぎて分かりにくいところも随所にあるかと思います。紹介する文献も専門的なものが多くなりますが,興味のある方はできればそちらもご参照下さい。

おまけ1:「は」とか「主題」とか

最初はちょっとくらい主題 (topic)研究のイントロでも,とちらっと考えたのですが私には到底ムリです。ムリムリ。せっかくだし情報構造 (information structure)にも触れたいなあ,とか,ピリオド越えの話を出すなら談話主題 (discourse topic)などの用語とか文章・談話研究系の話も紹介したいなあ,とか考え出すときりがありません。そもそも,「は」に関わる「主題」と「対比」の話とか,topic-comment関係と情報の新旧は単純には対応しないといったごく初歩的な話ですら分かりやすく書くのは荷が重いです。結局は,ここでも先行研究を断片的に紹介してお茶を濁すことにしました。

「は」と主題の話なら山田孝雄も

学校文法における「は」(が付いた句)の取り扱いに問題意識を持ち,「は」(が付いた句)を「主題」であると考え,…といった点で三上を高く評価する人が山田孝雄に言及しないのは私には不思議に思われます(文脈や何らかの制限によって触れられないことはあるとしても)。なぜなら,山田孝雄は次のようなエピソードを持つのですよ。

国語研究を始めた動機は,中学校の教師時代,生徒に「は」を主語を示すものとする教科書の記述が誤りであることを指摘され,その生徒の指摘に理のあることを認めて陳謝したことに発していると『日本文法論』に述べている。
(金水 (1997): 129-130)

山田孝雄は国文法ではかなり優先順位が高いので,ほかの国語学や国文法を取り扱っている概説書などでもいろいろ解説を読むことができるでしょう。これも金水 (1997)で言及があったことですが現代の研究者でも直接のフォロワーがいますので学史ではなく個別の文法研究の文脈で引用されているのを見かけることも珍しくありません。

なお,『序説』を読むと「は」や主題について論じているところで山田孝雄に言及されているのはすぐに分かります。そもそも三上の著書を読むと多くの先行研究に触れながら議論を進めているのが分かるはずです。三上を研究者として賞賛したり尊敬したりするのであれば,「先行研究やほかの研究者を尊重する」という点も尊重してほしいですね。

「主題」を表す手段は様々な言語に様々な形である

英語は「主語」の言語,日本語は「主題」の言語,のように対立させることはきちんとした文脈と前提の上ではできますが(有名なところではLi and Thompson (1976)の「主語/主題卓越言語」の話とか),ミスリーディングな議論につながる危険性もあるというのが私の印象です。なぜなら,主題 (topic)を文法的に表す手段を持つ言語はたくさんあり,その手段もいくつかあるからです。というかそもそも英語にだってあります。私だって対照言語学や言語類型論は専門ではありませんが,「は」という主題マーカーを持つことがほかの言語と比べて特に不思議な特徴ではないことくらいはピンときます。

身近なところということでアジアの言語から見てみると,まずお隣の韓国語(言語学では「朝鮮語」という名称を使うこともありますがここでは説明略)に助詞「は」に良く似た主題マーカーがあると言われます。また,pro dropについて紹介した記事でも触れたように,主題と項の不出現という話ではHuang (1984)の研究が有名なので中国語がまず出てくるという印象があります。ほかにも,たとえばタガログ語などは主題マーカーを持つ言語です。

さいきんこんな記事もあったので触れておくと「ヨーロッパの言語」でも主題を文法的に表す手段を持っています。私がぱっと思いつくのはドイツ語などの「定動詞第2位の原則」(語学での一般的な呼び名が分かりません…verb secondとかV2言語みたいな言い方に触れることがほとんどで)がある言語で,その「定動詞」の前の位置が主題位置ではないかという議論があります。下記に紹介する『主題の対照』ではスペイン語,ロシア語に関する記述・分析がありますが主題を表す主な手段は語順やイントネーションのようです。

上ですでに言及したように,英語にも主題を文法的に表す手段はあって,良く研究されているのは語順(の変更)とイントネーションでしょう。そもそも三上も英語の「主語」には主題であるものもあると言っています。たとえば下記。

西洋の主述関係の主語は必ずしも題目ではないが,題目(田川注:「主題」のこと)であることもある。我々の題述関係(Xハ,シカジカ)の題目は主格に限らないが,主格であるものが多い。題目である主語と,主格の題目とは結果において一致する。
(『続序説』: 68)

ここでWALS (World Atlas of Language Structures)*3に主題に関係する項目があれば良かったんですが,ざっと見た限り無さそうです。代わりに主語に関する項目へのリンクを載せておきます。日本語が分類されている “Optional pronouns in subject position” の言語数もけっこうあることが見て取れますね。

WALS Online - Feature 101A: Expression of Pronominal Subjects

そもそも日本語でも「は」だけが主題を担うわけではありません。形態的な手段だけ見ても「提題表現」と呼ばれるほかの形式もありますし(たとえば「って」),助詞の付かない名詞句だけで主題になる場合もあります。これ,もしかしたら「主題」を「題目」と呼ぶこともあるという用語の話としてもっと最初の方に書いておいた方が良かったかもしれませんね。

読書案内

ここでもごくごく簡単な読書案内を。ただそれぞれかなり専門的です。

1つ目は益岡隆志編 (2004)『主題の対照』です。日本語,英語のほかに上で触れたアジアの言語,ヨーロッパの言語に関する論文が読めます。ほかにも,バンツー諸語の論文も収録されています。そういえば「日本語の研究は英語の研究に毒されすぎ」的な文脈で出てくる「ヨーロッパの言語」の範囲がやたら狭いのは何なんでしょうね。インド・ヨーロッパ語族のことを言っているならスラブ系は?と思うことが多く,そもそも「メジャー」なゲルマン系,ロマンス系に限っても文法のレベルでのバリエーションは色々あるのに…

日本語の「は」を中心にした主題研究としては堀川智也 (2012)『日本語の「主題」』をまず紹介します。正直,議論あるいは分析面はかなり専門的で私も解説しろと言われたら自信がありませんが,例が豊富で,(専門的なレベルで)「主題」と「対比」をきっぱり分けることの難しさなどを味わうことができます。

また,やはり内容は専門的ですが「は」以外の「って」「とは」「なら」「が」などの提題表現に関する記述と分析に触れられるものとして丹羽哲也 (2006)『日本語の題目文』があります*4。うなぎ文に関する分析もありますよ。

日本語研究で主題に関するいろいろな現象に触れる入口としてはやはり野田尚史 (1996)『「は」と「が」』が挙げられることが多いように思います。

専門書・研究書というならほかに紹介するものたくさん出てきてしまって私ではとても整理ができそうにありません。さいきんのものだとたとえばNakagawa, Natsuko (2020) Information structure in spoken Japanese は「は」以外の提題表現に加え日本語研究ではともすると触れられにくいこともあるイントネーションも取り扱っていて面白いです。

おまけ2:三上文法に関連するあれこれへの私見

主語廃止論と学校文法

三上の「主語廃止論」ってけっこう用語(の採用/不採用)の話という側面があるんですよ。『序説』では橋本進吉も時枝誠記も日本語では主語と呼ばれることのある名詞句に文法的な優位性はないと言ってるのだから「主語」という用語を止めちゃえばいいじゃん,というくらいの感じで書いている(『序説』: 94-96辺り )のに対して,業を煮やした感のある『続序説』ではそういう文法的な事実を認識していながらなんで「主語」という用語を止められないんだという書き方になってます(『続序説』: 57-58など)けどね。

なお,このように個別のトピックについては関係がはっきりしているので良いのですが,全体としては学校文法と橋本文法はイコールではないということもせっかくなので宣伝しておきます。意外とあちこちで言及を見るというわけでもないのですけれども,下記のように概説書に書かれるくらいです。

学校文法とは小・中・高等学校の国語化教育において扱われる文法論を指し,一般には「学校文法=橋本文法」と見られるが,あくまでも学校教育で扱われる文法であって,橋本の文法論とは細部においてさまざまな相違が見られる。
(山東功 (2019)「日本語学史」衣畑智秀編『基礎日本語学』: 303)

ピリオド超え

「は」の面白い性質として「ピリオド越え」の話が取り上げられることがあります。解説は上で紹介した庵 (2003)に譲りますが,ピリオド越えができるのは「は」に限りません。ピリオド越えの例としてよく出される『吾輩は猫である』の冒頭部分にたとえば次のような文章を続けることができるでしょう:「拙者も猫である。名前は一応あるが秘密である。どこで生まれたかはやはり分からぬ。…」。「は」のピリオド越えの話を認めるなら,ここで一文を越えて「拙者(も)」の話が続いていると言えるのではないでしょうか。

実は三上も次のように書いています。

主題は,しかし日本文法では初から重要な役割をする文法概念である。佐久間文法の提題の助詞「ハ」,つまり主題を提示することを本領とする「ハ」(次いで「モ」)があるからである。
(『序説』: 88,強調は田川)

ただ三上に限らず議論はやっぱり「は」に集中しちゃいますけどね。

係助詞「ハ」の文法的性質が明かにされたら日本文法はだいたい完成である,と言っても言いすぎではないほどこの問題は難しい。
(『序説』: 200)

三上の「土着文法」は日本語特殊論の対極にある

ところでちょっと上にある引用でも佐久間鼎が言及されているように,「は」を主題だと言ったのは別に三上が最初というわけではありません。

では三上の何が素晴らしいのか。もちろん先行研究やデータの丁寧な検討など色々なポイントを挙げることができますが,主題に関するところで言うと述語(述部)側との対応という観点から異なる言語のシステムを比べているという点ではないでしょうか。

英語などの言語では述語と主語が対応する,一方日本語では述語と主題が対応する。だから三上の主語・主題論に向き合う上で,述語の性質(たとえば活用など)や文末,つまりムード(モーダル,モダリティ)の話は切り離せないと思うわけです。

ちなみに,日本語のシステムにおいて屈折要素が主格ではなく主題と対応しているという分析は三宅 (2011)で提案されています。気になる方は三宅 (2011)のpp.109-114,あるいはその元になった個別の論文をご覧下さい。ここでは名詞述語文のタイプ(いわゆる「指定」「措定」)に関して三上 の『序説』も引かれています。

また三宅 (2011)の示している分析もいわゆる生成文法の統語論の理論を用いていますが,さいきんのものでは宮川繁による人称・数・性に関する素性と主題/焦点 (focus)に関する素性を使って言語を類型的に捉える研究も発想としては三上に似ているところがあるのではないかと思います。たとえば,Miyagawa, Shigeru (2017) Agreement Beyond Phi. など。

[asin:0262533324:detail]

三上というと「土着文法」のイメージが強い人も多いのかもしれません。しかし三上の研究に触れると決して「日本語は英語とはぜんぜん違うんだ」というようなことを言っているわけではなく,あくまでも英語やほかの言語と日本語を丁寧に比べながらどこが似ていて(例:述語と項側の要素が対応するというのは同じ)どこが違うのか(例:述語と何が対応するのかというのが言語によって違う)ということを論じています。

先に紹介した益岡 (2003)でも次のような指摘があります。

三上の主語否定論は,既に指摘したように,対照研究的・類型論的観点から立てられたものであり,日本語内部だけの問題として捉えたのではその主張を読み違えることになる。
(益岡 (2003): 163)

生成文法は主語を絶対視しているか

ここまでですでに長くなりすぎてしまったので,残りはかなり端的に書きます。

生成文法,と言っても実はいろいろあるのであまり一括りにしたくないところなのですけれども,一般的に「生成文法(の統語論)」と呼ばれるモデルでは,そもそも主語 (subject)というのは理論的な概念ではないです。ある特徴を括るラベル,くらいの感覚ですかね。なので研究としては「主語」と呼ばれるものが持っている特徴をどのように分析するかという形で話が進みます。よくある分析は統語的な位置(+統語的操作)を使うものですね。

で,これは生成文法統語論のけっこう初期の段階からある考え方なんですよ。最初は「S(entence)節点に直接支配される名詞句」とかいう仮定がなされたり。ただ生成文法統語論自体の枠組みが1960-70年代とは大きく変わっていますし,今は範疇Sもなくなって範疇C(omlementizer)とかInfl(ection)やT(ense)に解体されたりしているのでけっこう理論に詳しくないとこの辺りの話をちゃんとするのはしんどいんじゃないかなと思います。

あ,そもそも生成文法統語論は義務的ではない形でも「主語」の取り扱いはできますしね。相対化できると言って良いのかな。この辺りの話に触れる良い文献があまりぱっとは思いつきません。Harley (1995)は日本語も分析対象の1つでいわゆる与格主語 (dative subject)の話も出てきますし良いかなと思ったんですが博士論文なので全体としてはかなり専門的だし厳しいかな。

「「は」は主題」で本当に分かりやすいか

あと「「は」は主題です」って話で「おおー」と思う気持ちは分かるのですが,学校文法(というか「国語」の授業)のネガティブなイメージによるブースト効果があるのではないかという疑問があります。

たとえば今の学校文法の用語をめでたく変更できたとして,「主語」の代わりに「主題」や「主格補語」という用語を使うとほんとうに分かりやすい文法になるのでしょうか。「学校」で教えられる内容に専門的な水準で見ると不正確だったり偏ったりといったものが含まれることは実際にあります。一方でじゃあ大学の授業や専門書の内容を最初から学校でやれば良いかというとそれも常に選択できる解決策ではないでしょう。もちろん個別にはいろいろ検討したら良いと思います。

おわりに

書いてみて

つかれました。これまでも何度か体験したことですが,自分の力量を大きく超えるテーマの文章を書くのはつらいですね。ブログ記事(査読なし)ということでクオリティの面では甘えた(というか無理しなかった)ところも多々あります。今後この話題絡みでしばらくまとまったものを書くことはないと思いますが,簡単な補足や修正はするかもしれません。

動画などのさまざまなメディアやSNSの盛り上がりもありブログってどうなのという話がもはや目新しくもなくなった今,こんな長文をいったいどれだけの人が読むんだという気もしますが,まあたまにはwebにこんな記事が落ちていても良いでしょう。何より自分の整理・勉強になったことも多かったです。おおよそ自分がもともと知っている話に限定して書き始めたのですがそれでもいろいろ読んだり書いたりすると新しく気付くこともあって。

研究者・専門家のみなさま

今後補足や修正などがあると大変嬉しいです。私の記事では「長い,だるい,つまらない」としか思わない人でも,たとえば「この記事は情報が古い,今の研究の水準では…」「この記事では扱っている言語が少なすぎ。○○語では…」といった話には興味を持ってくれる人もいるのではないでしょうか。

かなり色々なトピックに少しずつ触れましたので,個別のトピックについて詳しい方はむずむずする,もやもやするところもけっこうあるのではないかと思います。その分,トピックによっては言語研究の専門家の方にでも新しい情報が提供できているところももしかしたらあるかもしれません。そのようなきっかけになることがあったのならつかれにもつらみにも耐えた甲斐があります。

引用文献(三上の著書を除く)

原田信一 (1973)「構文と意味—日本語の主語をめぐって」『言語』2(2)(『シンタクスと意味—原田信一言語学論文選集』に再録).
Harley, Heidi (1995) Subjects, Events and Licensing. Ph.D. dissertation, MIT.
服部隆 (2002)「「主語」と「述語」―明治期の文法用語」『上智大学国文学科紀要』19: 37-68.
服部隆 (2017)『明治期における日本語文法研究史』ひつじ書房.
堀川智也 (2012)『日本語の「主題」』ひつじ書房.
Huang, C.-T. James (1984) “On the Distribution and Reference of Empty Pronouns,” Linguistic Inquiry 15: 531-574.
庵功雄 (2003)『『象は鼻が長い』入門』くろしお出版.
金水敏 (1997)「4 国文法」『岩波講座 言語の科学 5 文法』, 119-157, 岩波書店.
Li, Charles N. and Sandra A. Thompson (1976) “Subject and Topic: A New Typology of Language,” Charles N. Li (ed.) Subject and Topic. 457-489, Academic Press.
益岡隆志 (2003)『三上文法から寺村文法へ』くろしお出版.
益岡隆志編 (2004)『主題の対照』くろしお出版.
Miyagawa, Shigeru (2017) Agreement Beyond Phi. MIT Press.
三宅知宏 (2007)「文法 三上章『現代語法序説 シンタクスの試み』」『日本語学』26(5): 112-114.
三宅知宏 (2011)『日本語研究のインターフェイス』くろしお出版.
Nakagawa, Natsuko (2020) Information Structure in Spoken Japanese. Language Science Press.
西山佑司 (1990)「コピュラ文における名詞句の解釈をめぐって」『文法と意味の間 国広哲弥教授還暦退官記念論文集』, 133-148, くろしお出版.
西山佑司 (2014)「名詞文」『日本語文法事典』, 609-611, 大修館書店.
野田尚史 (1996)『「は」と「が」』くろしお出版.
野田尚史 (2014)「主語」『日本語文法事典』, 272-275, 大修館書店.
尾上圭介 (2014)「主語」『日本語文法事典』, 267-270, 大修館書店.
Perlmutter, David M. (1978) “Impersonal Passives and the Unaccusative Hypothesis,” BLS 4: 157-189.
山東功 (2019)「日本語学史」衣畑智秀編『基礎日本語学』, 284-310, ひつじ書房.
柴谷方良 (1985)「主語プロトタイプ論」『日本語学』4: 4-16.
寺村秀夫 (1972)「解題」『続現代語法序説 主語廃止論』, 231-244, くろしお出版.
角田太作 (2014)「主語」『日本語文法事典』, 270-272, 大修館書店.
上林洋二 (1988)「措定文と指定文—ハとガの一面」『文藝言語研究 言語篇』14: 57-74, 筑波大学.
「主語」『日本語学大辞典』: 498-499, 東京堂出版.

*1:『続序説』は川本茂雄による「序」にも面白い話があります。詳しくは『日本語に主語はいらない』に突っ込む:寄道(6)三上章『象は鼻が長い』の表紙の話(+おまけ) - 誰がログをご覧下さい。

*2:今は非対格動詞/非能格動詞の分類という形で良く知られているのでつながりが見えにくいかもしれませんが,元々のPerlmutter (1978)の話を思い出せる方は分かるのでは。こういう話をどれくらい評価するのかというのはけっこう難しいですけどね。

*3:以前紹介記事を書きました:日本語は特殊な言語である(かどうかWALS Onlineを使って調べてみよう) - 誰がログ

*4:こにしいずみ氏(@knsizm)のご指摘によります。ありがとうございます。