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歯切れが悪いのは仕様です。

もぐら叩きと(科学)リテラシーの話

 前回のエントリへの補足、およびid:chnpkさんへの僕なりの簡単な応答を兼ねてます。まあコメント欄id:utchonさんが丁寧に対応されてますので、僕から付け加えるのが良いのかどうかとも思いますが。
※書いた後思ったのですが、自分の書きたいことを書いただけで、あまりchnpkさんへの応答にはなってないのではないか、という気もします。そもそも僕がchnpkさんの言いたいことをどれだけ理解できてるかも自身が無いので。
 まず、「もぐら叩き」の比喩の欠陥(と僕が思っているところ)と科学リテラシーについてはpoohさんのエントリにコメントしましたので、ちょっと長いですがここに全文引用しておきます。元エントリのpoohさんの科学リテラシーについての意見もぜひ参考にしてください。

「もぐら叩き」の比喩はちょっとまずったかな、と思うところもありまして。
それは「叩き」の部分から、批判・対抗・戦い・撲滅、のようなイメージを喚起されやすいんじゃないかな、という点です。個人的には、上で挙げてくださったブクマにcomplex_catさんがお書きになったように、「護身術」という位置付けを考えています。
そして、護身が目的ならば、ここでpoohさんがお書きのように、科学リテラシーの高いレベルでの徹底が(唯一の)目標・方法でなくともいいと思うんですよね。
何らかの専門家は(アカデミシャンに限らず)もっと積極的に何らかの活動にコミットできるし、しても良いんじゃないかと思いますが、これも最近黒影さんがまとめていたように、全員が戦え、という必要は無く、批判活動に賛同の意を表明する、のようなものでも多くの人が関わるってこと重要なんじゃないかと。
ありきたりなところですが、多くの人による「やれる人がやれることを少しずつ」の積み重ねって辺りが一番個々の負担が少なくて良いんじゃないか、と考えています。そうすると、じゃあ具体的に誰がどんなことをすればいいのか、ってのには万能の回答は無いわけで、その点ではしんどいのかもしれません。

 以下、関係するchnpkさんの記述だけ抜き出します。

【『ニセ科学批判はニセ科学の根絶を目指している? - 思索の海』によれば、「ニセ科学批判」の目的は、できるだけ多くの人が「ニセ科学」に騙されないだけのリテラシーを有する社会を実現することだという。しかし、そうしたいわゆる「一般人」のリテラシーを向上せしめることに活動の目的を置くのであれば、その「一般人」にとってのインセンティブを設計することこそが求められる。現にそのインセンティブが崩壊した結果として、学校教育において勉強することを放棄し、科学に対するリテラシーが低い状態に陥っているわけなのだから。彼らにはリテラシーを獲得する機会がなかったわけではない。その機会を放棄したのだ。であれば、いまさら新たな機会をいくら設けようが、無駄である。同じようにその機会を放棄するだろう。つまり、リテラシーを高めるために学ぶインセンティブが「一般人」にあるのであれば、そもそも「ニセ科学批判」という活動は必要ない(学校教育で足りる)ということになるし、インセンティブがないのであればいくらなにかを教えようとしたところで無駄なのではないか。】
「ニセ科学」と「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」について - よそ行きの妄想

 まず、僕個人としては、一般的な一人の人間がこの世の中にある全てのニセ科学/疑似科学に対して学校教育で得た知識と一般常識だけからその問題点を見抜くのは非常に難しい、あるいは非現実的であると考えています。
 しかし、「リテラシーを高めるために学ぶインセンティブが「一般人」にあるのであれば、そもそも「ニセ科学批判」という活動は必要ない(学校教育で足りる)ということになるし、インセンティブがないのであればいくらなにかを教えようとしたところで無駄なのではないか。」というのはものすごく極端な、言ってしまえば単純すぎる二分法に思えます。社会人になってから何らかのインセンティブに気付いたり、ニセ科学に関わることがいきなり身近な問題になったりどうしても対処せざるを得ないということはありうることなのではないでしょうか。
 というようなことを僕は重視しますので、必要になった時にできるだけ判断に必要な(できれば質の高い*1)情報が十分に、手軽に手に入るほうが良い、と考えます。所属している会社のプロジェクトや、家族の病気といった重要な局面で突然怪しげなモノに出会い、どうしても考えざるをえなくなった人に対して、「もう遅ーよ。だから勉強しとけばよかったんだって」とは僕は言いたくない。
 これはニセ科学批判の議論ではよく言われる(TAKESANさんが特によく強調されている)ことですが、いわゆる疑似/ニセ科学には確かに一般的な常識や義務教育の科学の知識で見破れるものもあれば、それ相応の事実に関する知識が無いと見破れないものもあるのです。
 従って、僕は”個々の”ニセ科学批判に関する具体的な情報がさまざまな媒体を通して入手可能な方が望ましいのではないか、と考えています。誤解している方はあまり多くないと思いますが、ニセ科学批判の基盤というのは「ニセ科学とはどう定義されるべきか」というようなメタ的な議論の方ではなくて*2、個々の怪しい言説に対する具体的な批判の集積です。
 もちろん、科学リテラシーが全体的に高いレベルで身につけられることは望ましいことです。純粋な善意の下であってもニセ科学の片棒をかつぐ人はできるだけ減ってほしいし、前にも書いたように僕は病院の救急でレメディを処方されて返されるような社会にはなってほしくない(自分の意志で現代医療よりレメディを選択するということはあっても)。しかし、上にも書いたように、それ(リテラシーの向上)が唯一の対処法ではないだろうし、実際の局面を考えるとそれだけでは対処しきれないと考えています。
 そうすると、批判の形や方法は色々あって良いと思うのです。だからこそ、ニセ科学批判を(特に主にメタ的な視点だけから)批判する方々には、できればぜひ「みんなやってないけど俺ならこうするぜ!」ってのを具体的に見せてほしいです。そうすれば多くの人が参照し、参考にできますので。
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*1:もちろんこれを判断するのにも何らかのリテラシーと呼ばれるものが必要になっちゃいますけどね

*2:もちろんその辺りの議論も真剣に検討されていますが。