※水伝への反論に対して新たな議論が追加されているわけではありません。また、内容の解説というよりはロジック/戦略の解説(あるいは告白)です。
僕が今まで水伝に関してどういう記事を書いてきたかについては以下のリンク先を参照してもらうとして。
こういう記事を書いた方がいいのかどうかはずっと迷ってたのですが、TAKESANさんのところで一部関連する話が盛り上がったりしてたので書いてみることにしました。ただ、僕は方々の議論は追えてないので、もしかしたらもう出尽くしている話かもしれません。
まず、くどいですが僕の主張をおさらいしておきます。
- 僕が提示した三つの問題(文脈依存性の問題、恣意性の問題、言語記号の認識の問題)に関するハードルをクリアしないと
- たとえきちんとした科学的手法にのっとって、ある言葉の音声や文字(との接触)が水の物理的性質に影響を与えたということが確かめられたとしても、それが「言葉の意味」に関係しているとは言えない。
この主張に対して、それでも水伝の主張をなんとかできないかと考える人が選択できる道はおおよそ三つほど考えることができると思います。というか、実はすでに一番最初に書いたエントリで一応予測を書いておいたのですが。
この反論を克服するためには、例えば1)実は水は言葉に反応しているわけではなく、それを表現したものの「心」に反応している、とするか、2)水は万能の学習者で、実は人間と接するたびにその言語に関する情報を学習している、あるいは、水はなんだかしらないけれども全ての言語に関する情報を備えている、というような道を選択しなければならないでしょう。
「水からの伝言」に言語学の立場から反論する - 思索の海
ここでは番号を振ってませんでしたが、2)の主張は次の二つに分けることができますね*1。
- 2a)水は万能の学習者で、実は人間と接するたびにその言語に関する情報を学習している。
- 2b)水はなんだかしらないけれども全ての言語に関する情報を備えている。
で、こういう反応をされた場合、僕のエントリは水伝に対する反論に失敗しているかというと、全然そんなことはないと考えています。むしろ、当初から僕の目論見は
- 水伝をあきらめる or 上の三つのどちらかの立場に”明確に”追い込む
ことにあったのです(なんか後出しジャンケンっぽくて、だから書くのに気が進まなかったのですが)。
では、まず立場1)から検討してみましょう。
これについては、よくある考え方だと思います。例えば、僕の最近のエントリのブコメ
にもそれに近いような意見が散見されますし、
言語学的アプローチは(論理的には)水伝に対して何の防波堤にもならないと言っているに等しいわけだが、まさに今回私が到達した結論(水伝の本旨としては、『言葉』はどうでもよい)を裏付ける結果となっている。
http://blog.livedoor.jp/eastcorridor/archives/51167280.html
のような意見もあります。
僕は、”僕がこのブログで書いたエントリの目的としては”「言葉の意味」ということを軽々しく振り回さず、言語学の関係領域から撤退してくれるだけで十分です。「心」や「意識」がどのような状態にあるのかを測定し、それが水の物理的性質と結びついていることを(そうなっていると思います、ではなく)きちんと示すのもかなりハードな課題だと思いますが、そこまで僕が考える義理は無いと思いますので。
まあおそらく水伝の支持者は、表面上は「水は良い言葉に反応する」と言い、僕のような批判に対しては「実は言葉の意味はそんなに重要じゃないんです」というような一種のダブスタを続けるような気がしますけどね。
では、次に進みます。
2)を簡単に言い換えると「水は情報を記憶する/学習する/蓄積している」となりますから、ホメオパシー辺りがものすごく脳裏にちらつくところですが*2、ここで重要なのは、(僕の批判を認めると)これらの条件は「水が言葉(の意味)を判定している」と主張するための「前提条件」になることです。
つまり、水伝に関する主張や物理現象とはある程度独立した形で2a)や2b)が成り立つことを示さなければならないわけですね。「水にいい言葉をかけると綺麗な結晶ができるから水は情報を記憶する/学習する/蓄積していると言える」というロジックは成り立たない(使えない)ということです。
これも僕には今のところ越えられない壁のように思えるのですが、まあいつか親切な人が考えてくれるかもしれません*3。
というわけで、水伝をなんとかしようと思ってる方々には上で提示した宿題についても考えていただけると、僕が批判記事を書き続けている甲斐が少しはあるかな、と思います。
おわりに
とまあなんでここまで親切なことをやってるんだ、なんてことも思いつつ、僕がこのエントリの公開を躊躇していたのは、僕の批判記事の目的は水伝の主張を完全に潰すとか、反論が一切出ないようにすることではないからなのですね。
第一、水伝の主張が完全にダメだというのはすでに物理的な批判の方で話は終わっていますし、科学/論理/議論のルールを色々無視して突っかかってくる、絶対に負けを認めないある意味最強のニセ科学の主張者に対して口喧嘩/レトリックでも勝つ自身は僕にはありません*4
では僕のエントリの戦略的な目的はどこにあるかというと、大体
- 物理的な話にはピンと来ない人で、言葉の話に焦点を絞るとピンと来る(かもしれない)人に対して水伝の明らかなおかしさを伝える
- 言葉の観点から考えておかしいと分かるけれども、言葉の研究の専門家ではない人に対して、専門的な知見からの保証を示す
こと、そしてその議論が誰からも参照可能なようにしておくことです。あと、言語学という分野とそこでの考え方を広く知ってもらうきっかけが少しでも提供できれば、という欲張りな気持ちも少しはあります。
さて、僕のもう一つの懸念はこういう裏事情?的なことをどこまで公開しておくのが戦略的に良いのだろうか、ということです。もしかしたら上で検討してきたような反応はほっておくのが良かったのかもしれませんが、一部僕のエントリを読んでくださった方々の間でも多少の混乱があるような気がしたので少し補足しておくことにしました。
※追記
最近、lets_skepticさんとやりとりしたように、僕の一連のエントリは言語学から言えることにかなり厳しく限定して水伝を論じています。従って、下手に部分的な批判は逆効果だから(戦略的に)やめておいた方が良い、という批判はあるかもしれません。僕は今のところそういったリスクより、上に書いたようなベネフィットの方が上回っているのではないかと考えています。