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歯切れが悪いのは仕様です。

arthさんへの返答1:主に生成文法についていくつか

 大変遅くなり申し訳ありません、以下のエントリにいただいた、arthさんからのコメントへの返答です。他の方の参考にもなるかと思ったのでエントリにしました。

改めて読んでみると、ほとんどがarthさんの「感想」のように思えましたので、僕の返信は全て的外れかもしれません。

注意点

  1. 返答に関係があると思われる箇所だけを適宜引用しますので、arthさんのお考え自体を知りたい方はコメントを全文読むのが良いかと思います。
  2. arthさんの用語を僕が勝手に解釈して返答、あるいは誤読してる箇所も多いかもしれません。ただ、厳密に考えるには、定義や意味を問い直さなければならない語があまりにも多かったので、ある程度冒険して返答することにしました。

生成文法は入門書を齧ったくらいしか知らないのですが、どうもなじめません。科学的といいながら、「例外は無視して良い」と言っているかのような方法論が「言語学らしい考え方」だと言われては、実証主義第一の理系の私としては信用できなくなってしまいます。

 確かに、そこは「言い過ぎ」だと思います。実際は、例外は「今のところ取り扱えないので保留」というような扱いですね。その後の研究や理論の進展によって、例外がむしろ主役になったり、例外も含めてより広い現象を取り扱えるモデルが登場したり、例外だけをきれいに説明する分析が登場したりすることもあります。そこまで行くとすでに「例外」ではなくなっているかと思います。もちろん、長らく「例外」とされ続ける現象もあったりしますが、それはうまい分析が出てこないということが多く、研究者による挑戦は続くのが普通だと思います(そこに新しい研究のブレークスルーがあるのかもしれないわけですし)。

仮説の検証にも、判断が恣意的でないことが客観的に保証されるのかに疑問を感じますし、

 (現象に対する)判断が恣意的であるかどうか、というのは一冊の本や一つの論文そのものだけでは決められず、他の人の評価待ちですね。arthさんがもし「判断が恣意的で信用できない」と感じるなら、それで良いのではないかと思います。実際、研究者間でも判断が割れることはあります。突き詰めていくと、そもそも個人のレベルでもある程度持っている文法が違っている可能性もあるわけですしね。
 ちなみに僕はそれほど変な判断があったとは感じませんでした。「それはお前が生成文法の研究者だからだろ」と言われたら、まあそうかもしれません。内省による文法性判断にはある程度慣れとか技術が必要なものもあると思いますし。

それにこの本、なんでわざわざ変な漫画から例文を引っ張って来るんだろう。ファンの方には悪いが、日常会話としてはありえない、変な趣味の世界。

 「変」「日常会話としてはありえない」というのはarthさんの主観ですね。言語学では、改めて見ると「こんなの使わないよ」という表現でも「日常会話」を記録してみると結構出てくる、ということがデータに対する思い込みを戒めるための話としてしばしば出されますが、実際にはこの辺りのことを知るためには調査が必要ですね。厳密にやるならまず「日常会話」の判断・定義が結構難しいところだと思いますが…そういえば「日常」でないデータは考察に値しないのでしょうか。僕はそんなことないと思います(もちろん限度はあるのでしょうけれど)。

私の読んだ生成文法の入門書に出て来る日本語の例文が、どれも変な文ばかりなので、本当に正しい日本語の解釈ができるのだろうか、という不信感ばかりが募ります。英文翻訳調の日本語か、あるいは説明を正当化するために無理に作文したような文ばっかりで、なにより英文解釈用の議論だという香りが拭えません。

  「正しい日本語」というものが何なのか僕には未だによくわからないのですが、生成文法の研究に「それは変」という文法性判断が登場することは確かかと思います。まあ変過ぎると生成文法の研究者からも受け入れてもらえませんが。ちなみに生成文法の理論で英文”解釈”はあまりできないのではないかと思います。あと、これは研究者によって見方に違いがあると思いますが、生成文法の研究で英語が主役の座にいたのは1980年代初めごろまでかと。

むろん現在の理論はそうではないのでしょうが、残念ながら素人にとてもついていける難易度ではありません。だたし、入門書レベル(つまり初期の理論?)だと明らかに日本語に適用できるような理論だと感じられないことは明らかではないでしょうか。

 「感じられないことは明らかではないでしょうか」と言われてもそれだけではなんとも…研究史の話をすると、1970年代の研究(=初期の理論による研究)はむしろ日本語の文法研究に多くの成果をもたらしました。これは、今の生成文法が大嫌いな言語研究者でもだいたい認めるところだと思います*1
 また、「入門書レベル=初期の理論」とは限りません(本によったりします)。それに、初期の理論が簡単だったかというと、個人差もあると思いますがそんなことはないです。

私も大学図書館にあったこの本を読みましたが、素人からみて「ひどい」と思いました。上記の「言語学らしい考え方」もそうですが、なぜ尊敬語や「自分」という言葉を使ってテストしたものを「主語」と呼ぶのが合理的なのか、ほとんど説明になっていません。つまり、一番肝心のところが説明されていないと思うのです。つまり、以下のところです。

> この本には主語という概念自体に関する明確な定義は実は出てこないと言ってよいと思います。(中略)それをなぜ「主語」という用語で一くくりにした方がいいのか、という議論は紹介されていません。

 身も蓋も無い言い方をすると、(一部の)生成文法では「主語」という概念自体、あまり重要ではないのですね。というか、当初から「主語」という概念を特別に理論内に置くこと自体に懐疑的です*2。むしろ、「主語」というのは「ある一定の特徴を持った文内の要素」に対するラベルで、まあ今まで「主語」と呼ばれてきたものに重なるところが多いので「主語」と呼んでおこう、というぐらいのものです。どこかの記事にも書きましたが、その名付けがまずいというなら、他の名前にしても、まあ困りません。重要なのは、なぜある特定の要素が特定の文法的振る舞いをするかどうかを説明することです。これは、生成文法で重視する文構造のレベルで解かれる問題なのかもしれませんし、もしかしたら意味論などで解ける問題なのかもしれません。それは経験的な問題です。

英語など欧米言語において、文中で強い支配性を示して中心的地位を占める主語がもつ様々な特性のうち、日本語にも適用できそうはなのはごくわずかしかなくて、尊敬語や「自分」でのテストがその数少ない候補だというのが、これまでの研究の事情なのだと理解しているのですが、たったそれだけで、他の文節より絶対的優位性を示す存在としての「主語」を日本語にも認めるか、ということが三上章の否定したことであり、金谷氏の主張なのではないでしょうか。それに対して何も答えていない。

 ああ、それは確かにそうかもしれません。上で書いたように、大門氏の本で提示されている「主語」が「主語」である必要性は絶対ではありませんので。まあ他に良い候補を挙げろ、と言われたら僕に思い浮かぶものは無いのですが。というか、「様々な特徴」と「ごくわずか」の対立というよりは、主語と述語の形態の「一致(agreement)」を決定的な特徴と見るかどうかですね。三上章は一致のシステムの違いに日英の違いを見出しています。これは『現代語法序説』の最初の方で論じられています。また、この観点からの生成文法の研究もあります。つまり、三上が言う意味での「主語は無い」という立場ですね。「生成文法の研究=主語の概念は絶対」ではありません。この辺り以下のエントリにも書きました。

「英語ができる」にしても、文の形態は「お米ができる」と全く同じです。前者は可能の意味で用いられるので意味はまるで違うとしても、文の表現としては、もともとは英語(の能力)が出現するという出来(しゅったい)の意味から派生したのではないでしょうか。主格の「が」が用いられているのはそういう理由だと思うのですが。この「が」を対象語と呼ぶのは、出来上がった文に対する後付けの解釈ではありえても、文を作るときになぜ「が」を使ったかという説明にはなっていません。そうした理由説明を日々外国人から求められている日本語教育者の立場からは、両者の文を同一構造とみなすのが極めて自然だと私には感じられるのですが。

 形態が同じなら、常に文の構造が同じ、なら文法研究も楽で良いのですが*3…「もともとは〜から派生したのではないでしょうか」と言われても、証拠が無いと文法の議論としては何とも言えません。ちなみに、生成文法では、「英語」のような名詞句がこのような文で「が」でマークされるのは「対象」という意味的特徴から導かれるわけではありません。大門氏も「「対象」だから「が」」とは言ってなかったと思いますが。
 あと、下記のエントリにも書きましたが、日本語教育のフィールドで、教える方法として、両者を同じような構造を持つとするというのは、文法研究とは独立した問題ですね。もしかしたらその方が学習者にわかりやすい、ということがあるのかもしれません。教育との関係については下記のエントリにも書きましたので、参考にしていただければ幸いです。

 あと、個人批判はなるべく避けたいところですが、畠山先生という方が、情報系の人向けと題して生成文法の初歩を記した著書がありますが、これもちょっとひどいとおもいました。本文はいいとして(科学的方法論の考え方と、無駄に繰り返しが多いのやご自分の著作の礼賛と宣伝は別として)、日本語の動詞の活用を一刀両断に説明する、などの付録は、全く日本語の歴史の知識のない素人が勝手な推測で書いたとしか思えませんでした。この方が国立大の准教授をされているんです。英語に関する著作はままいいものを書かれているだけに、こういう一般書を読むと、生成文法の専門家というのは往々にして英語だけはよく知っていても、その他の外国語も、それに日本語の文法もまともに知らないで議論しているんだな、と一般人として感じてしまいました。それと比較すると、金谷氏はよっぽどまともなことを主張されていると私は考えています。

 ええと、畠山先生の本の詳細を覚えていないので何とも。具体的にどこがどうおかしいか書いていただければコメントしたのですが。ちなみに、もしそれが現代語の分析でしたら、意図的に歴史的事実を考慮していないという可能性もあります。それが良いかどうかは具体的な議論を見ないとなんとも言えません。

 研究者相手なら個人批判は別に問題無い思いますが、どこがどうおかしいのか具体的に指摘された方が良いかと思います。まあこの話題は私の一連のエントリにはそこまで関係無いかと思いますので、ご自身のブログ等でやっていただけると助かります。

 本当はもう一つのコメントへの回答も続けて書こうと思っていたのですが、気力が持ちませんでしたので、そちらは改めて書きます。

*1:その事実を知らない研究者はいるのかもしれません。

*2:そうではない生成文法の立場もあります

*3:まあそれだと研究のネタが少なくて困るかな。