誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

「飲み会」の影響でしばらくビールが嫌いだった話

今はいろいろなタイプのビールが昔よりはある程度手軽に飲めるようになってきていて,その点では良い時代だなと思う。

togetter.com

ちなみに,私自身は酒を飲むことも,人と飲むこともそれなりに好きである(知り合いに豪傑が多すぎるので控えめに書いておく)。ただ晩酌とか帰宅前に1杯ひっかけてから,とかはしないタイプ。あと,それほど強いわけではなく量を飲めないのでできれば美味しいお酒を飲みたい。

体育会の飲み会とビール

これ自体は何度か書いている気がするけれど,大学生時代は体育会の部活に所属していた。私が学部生だったのは1998-2002年で,まだ大学もそこまでアルハラ等飲酒関係問題の対応に今ほどは力を入れていなかったという印象がある。

伝聞の限り私が所属していた部活は他の競技と比べて「飲み会」の過激さはそれほどひどくなかったようだが,ひどいことは色々あった。今でも思い出せる事件とかいわゆる「コール」の話もあるけれど,ここでは具体的に書かない。

特に学年が下の者にとってはやはり「飲まされる会」であって,飲める体質のものでも憂鬱な人がほどんどだったのではないかと思う。「一気飲み(の強要)」も当然のようにあって,なんというかデフォルトのアルコールは(日本製の)ビールだった。そのせいで,私にとっては少なくとも学生時代はビールは嫌いな酒で,卒業後もしばらくは苦手だった。乾杯とか最初の1杯とかでは飲んでたけど,たぶん10年くらいは避け続けたのではないかと思う。今ではほとんど苦手意識はなくなって,食べ物との組み合わせ次第では自主的に選択することもあるけれど,一番好きな酒ではないかな。

そんな私とビール(類)の距離を再び縮めてくれたのは,アイリッシュパブでの「キルケニー (Kilkenny)」というビールとの出会いだった。いわゆるRed Aleの一種で,ビール・エールでは今でもこれが一番好きである。実は一瞬だけ日本でも缶入りが売られていた時期があって,晩酌なんてしない私が頻繁に輸入アルコールを扱っている店に通っていたのだけれど,すぐに取り扱いが止まってしまった。今でも日本国内だと飲食店でしか飲めないのではないかな(その店でもいつも飲めるわけではなかった)。

ちなみに,検索してみたらびっくりしたことにWikipedia日本版の記事がなかった。以下は英語版の記事。

en.wikipedia.org

キルケニーを入口にして(濃い?)エール系を飲むようになり,だんだんと「すっきりとした」ビールも普通に飲めるようになっていった。ベルギービールの流行等もあり,海外製/日本製のいろいろなビールが流通するようになったというのも状況として良かったのかなと思う。

アルコール文化が未来の酒飲みを潰してない?

私はアルコール類全般を嫌いとはならなかったので,ビールが苦手な時期は日本酒や焼酎等を飲んでいて(特に日本酒は先輩方にいろいろ教えてもらった)そのうちビールにも戻ったけれど,最初の方に体験した「飲み会」のせいで酒自体嫌いになってしまった人も結構いるのではないかな。

私に関して言うと酒の種類とかおいしさのはなしではなく,飲まされたのがたまたまビールだったからビールが嫌いになっただけで,たとえば日本酒を飲まされまくったら日本酒が嫌いになっていたと思う。

少し前に話題になったストロング系アルコールの話を読んだときも似たようなことを思ったのだけれど,その時たくさん飲んでくれる人を確保するために,実は将来にわたってながらく飲んでくれる人を確保できていない,あるいは手放している可能性はないのかなあということを考えてしまう。上の記事で指摘されているのは,ストロング系アルコールはそもそも「(飲むことを楽しむための)酒」として位置づけられていないということなので少し違う話なのかもしれないけど。

写真(家)の倫理,研究の倫理

下記の記事で話題になっている件ですが,

news.yahoo.co.jp

はてブのコメントで紹介されていた2014年に書かれた関連しそうな内容の記事が面白くて,研究の話となんとなく似ているところがあるかなと思いました。

yanretro.hatenadiary.org

以下,研究(倫理)とのアナロジーを中心に思ったことを書きます。どちらかというと詳しい人に解説とか書いてほしいなという呼びかけに近いです。

研究や調査の対象になるという迷惑や暴力性

人文社会系に限らず,人を対象にした研究の基礎的な勉強では,「研究や調査の対象になるということは対象者にとって迷惑なことである」という話が研究手法や研究倫理と合わせて出てくるのがもう一般的になっていると言っていいのではないかと思います。ずばり,『調査されるという迷惑』という本もありますね。

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本

あと分野やトピックによっては「人を相手に研究(観察,記述,…)するという行為自体が暴力(的)」という話に触れたことがある人もいるのではないでしょうか。

研究倫理の整備が進んだことによって過去には可能だったけれどできなくなった研究手法というのもあって,研究者間だと「昔は良かった」的に語られることもあるのですが,人を相手にした研究である以上,当然の流れかなと思います。昔は(もしかしたら人によっては今も?)高圧的な調査ってのもあったようですし,今でも社会調査法とかにあまり詳しくない研究者が「とりあえずアンケートでも取ってみたら」みたいに言ってしまうことはまだまだあるようですけれど。

でも現在は,基本的に「研究や調査は迷惑なことなんだけど,○○という目的のために協力してくれませんか」という形になっているわけですね。研究については研究者や研究機関,あるいは研究という行為そのものの権力性の話も絡んでくると思いますが,そんなに詳しいわけでもありませんし割愛。

写真を撮る目的

上で紹介した関連記事では,「今の日本をだれが伝える?」という問いかけがされていました。しかし,ブコメにも書いたのですが,現在は多くの「写真家」でない人も写真を撮る機器を持ちまたSNSのように公開する場もあるわけですから,そういう場で十分記録され伝えられていると考えると,「写真家」が迷惑な/暴力的な手法で人を対象にした写真を撮るための理由としてはちょっと弱くなってしまっているのではないでしょうか。

あと,これも人によるのかもしれませんが,たとえば家族や友人の写真を撮ってFacebookやInstagramに公開する際も事前・事後に「この写真インスタにあげていい?」とか「こないだの写真ちょっと嫌だから消して」みたいなやりとりはあるわけで,もし「写真家」についてはこの手順がスキップされて良いとするなら,ある程度しっかりした理由がほしいなと思います。

私自身は研究者なので,記録はできるだけ色々な形で多く残っている方が良いなあと思いますし,その分我慢・協力してくれということであればできるだけ協力したいと思っていますが,そういう人がされる側にいるということと,する側が広く説明したり許可を取っていたりしなくて良いという話はちょっと違いますよね。

職業?倫理として

上で研究倫理の話を出しましたが,私は,こういう話ってできるだけ職業倫理として考えた方が良いんじゃないかと思うのですよね。そうじゃないと「良い/悪い人」みたいな個人の性質の話になっていっちゃって,「自分は良い人じゃないから守らない」「自分にそんな余裕はない」みたいな言い訳が出てきちゃうというのを色んな場面で見かけるような。

ただ,今回のケースに限って言うとプロの写真家ということで職業倫理の話にできそうですが,どうもプロ以外の写真を趣味にしている人にも広く波及しそうな話ですよね。ではどのように扱えば良いかということについて良いアイディアは特にないのですが…

おわりに

ちなみに,今回問題になったのはどうも写真家の方のやり方が個別のケースとしてひどかったということらしいので(すぐ削除されてしまったので見逃しました),こういう一般化した問題として論じるのはどうかという声もあるかもしれません。

ただ,私がこれまで自身の専門のことについて書いてきた経験から言うと,こういう問題化された時がその分野について良く知ってもらう良い機会にもなり得ますので,今後いろいろな視点・スタンスからの専門的な解説が出てくると良いなと思います。