誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

【紹介】日本語学会2012年度春期大会シンポジウム「グローバル市民社会の日本語学」の各講演が文章化されています

 シンポジウムの感想は以前書きました。

 このシンポジウムの報告という形で出ているのではなく、雑誌『日本語学』2012年11月号の特集「人生のための言語学」に収録されていて、わかりにくくというか気付きにくくなっています。

 ただ、雑誌『日本語学』に掲載されているということもあって、専門家でなくてもそれなりに読める内容になっているのではないかと思います。「日本語の正しさ」や「外来語言い換え」、国語教育など一般的にも関心の高いテーマを扱っていますので、ざっとでも見てみると面白いのではないでしょうか。
 本当は書店に並んでいる時期に紹介できれば良かったのですが気付くのが遅れました。すみません。

目次紹介

 レビューするとなるとまた紹介が遅れてしまいますので、目次紹介などしてみます。

金水敏「日本語の正しさとは何か」
  • はじめに
  • 日本語は一つではない
  • 日本語の階層性と“正しさ”
  • “正しさ”が問題になるのはどんな時か
  • 公共的な言語空間と“正しさ”
  • “正しさ”を熟議で決める
相澤正夫「専門家と非専門家の橋渡し―“言葉の補助輪”のすすめ―」
  1. はじめに
  2. “言葉の補助輪”とは―「言い換え」と「言い添え」―
  3. “言葉の補助輪”の場面による使い分け―「よそ行き」と「ふだん着」―
  4. 難解な専門用語を手なずけるには―「病院の言葉」の場合―
  5. おわりに
森山卓郎「言語習熟論あるいは社会的言語習得論―接続表現を例に―」
  1. はじめに
  2. 言語運用能力習得の現状
  3. 接続表現への習熟
  4. おわりに

おわりに

 最近外来語の使用によってNHKが訴えられるというのがニュースになりましたが

相澤氏の論では国立国語研究所が以前取り組んでいた外来語言い換えに関する活動が具体例付きで詳しく紹介されていますので、「あああの無理矢理な言い換えでしょ」みたいなイメージしかない方でも(というかそういう方にこそ)読んでみることをおすすめします。また違った印象を持たれることと思います。
 また、rosechildさんの日記でも紹介されていた
※追記(2013/07/03):以下のrosechildさんの記事に訂正が入っています。元々下の文章化された方だったのではないかということのようです。

インフォームドコンセント→何を聞いてもええんよ診療
セカンドオピニオン→よそで聞いてもええんよ診療
日本語カフェにいってきたよ - ばらこの日記

の話も相澤氏の文章に出てきます。ただこちらではちょっと違って

インフォームドコンセント→なんぼ聞いてもええんよ診療
(相澤正夫「専門家と非専門家の橋渡し―“言葉の補助輪”のすすめ―」p.40)

となっていますね。
 (本当は全部引用したいぐらいなのですが)色々考えさせられる相澤氏の「おわりに」から一部引用してしめにしたいと思います。

専門家と非専門家のコミュニケーションの適切化は、現代社会が抱えている重要課題の一つである。
(中略)
素人の気持ちになって、かゆいところに手の届く解説をしてくれるブリッジマン(橋渡し人)に対する期待と需要は大きい。
(中略)
一方、現代は専門家と非専門家のポジションチェンジ(立場交替)が避けられない時代でもある。「よき伝え手」と「よき受け手」の二役をこなすことが求められている。橋渡しをされた人が、今度は別の人に橋渡しをする。「言葉の補助線」はこんな時代を生きるための必須の知恵と言えるのではないだろうか。
(相澤正夫「専門家と非専門家の橋渡し―“言葉の補助輪”のすすめ―」pp.43-44)

 僕も、(今後も)なんらかの形で「橋渡し」に関わることができるようこれからも模索していきたいと思います。

日本学術会議公開シンポジウム「学士課程教育における言語・文学分野の参照基準」雑感

 日本学術会議の公開シンポジウム「学士課程教育における言語・文学分野の参照基準」というものに参加してきました。以下がシンポジウムの案内です。

 参照基準の中身の参考になると思うので、上の資料の二枚目の前半を引用しておきます。

 言語・文学は、今日の大学教育において重要な役割を担っているが、その身分ないし地位はしばしば不明確で安定性を欠いている。言語・文学は人間の精神生活と社会生活の根底にあって、あらゆる学問そして文化の生成を可能にする基盤であると同時に、それ自体が学問であるという二重性をもっており、専門教育と教養教育・共通教育の双方にまたがっている。じっさい大学設置基準の大綱化以前を考えれば、それは一般教育の人文科学及び外国語に属する学科として前期課程教育の中に確固たる位置を占めていたが、大綱化によってその位置は失われた。また専門分野としての言語・文学は、学位に付する専攻分野の名称が自由化されたこともあって、名称の変更あるいは新設が相次ぎ、分野としての輪郭と特性がぼやけてしまうという事態が生じた。それにもかかわらず、本分野の研究と教育に携わる大学人は、言語・文学の学びには、個別言語の高度な運用能力とりわけリテラシーの修練を通じて言語の公共的使用能力を開発増進するとともに、言語芸術としての文学を学ぶことを通じて人文的教養を身につけ、人間性と市民性の涵養に資するという意義があることを確信している。

 この参照基準を作成しているのは「大学教育の分野別質保証推進委員会 言語・文学分野の参照基準検討分科会」というところです。以下のページから構成員や議事録を見ることができます。

 なお、分科会の親委員会である「大学教育の分野別質保証推進委員会」には他にも生物学分野などのいくつかの検討分科会があるようです。

 今回は(特に大学教育に関係のある)専門家の方でこういう動きがあるよ、ということをお知らせしておくのも良いのかなと考えたのでエントリを立てました。
 実際にこの参照基準が公開されたらまたお知らせしようかと思います。公開されたら内容の細かい検討なども含めて話題になることを期待しています。

雑感

 こういう機会があることによって、大学教育で言語・文学分野では何ができるか、何を目指すか、何をするべきか、というようなことについて広く意見交換ができるのは良いのではないかと感じました。
 鳥飼玖美子氏による結構詳しい説明があったのですが、「複言語主義(plurilingualism)」の考え方を取り入れていることなど、色々期待が持てるところもある内容でした。全体のディスカッションの時にフロアから言語弱者に関する事項ももっと強く発信してくれという要望がありましたが、反映されると良いなあ。
 ただ、参照基準の草稿は28ページもあって、各報告者がそこそこ要約してくれたり部分的に説明してくれたりしたのですが、正直その場で実際の文面を見ながら話についていく、議論に参加するというのは結構大変でした。実際にやるのは難しいのかもしれませが、やはりせめて前日、あるいは数時間前にでも少しぐらい目を通す機会がないとなかなか… 
 ディスカッションでは少し質問もしました。一つ目は「色んな人に紹介したいんだけれど簡易版を作る予定はないのか」というもの。これには「概要が付く」というお返事をいただきました。二つ目は「こういうシンポジウムの様子など議論の過程も積極的に公開した方が良いのではないか」というもので、これについては「議事録などはできるだけ公開している」というお返事。
 そんなことを聞いた手前、僕も宣伝しないわけにはいかなくなってこのエントリを書いてるみたいなところもあります(^^;
 シンポジウムでも何度か言及があったのですけれど、本当は小中高の教育に関わる人たちと連携しながらやりたい、考えたい問題がたくさん含まれていると思います。

おまけ

 色々面白い議論があったのですが、いちいち紹介しているときりがないので一つだけ。
 何回か話題になっていたのですが、日本語の文章作成法(の教育法)がまだあまり固まっておらず、教養教育のアカデミックライティングではかなり英語のライティングの技術・教育に頼っている側面があるというのがかなりの共通認識としてあるというのが興味深かったです。
 僕自身も文章作成の授業ではかなり英語のライティングを意識しています。
 ただ、日本語が英語と同じようにやってなんでも同じようにはうまくいかないというのは日本語のアカデミックライティングの名著の一つ

ですでに示唆されているところでもありますし、もう少しなんとかしたいところですね。

日本語学会2012年度春期大会シンポジウム「グローバル市民社会の日本語学」雑感

 もう一ヶ月どころか二ヶ月経ってしまいそうなところなのだけれど、やはり重要だと思うので書いておく。言語研究者として専門家と非専門家のコミュニケーションを考える上で、刺激や示唆をもらえるところが多かった。
http://www.jpling.gr.jp/taikai/2012a.html

国語学・日本語学には、社会の実践的な必要に役立つことを通して学を発展させてきた歴史があるが、現在の社会における日本語の問題に対しても、その専門性を生かしていかに積極的に関与していくことができるか、考えていくべきだろう。
(予稿集 p.1)

1. 金水敏「日本語の「正しさ」とは何か―言語を資源として見る立場から―」

 「日本語」「国語」に関する価値的な態度についての考え方、立場、キーワードなどを丁寧に整理したもの。言語研究者としてはなじみのあるような話も多かったと思うが、

…、言語の“規範”について“権威”の指導を人々は求めがちであるが、そういった要求に対し、ひとかどの研究者は関わるべきでないとする感性が確かにあった。“自然”な言語をあるがままに観察・記述するのが言語学者の仕事であり、規範の追認や固定に手を染めるようなまねをしてはいけないとする見方である。
 むろんその感性は一面の真理を捉え得るかもしれないが、しかし社会が専門家に求める役割に背を向けて超然とした態度をとり続けることは果たして常に正しいと言えるか。今日、専門家の役割は、決して“上から”教えを垂れることばかりではない。むしろ、議論の材料となる知識を適切に示しながら、日本語話者とともに日本語の在り方について議論していくための“ファシリテータ”役割が求められるだろう。
(予稿集 pp.6-7、強調はdlit)

としたところは従来より踏み込んだところなのではないだろうか。むろん、今までもこのような主張はあったのかもしれないが、日本語学会のシンポジウムで述べられたことには意味があるだろうと思う。
 このブログでもどちらかというと言語研究の脱価値判断的な側面を強調することが多いが、その次の議論の材料を提供できるといいなと思う(実践するのはなかなか難しそうだ)。
 さて、大阪大学での実践例も色々提示されて興味深かったのだが、その中でサイエンス・カフェなどにならって「言語カフェ」的なものをやりたいと計画しているという話があってすごく気になっていた。それがどうも(まず)次のような形で実現したようだ。
「日本語カフェ」はじめました 
このような動きがいろんなところに広まっていくと良いな。とか言ってないでお前もやれって話か。

2. 相澤正夫「言語問題への対応と日本語研究―「外来語」言い換え提案の場合―」

 国立国語研究所の「「外来語」言い換え提案」を覚えている人はどれぐらいいるのだろうか。
「外来語」言い換え提案 - Wikipedia
相澤氏はそのプロジェクトに関わっていたということで、苦労などが聞けて興味深かった。

 提案の大前提として、社会の民主的な運営のためには、社会参加に必要な情報の共有が不可欠であり、「だれもが分かる言葉を皆が使う」ことが実現されなければならないという基本認識があった。情報弱者を作らないという点で、福祉言語学的な色彩の強い企画であると同時に、公共空間における言語使用のあり方を問う点で、その基盤において公共哲学的な発想と姿勢が問われるものでもあった。
(予稿集 p.9)

という点が重要で、言い換え自体は公的機関や報道機関における外来語に対象を絞り、また何でもかんでも言い換えようとしたわけではなかったのに、言い換えのリストそのものに焦点が当たってしまったのは残念だったというような話は、専門家、特に権威のある機関が実際の言葉遣いに介入する際の難しさを感じさせてくれた。
 しかし、確か氏は「どう広報するかの難しさを痛感した」とも述べていたように記憶している。この記録と体験は次の/他の言語学コミュニケーションを少しでもうまく運ぶために、貴重なものではないかと感じた。

3. 森山卓郎「社会的言語習得論―グローバルな「国語力」にむけて―」

 こちらは言語教育、特に国語教育からの話。PISAや全国学力学習状況調査などの結果から見て、言語能力の育成が必要なところが色々あるのではないかという話など。最近の国語の教科書を見ても、国語教育の中で言語能力育成を、という方針は明確になってきていると思うのだけれど、難しいところも色々あるのだろう(だって大学生相手だってこんなに難しいものな)。
 震災関連も少し取り上げられて、デマ(というか誤った情報)が拡散していく過程で、モダリティ形式が省かれた形で伝播していくからではないか、という話が出てきて面白かった。具体例は以下。

コンビナートで火災→雨が降ってるよ→雨が降り始めました。火災の影響?→爆発音と同時に雨、石油が降って来たんじゃないの→石油火災の影響で水溶液が飛んでいるそうです→有害物質が含まれているそうです→雨に濡れないように注意してください、だって→有害物質が雨に混じって降るので、雨に濡れないように
(予稿集 p.17)

モダリティ形式とは、「?(疑問)」「じゃないの(推量)」「そうです(伝聞)」「だって(伝聞)」など。ツイッターの140字制限を思い出すところだ。まあ字数制限がなくても緊急時、あるいは情報が伝わるときには一般にこういう情報が抜け落ちやすいのかもしれないけれど。
 最後にもう一つ引用しておく。こういう姿勢は忘れたくない。

日本語研究の社会化:「社会の役に立つ」だけが重要なことではない。しかし、「どう社会の役に立つのか」を考えること自体はやはり大切なことではないか。

雑感

 コメントシートに「言語研究者が専門家と非専門家のコミュニケーションに対して貢献できることがあるのではないか」と書いたのを取り上げてもらえたのは嬉しかった。もちろんそれは色々できるだろうし、やっていきたいというような答えだったと思う。
 ここから二つ疑問点というか、個人的なわがままを書いておく。
 一つは、「公共哲学」などをキーワードとして挙げるなら、やはり倫理学や社会学の専門家(社会言語学者でその辺り詳しい人とかでも)をコメンテーターとしてでも一人呼んでほしかった。あるいは、サイエンスコミュニケーションの専門家、実践してる人とか。もちろん言語研究、日本語研究独自の難しさ・条件というのもあるだろうけれど、研究(者集団)が社会と関わる時一般の難しさ、みたいな視点からの相対化があった方がわかりやすかったりはしなかっただろうか。そして、「自分たちの分野もうかうかしてられない」という危機感もあおれたのではないだろうか。
 もう一つは、今回はそういう趣旨はなかったのかもしれないが、言語研究者・日本語研究者がこれだけの問題意識やアイディアや実践例を持っているということを社会にアピールしていこうとするなら、このシンポジウム自体ustreamか何かで中継するぐらいのことをやってもよかったのではないか。せめて受付や予稿集購入が必要ない公開シンポジウムの形にするとか(実際スライドがあったのでそれに近い形ではあったと思うけれど)。それは次の段階ということなのかもしれないが、おそらく言語研究にそんなになじみがない人が聞いてもおもしろい話が色々あったと思うので、ちょっと残念だった。
 もちろん、そんな偉そうなこと言うならお前やれよ、という話で、実際僕はほとんど何もしてないわけなので、少しずつでもこういう取り組みに関係するようなことをやっていきたいと思う。

追記(2012/07/05)

 エントリ内で参加に受付や予稿集購入が必要だったというように書いたのは誤りである可能性があるので取り消し線を引いておきました。
 過去のシンポジウムでは予稿集の購入が必要なく、非会員用にレジュメを配っていた例があったということを教えていただきました。僕はその辺り記憶が無いのですが、もしかしたら今回もそういう措置があったかもしれません。もしそうでしたら(特に学会関係者の方)申し訳ありません。