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日本語学会2012年度春期大会シンポジウム「グローバル市民社会の日本語学」雑感

 もう一ヶ月どころか二ヶ月経ってしまいそうなところなのだけれど、やはり重要だと思うので書いておく。言語研究者として専門家と非専門家のコミュニケーションを考える上で、刺激や示唆をもらえるところが多かった。
http://www.jpling.gr.jp/taikai/2012a.html

国語学・日本語学には、社会の実践的な必要に役立つことを通して学を発展させてきた歴史があるが、現在の社会における日本語の問題に対しても、その専門性を生かしていかに積極的に関与していくことができるか、考えていくべきだろう。
(予稿集 p.1)

1. 金水敏「日本語の「正しさ」とは何か―言語を資源として見る立場から―」

 「日本語」「国語」に関する価値的な態度についての考え方、立場、キーワードなどを丁寧に整理したもの。言語研究者としてはなじみのあるような話も多かったと思うが、

…、言語の“規範”について“権威”の指導を人々は求めがちであるが、そういった要求に対し、ひとかどの研究者は関わるべきでないとする感性が確かにあった。“自然”な言語をあるがままに観察・記述するのが言語学者の仕事であり、規範の追認や固定に手を染めるようなまねをしてはいけないとする見方である。
 むろんその感性は一面の真理を捉え得るかもしれないが、しかし社会が専門家に求める役割に背を向けて超然とした態度をとり続けることは果たして常に正しいと言えるか。今日、専門家の役割は、決して“上から”教えを垂れることばかりではない。むしろ、議論の材料となる知識を適切に示しながら、日本語話者とともに日本語の在り方について議論していくための“ファシリテータ”役割が求められるだろう。
(予稿集 pp.6-7、強調はdlit)

としたところは従来より踏み込んだところなのではないだろうか。むろん、今までもこのような主張はあったのかもしれないが、日本語学会のシンポジウムで述べられたことには意味があるだろうと思う。
 このブログでもどちらかというと言語研究の脱価値判断的な側面を強調することが多いが、その次の議論の材料を提供できるといいなと思う(実践するのはなかなか難しそうだ)。
 さて、大阪大学での実践例も色々提示されて興味深かったのだが、その中でサイエンス・カフェなどにならって「言語カフェ」的なものをやりたいと計画しているという話があってすごく気になっていた。それがどうも(まず)次のような形で実現したようだ。
「日本語カフェ」はじめました 
このような動きがいろんなところに広まっていくと良いな。とか言ってないでお前もやれって話か。

2. 相澤正夫「言語問題への対応と日本語研究―「外来語」言い換え提案の場合―」

 国立国語研究所の「「外来語」言い換え提案」を覚えている人はどれぐらいいるのだろうか。
「外来語」言い換え提案 - Wikipedia
相澤氏はそのプロジェクトに関わっていたということで、苦労などが聞けて興味深かった。

 提案の大前提として、社会の民主的な運営のためには、社会参加に必要な情報の共有が不可欠であり、「だれもが分かる言葉を皆が使う」ことが実現されなければならないという基本認識があった。情報弱者を作らないという点で、福祉言語学的な色彩の強い企画であると同時に、公共空間における言語使用のあり方を問う点で、その基盤において公共哲学的な発想と姿勢が問われるものでもあった。
(予稿集 p.9)

という点が重要で、言い換え自体は公的機関や報道機関における外来語に対象を絞り、また何でもかんでも言い換えようとしたわけではなかったのに、言い換えのリストそのものに焦点が当たってしまったのは残念だったというような話は、専門家、特に権威のある機関が実際の言葉遣いに介入する際の難しさを感じさせてくれた。
 しかし、確か氏は「どう広報するかの難しさを痛感した」とも述べていたように記憶している。この記録と体験は次の/他の言語学コミュニケーションを少しでもうまく運ぶために、貴重なものではないかと感じた。

3. 森山卓郎「社会的言語習得論―グローバルな「国語力」にむけて―」

 こちらは言語教育、特に国語教育からの話。PISAや全国学力学習状況調査などの結果から見て、言語能力の育成が必要なところが色々あるのではないかという話など。最近の国語の教科書を見ても、国語教育の中で言語能力育成を、という方針は明確になってきていると思うのだけれど、難しいところも色々あるのだろう(だって大学生相手だってこんなに難しいものな)。
 震災関連も少し取り上げられて、デマ(というか誤った情報)が拡散していく過程で、モダリティ形式が省かれた形で伝播していくからではないか、という話が出てきて面白かった。具体例は以下。

コンビナートで火災→雨が降ってるよ→雨が降り始めました。火災の影響?→爆発音と同時に雨、石油が降って来たんじゃないの→石油火災の影響で水溶液が飛んでいるそうです→有害物質が含まれているそうです→雨に濡れないように注意してください、だって→有害物質が雨に混じって降るので、雨に濡れないように
(予稿集 p.17)

モダリティ形式とは、「?(疑問)」「じゃないの(推量)」「そうです(伝聞)」「だって(伝聞)」など。ツイッターの140字制限を思い出すところだ。まあ字数制限がなくても緊急時、あるいは情報が伝わるときには一般にこういう情報が抜け落ちやすいのかもしれないけれど。
 最後にもう一つ引用しておく。こういう姿勢は忘れたくない。

日本語研究の社会化:「社会の役に立つ」だけが重要なことではない。しかし、「どう社会の役に立つのか」を考えること自体はやはり大切なことではないか。

雑感

 コメントシートに「言語研究者が専門家と非専門家のコミュニケーションに対して貢献できることがあるのではないか」と書いたのを取り上げてもらえたのは嬉しかった。もちろんそれは色々できるだろうし、やっていきたいというような答えだったと思う。
 ここから二つ疑問点というか、個人的なわがままを書いておく。
 一つは、「公共哲学」などをキーワードとして挙げるなら、やはり倫理学や社会学の専門家(社会言語学者でその辺り詳しい人とかでも)をコメンテーターとしてでも一人呼んでほしかった。あるいは、サイエンスコミュニケーションの専門家、実践してる人とか。もちろん言語研究、日本語研究独自の難しさ・条件というのもあるだろうけれど、研究(者集団)が社会と関わる時一般の難しさ、みたいな視点からの相対化があった方がわかりやすかったりはしなかっただろうか。そして、「自分たちの分野もうかうかしてられない」という危機感もあおれたのではないだろうか。
 もう一つは、今回はそういう趣旨はなかったのかもしれないが、言語研究者・日本語研究者がこれだけの問題意識やアイディアや実践例を持っているということを社会にアピールしていこうとするなら、このシンポジウム自体ustreamか何かで中継するぐらいのことをやってもよかったのではないか。せめて受付や予稿集購入が必要ない公開シンポジウムの形にするとか(実際スライドがあったのでそれに近い形ではあったと思うけれど)。それは次の段階ということなのかもしれないが、おそらく言語研究にそんなになじみがない人が聞いてもおもしろい話が色々あったと思うので、ちょっと残念だった。
 もちろん、そんな偉そうなこと言うならお前やれよ、という話で、実際僕はほとんど何もしてないわけなので、少しずつでもこういう取り組みに関係するようなことをやっていきたいと思う。

追記(2012/07/05)

 エントリ内で参加に受付や予稿集購入が必要だったというように書いたのは誤りである可能性があるので取り消し線を引いておきました。
 過去のシンポジウムでは予稿集の購入が必要なく、非会員用にレジュメを配っていた例があったということを教えていただきました。僕はその辺り記憶が無いのですが、もしかしたら今回もそういう措置があったかもしれません。もしそうでしたら(特に学会関係者の方)申し訳ありません。