誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

メモ:サイエンスコミュニケーションと科学者/研究者/専門家に何を求めるか問題

  • 注意点
    • 事例として自然科学を取り上げているので「サイエンスコミュニケーション」という言葉を使っていますが、わかりにくければ「専門家と非専門家のコミュニケーション」と読み替えて大丈夫です。
    • 僕自身は人文学の研究者です。

 なんか仰々しいタイトルを付けてしまいましたが特に結論は無いです。あといつも通り長いです。
 震災以降、特に放射線関係を中心に、サイエンスコミュニケーション*1やサイエンスコミュニケーターの重要さ・必要性が話題になることが多くなったような印象があります。もちろん僕はそういう方面に興味があるので単なるバイアスかもしれません。
 これを機に、職業としてのサイエンスコミュニケーターやサイエンスライターの質・量がある程度確保されるような状況が出来上がっていくのなら、それはとても良いことではないかな、と思うのですが、いわゆる科学者/研究者自身はこれからどれぐらいの「サイエンスコミュニケーション」を要求されるようになるのでしょうね。
 コミュニケーターも担える科学者/研究者は一部で良いと考えたとしても、その一部を育成・維持するためのリソース(お金とか労力とか)はなかなか馬鹿にできないものがあるように思います。また、そもそもその分野にそのノウハウが無い場合は、取り組みを軌道に乗せること自体にも、かなりのリソースが必要になりそうです。
 震災以前の科学・学問に対する予算の配分は、大雑把に言うと縮小・厳しめという路線上にあったと記憶しています。僕がちょっと怖いな、と思うのは、上で述べたようなサイエンスコミュニケーションの充実やサイエンスコミュニケーター(もできる研究者)の育成が、「科学ってのはお前らの問題なんだから、お前らでなんとかしろよ」という、「努力」の問題に(のみ)還元されてしまうことです。
 僕がそういうことを考えていて、ふと頭に浮かんだ記事の一節を一つ紹介しておきます。

難しく考える必要は無い。
ニセ科学に対する批判を公開することだけが、ニセ科学に対するアクションではない。

ニセ科学批判の記事を読み、その記事への賛同の意見を表明するだけでもいい。
リンクとともに一言コメントを追加するだけでも、十分意味のある行動である。
ひょっとしたらそのリンクをたどって批判の存在を知ったことで、将来騙される危険を免れる人がいるかもしれないのだから。
幻影随想: 駆け出し研究者が科学のために立ち上がる方法のガイド
(追記:2009年1月11日の記事です。)

はてブのコメントでも指摘されていますが、ニセ科学・疑似科学問題に関わることは、時に何らかのトラブルに巻き込まれることにもつながるのでなかなか簡単な問題ではないのですが、この「少しでも良いその人なりのアクションを」という呼びかけは、とても印象に残っています。それは、この呼びかけの内容に強く同意したということもありますが、こういう活動が科学者・研究者にとって基本的にボランティアであることの裏返し*2なのではないかなあと思えたからです。
 ニセ科学・疑似科学問題はサイエンスコミュニケーションの問題に完全に包含されるものではないですが、密接に関わりますし、やることが結構似ていたりします。ちなみに震災後の数か月でも、ここぞとばかりに(?)色々なニセ科学・疑似科学が跳梁跋扈していましたね。
 ニセ科学・疑似科学問題ではそういった話題を取り上げるブログとか、批判に関わる人の数自体も少しずつ増えていっていた印象があります。僕自身、これだけあるなら自分が書くこと特に無いなーと思って記事をあまり書かなくなったぐらいで。サイエンスコミュニケーションの領域ではどうなっていくでしょうね。
 僕の観測範囲では、震災後の様々なサイエンスコミュニケーション活動でも手弁当・休日返上という形が多く見られました。そのこと自体に問題があると言いたいわけではありません。震災後数か月・一年といった短い期間だけでなく、今後もサイエンスコミュニケーションの質・量の向上・維持を望むなら、そういった個人の「努力」に多くを頼るという形では無理が来るのではないかなあ、ということです*3。特に良い案を思いついているわけではないので無責任な物言いなのかもしれませんが…

おまけ

 以前、メディア研究の研究者と「インターネットの普及はサイエンスコミュニケーションの新しい形を生み出しているのではないか」という話をしたことがあります。震災後、ツイッターの利便性が言われたりしましたが、インターネットメディアを通したサイエンスコミュニケーションのノウハウの構築、というのも重要になっていきそうな気がします。インターネットだと幸いログが残っているしこれからも残っていくわけですが、まとめるのは大変そうですね…

*1:ここでは大雑把に科学の話題に付いて、専門家が関わるコミュニケーション、という程度の意味で用いています。

*2:たとえば、自分の研究や生活に支障のない範囲での活動を、といった感じで。

*3:もちろん、「待遇を良くしろ」と言うだけでなく、これまでの体制やシステムを見直すことでできることもあるのでは、と考えることも有効かもしれません。

「自粛をお願いする」のは“日本語として”おかしいか

 「自+X」の形式を持つ漢語動名詞についてはいくつか先行研究がありますが(以下のものは未見)、

調べるのにあまり時間が取れないので、メモ的なエントリを書いておきます。
 今回の震災以降、「花見」の件をはじめとしてさまざまな「自粛のお願い*1」が問題にされてきたようです。「自粛+他粛」辺りでググるとその様子がざっと見てとれると思います。

僕がちょっと気になったのは「「自粛をお願い」するのは“日本語として”おかしい(だから「他粛」と呼ぶべき)」と言うような言い方です。
 そこで、「“日本語として”おかしい」と言えるのかどうかという点について少し考えてみました。

何が「自」なのか:意思決定と動作

 「自+X」という形をとる漢語動名詞*2には「自殺」「自爆」「自戒」などがあり、主に再帰的な動作を表します*3
 さて、それでは「自爆/自殺を お願いする」ことは日本語としておかしいのでしょうか。おそらく、こういった表現に違和感を覚える方が持っているのは「自分で“決める”わけじゃないのに、「自〜」と言うのはおかしい」という感覚ではないかと思います。
 しかし、たとえば「自殺を強要」という表現はよく使われているようです。

上で出てくる使い方はそれほどおかしくは感じられないのではないでしょうか。これは、「自殺」という行為には動作が含まれているからだと考えられます。つまり、きっかけが他者から与えられたものであったとしても、死に至るための動作を「自分」が行ったのならば、「自殺」と言えるということです。
 実は、「自粛」についてこのように考えるのが難しい、というところにこの表現のややこしさがあると考えています。「自粛」というのは動作、つまり「何かをする」ということではなく「何かをしない(でいる)」ことを表すからです*4。具体的な動作を含むということが直感的にはわかりにくいため、「自殺」といった他の「自+X」語と比べて、「お願いする」ことが変に感じられるというところがあるのではないでしょうか*5

「命令」と同じなのか

 こういった表現についてよく聞かれる声に「「お願い(要請/依頼)」と言いながら、実質的には「命令」ではないか」というものがあります。
 この「命令」という表現が「(ある程度)強制力を持つ」といったことを指しているなら、この疑問は間違いではありません。しかし、こういった問題ではぜひ「お願いという形で強制力を持たせている」という点に注目してほしいと思います。
 以前遭遇した似たような問題にコンビニなどにある貼り紙の表現があります。次のようなものです。

  • A: いつもきれいに使って下さってありがとうございます。

これが「きれいに使え」という「命令」に感じて嫌だ、という話です。しかし、そう感じる人でも

  • B: きれいに使って下さい。

という表現と「全く同じ」と感じる人は少ないのではないのでしょうか。むしろ、「そういったストレートな表現の方が好ましい」と思ったりしないでしょうか。まあさすがにこれはぶっきらぼう過ぎるかもしれませんが…
 さて、ここで重要なのはAの表現がたとえ「命令」として解釈される場合にも「感謝を述べるというを用いている」という点です。むしろ形としては「感謝」しておきながら「命令」だからこそそこにいやらしさを感じるのではないでしょうか。こういう、言語表現の形そのものが表す意味が、ある文脈においては違ったように機能する、ということは特に「依頼」「命令」といった言語行為に関してはよくあります。むしろ、「Aという形を用いてBを表す」という手段を用いて、私たちは複雑かつ豊かなコミュニケーションを行っていると僕は考えます。具体的にどういった条件・文脈で「命令」が成立するのかということについても色々研究があるのですが、僕はその辺り手持ちの知識だけでは紹介するのが難しいのでここではやめておきます。
 その観点から「自粛をお願い」の問題に戻ると、それを「日本語としておかしい」と批判するのは少し的外れとうかあまり意味が無いように感じます。もし批判したいのなら、「直接的な命令ではなく、わざわざその形を使うのはいやらしい」といった形でやる方がいいのではないでしょうか。実際、批判や違和感の表明にはそういうものも多いと感じています*6
 ただ、「自粛ではなく他粛ではないか」という言い方はとても早く広く広まったようなので、このようなごちゃごちゃしたエントリを書くより効果的であり、批判を広める戦略としては優秀だったと言える(これからも言える?)のかもしれません。

「日本語としておかしい」とはどういうことか

 さて、「日本語としておかしい」という言い方についてですが、これ自体曖昧な表現ですね。上で述べてきたように、これが「日本語に存在するべきではない文法的に間違った表現である」といった意味なら僕は反対ですが、「日本語の使い方としていやらしい」という意味ならアリかなあと思います。僕は前者の意味で言っているような人が多いように感じたのでこんなエントリを書こうと思ったわけですが。

おまけ:「他粛」について

 ところで、「他粛」という語は面白いです。語の一部を他の形にとりかえる語形成というのもあると言われている*7のでこの語の内部構成を考えるのは不適当かもしれませんが、使役文に相当する意味構造を持つことになる可能性が無いかな?あるいは「粛」に他動詞的な意味構造を認めたとしても「他」は動作主の方ですから外項複合の例になりますね*8

*1:他にも「強要」「要請」「依頼」などその強さに応じていくつかの表現があると思いますが、ここではそれらの代表として「お願い」を使うことにします。

*2:ここでは「する」を付けて動詞として使える、という程度の意味です。

*3:どれほどの割合の語が再帰的な意味を表すのか、本当に「再帰」と言ってよいかは考えなければなりません。また、上記先行研究のタイトルにも挙がっているように、「自己+X」の形を取るものもあります。

*4:分析のレベルでは、「何かをしないでいること」を「動作」と考えることはもちろんできます。

*5:あるいは「変でない」という可能性を思いつきにくい。

*6:形式としてもきちんと「命令」にした方が行政側に明確な責任が生じるので良い、といった議論もあるようです。

*7:たとえばざっくりした「千切り」を「百切り」と言うなど。

*8:外項複合の漢語動名詞についてはすでに研究がすすめられています。次の研究などを参照。

現代日本語の漢語動名詞の研究 (ひつじ研究叢書 言語編)

現代日本語の漢語動名詞の研究 (ひつじ研究叢書 言語編)

メモ:「つくば市、福島からの転入者に放射能検査要求」の件と公式アカウントについて考えたこと

 震災関連のエントリはあまり書く気がしなかったのですが、この件についてはメモと思考の整理のために。ちなみに、カテゴリは便宜上のもので「スクリーニングをニセ科学と決めつけている」というような話ではありません、念のため。

「つくば市、福島からの転入者に放射能検査要求」の件

 僕が最初にこの件を知ったのは以下の記事。

以下の記事にもう少し詳しい情報や市町のコメントが出ています。市長の会見がラジオなどで聞けたらしいのですが、それは聞き逃してしまいました。

行政でどういう経緯があったのか詳しく調べたわけでないのですが、つくば市議会議員五十嵐立青氏がこの件について比較的詳しいコメントを発表していて、震災直後からのつくば市の放射線に対する対応の流れを(大雑把に)推測/把握できる情報になっているのではと思います。

 スクリーニング(検査)についてはkikulogにこのつくば市の事例についてのエントリができたので、その記事の内容と、コメント欄での情報提供・議論が参考になることを期待しています。まだエントリができたばかりでコメントがそれほど多くはありませんが。

また、取り上げている事例・事情は違いますが、スクリーニングについて考えるにはNATROM氏の以下のエントリも参考になります。

 ニュースなどはそれほど見ていないのですが、報道ステーションでは冒頭で取り上げ、「差別である」とはっきり述べている専門家の意見を流していました。

何が「差別」か

 この件については、すでにあちこちで議論も出ていますが「スクリーニング(検査)を行うことの是非」と「自治体などの機関が証明書を要求することの是非」はとりあえず分けて考えた方が良いのだろうと思います。「差別だ」と批判している人の多くは後者を問題にしており、「今回の件に限らず、いついかなる状況下でも検査をすること自体が差別」と考えている人は(少なくとも僕の観測範囲では)いないように思います。どのような状況下なら必要/OKかということについては専門家の意見でもある程度は幅が出るのではないでしょうか(行政としての判断となるとなおさら)。
 前者について素人の当て推量からは、今の状況下、一般的な引っ越しで他人に影響を及ぼせるほどの放射性物質をどれほど運んでこれるのか疑問に思っていますが(家具などは家の中にあるし衣服などは定期的に洗濯しているだろうし引っ越しを機に捨てるものも多いのでは*1)、楽観的すぎる見方なのかもしれません。

研究学園都市つくば

 さて、今回の件のインパクトは「つくば市」だからというところにも少なからずあるように感じています。僕も最初の記事を読んだときは驚いたのですが、それは「研究学園都市なのに」ということよりむしろ、初期のつくば市の震災・放射線に対する動き方とずいぶん異なっている印象があったからです。
 僕の印象では、震災後の放射線に対するつくば市の対処は比較的素早く落ち着いたものだったように記憶しています。早い時期に産総研など研究所から専門家を招き対応を急いでいる、という情報に触れた記憶があります。また、震災直後からほぼつくば市の公式アカウントとして機能していたつくば市情報政策課のツイッターアカウント(@)も、放射線に関しての正確な情報を提供し落ち着いた対応を呼びかけていたように思います。
 「別につくば市だからって特別なわけじゃないよ」というような意見もいくつか見ましたが、それが十分であったかは別として、研究学園都市であることを生かした行政の対応、という試みはなされていたし、ある程度形になっていたのではないでしょうか。それが今回このような形でそれとは逆の評価を受けるようになってしまったのは残念です。上で紹介した五十嵐氏の記事にも「その後こんな事態になってしまっていたとは」というような反省が書かれています。

公式アカウント?(の難しさ)

 ここから先は少し感傷的な話でもあります。
 上で紹介したつくば市情報政策課のツイッターアカウント(@)ですが、このアカウントに助けられたという人は結構多いのではないでしょうか。震災直後はつくば市のサイトもつながらないことがあり、僕などはこのアカウントからの情報が無ければ初期の断水を乗り切るのはかなり大変だったと思います。
 ツイッターではだいぶ前に書きましたが、このアカウントを運用されている方がツイッターのシステムにかなり慣れているところから来るのか、フットワークの軽さと情報提供の効率の良さには本当に感謝しています。こういうアカウントには多くの情報と言及が集まってしまうと思うのですが、(特に震災後しばらくの間)丁寧な対応と迅速な情報提供/共有を継続するのはかなり大変だったのではないでしょうか。
 さて、そのアカウントに、上記の件で問い合わせや批判などが多く寄せられているようです(ツイッターで"tsukubais"で検索するとわかります)。上に書いたように実質的に公式アカウントとして機能してきましたし、震災を機にフォロワーもかなり増えたと思うので仕方ない状況かなとも思います*2が、このような形での「窓口」としても機能し始めると、フットワークの軽さや、親しみやすい日常のツイートなども以前より減ってしまうのではと勝手に想像して勝手に少しさびしくなりました。
 完全に推測ですが、その辺りの良さは、中の人の努力だけでなく、むしろ当初の位置付けはつくば市の代表の公式アカウントではなかったところにも少しあったのではないかと考えていたのです。しかし、ツイッターというツールはもしかしたらそういった「身軽さ」「親しみやすさ」と「公式アカウント」という堅さ・責任をうまく併存させる可能性を持っているのかもしれません。
 今回の震災を機にツイッターのツールとしての有用性が注目されているようですが、こういった体験の記録が参考になることも少しはあるかと思い、書いておくことにしました。

追記

 これも念のために書いておきますが、僕は「最初頑張ったから大目に見てあげて/あまり怒らないで」などと言いたいわけではありません。今回の件はそれだけで十分批判され、今後の参考にされるべきだと考えています。
 ただ、このつくば市の事例について考えるなら(僕の認識が当たっていれば)最初はそれほど変じゃなかったはずなのに、どの時点でか変なことになってしまった点について(も)考えた方が良いのでは、ということです。

*1:もちろん当てはまらないケースもあるかも。

*2:また、より広くたくさんの市民の声を拾える、という意味で有用であるのかもしれません。