はじめに
というわけで、宣言どおり「水からの伝言」に対する言語学的な視点からの反論を書いておくことにします。
これまでこのブログではこういう話題は全然取り上げてこなかったので突然に思われるかもしれません。web上でこの話題に出会ってからかなり多くの関連サイトをのぞいて勉強させていただきましたが、「言葉」の役割がかなり大きい問題であるにも関わらず、言語学的な問題に焦点を当てた反論というのは管見の限り見つかっていません(いや、色んなところでちょっとずつ触れられてはいて、それで議論はほとんど尽きてさえいるのですが…例えば”http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=3571”ではこのエントリの主要な論点がほぼ出揃っています)。まあこのお話に触れた言語学経験者の方々は全て一笑に付してきたのでしょうが、一応簡単にでもまとめたものがあってもいいかな、とずっと思っていましたので。あと、いくつかのサイトで見かけた「人文系の反応が薄いよなあ…」という感想に対して何か反応したかったという経緯もあります。
◆読む前の注意点
- 簡便のためにここから先は、「水からの伝言」を略して「水伝」と表記することにします。
- 「水伝」がどういう問題かという点に関してはwikipediaの簡潔な記述を参照ください。さらに詳しい議論が知りたい方はそこからさらに田崎晴明氏や菊池誠氏のサイトを訪ねると良いと思います。
- この記事は、水伝の主張が純粋に言語学的な観点だけから見ても不可能であると示すことを目的としています。水伝が自然科学の観点から見て成り立たないことはすでに色々なところで示されています。しかし、この記事が全く意味が無いかというとそんなことはなく、「水伝の(ある)主張はたとえどんなに厳密に科学的方法論にのっとった研究を行っても検証されえない、原理的に成り立たないものである」ことを示すという点ではおそらく少しは意義があるでしょう。
- とは言っても、これからの議論はほとんど様々なサイトで少しずつ端的に指摘されてきたものです。目新しく鮮やかな「さすが専門家!気づかなかった!」というような反証が出てくることを期待しないでください。
- かなり多くのサイトを見て回り、ブログの議論にも目を通し、江本氏の本も我慢してちゃんと読みきりましたがそれでも拾いきれなかった情報があると思います。お手数ですがご指摘いただけると嬉しいです。あと、「この程度の議論しかできてないお前なんかが言語学を代表するな!」と思われた方もどんどん突っ込んでください。
※ある程度全体を書いた後で結構むなしくなってきました…というか、主張が至る所であいまいで逃げ道が色々あって、反論しにくいのです…こんな「お話」に躍起になるなよ*1、と思われるかもしれませんが、言語学(特に意味)に関する色々な問題を考える一例にもなっていると思いますし、実際、院試なんかで出すと良いかもしれません*2。
言語学を勉強している若い院生の皆さんにはむしろ他の批判サイトへ行って、そこでのやりとりなんかを追ってみて、科学とは、科学的態度とは、科学的方法論とはなどに関する議論を肌で味わうことをおすすめします。
追記(2007/06/09)
TAKESANさんのブログに、ここから先に書いてある議論を親子の対話形式という形でよりわかりやすく展開したエントリが発表されました。
上で交わされている会話の背後にある(言語学からの)理論的な裏付けが本エントリ、ということになると思います。
どちらから先に読まれても良いと思いますが、両方読まれることをオススメします。水伝に対して具体例を挙げた反論はすぐ思いつくのだけど、それがどう(あるいはどういった言葉で)一般化されるか知りたい、という方はここから先の議論を、ここから先の議論を読んで、「でも具体的にもっと簡単に人に説明する場合はどうすればいいのか」知りたい方はTAKESANさんのエントリを読んでみてください。
0. イントロ
さて、まず最初に反論のターゲットにする主張を明確にしておきます。水伝には水質に関する主張などもありますが、もちろんここで取り扱うのは言語に関する問題に限ります。またこれこそが水伝の主な、というか主に重大な問題だとされてきたものですし。以下はほぼwikipediaからの抜粋です。
水に「ありがとう」や「平和」など「よい言葉」をかけて凍らせると美しい雪花状の結晶ができ、「ばかやろう」や「戦争」など「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができる。
言語学的に気になる点をさらに詳しく挙げておきます。
- 水に言葉を触れさせる方法は、「紙に書いて容器に貼る」のと、「声をかける」どちらの方法でも良い。
- 様々な言語(英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語など)で同じような結果が得られる。
1は水が音声言語と文字言語のどちらも理解できる、ということですね。2は…水はどの言語も理解できる、かあるいはどの言語についてもそれを理解できる水がある…となるのでしょうか。この時点でもう怪しさいっぱいですよね(^^;
…では気をとりなおして。論点はいくつかありますが、言語学的に見て大きな問題点は二つあります。言語表現の恣意性に関する問題と、文脈に関する問題です。他のサイトでも良く見かけるのは文脈に関する問題点の指摘なので、まずはそちらから見てみましょう。
1. 発話の解釈の文脈依存性
表出された(個々の)言語表現の解釈は文脈に依存します。僕の好きな先生の例*3(厳密にオリジナルと同じではありませんが)を挙げます。次のような表現を考えてみましょう。
- 彼は、料理がとても上手い。
この表現は次のようにそれが発話された文脈によってその解釈(意図)が異なってきます。
- 話題が結婚の条件についてで、自分の友達に対する評価を求められた時
- 話題が哲学の研究についてで、自分の友達に対する評価を求められた時
1の場合はその友達についての高い(好い)評価となるのに対して、2の場合は強烈な皮肉を表してしまうでしょう。このように、字義上の意味(「文の意味」と言ったりします)は同じでも、その発話の意味(ものすごくラフに言えば意図)は文脈によって場合によっては大きく異なってしまうのです。同じ「ありがとう」でも口汚い罵り合いの後に突然発せられた場合はあまり謝意の表明とは理解してもらえないのではないでしょうか。
このレベルぐらいまでの情報も無ければある言語表現の評価というのはできないのではないでしょうか。
この問題が水伝に関して提起する問題点は二つあります。まず、文脈も無しにある言語表現の評価をしろと言われても(人間にとってですら)難しいということです。しかし、人間であればこれまでの知識や体験を(無意識に)参照して判断を下すことができるかもしれません。ところが、水はどのようにしてそのような知識や体験を参照することができるのでしょうか。
2. 言語記号の恣意性の問題
言語の形(音、文字)と意味(内容)は一般的に恣意的に結びついています*4。
言語学に触れたことがある方、ソシュール関係の本を読んだことがある方であれば、すぐに「シニフィアン(能記)」と「シニフィエ(所記)」という言葉が思い出されるでしょう。日本語の訳語を見てもよくわからないと思いますが、これはフランス語の"sign"に当たる動詞の現在分詞と過去分詞です。荒く訳すと「表すもの」と「表されるもの」とでもなりましょうか。
言語学の教科書では色々な例が挙げられますが、例えば”犬”という種を表すために日本語では「いぬ/犬/イヌ」という言語記号を使用し、英語では"dog"という言語記号を使用します。このように、(これは音、文字両者について言えると思いますが)言語表現においては*5その記号の形と意味の結びつきに必然性はありません。これはすなわち次のようなことでもあります。
- その言語における形と意味の対応に関する情報を持っていないと、その言語(の表現)を理解(あるいは使用)することはできない。
(確か)田崎先生が挙げていた、「じゃあ"shine"と書いたらどうなるの?日本語で解釈するなら「死ね」で英語なら「輝け」じゃない」という反例は、ここでの問題を適格に鋭く指摘していると考えられます。
これは水伝に対して次のような問題を突きつけます。すなわち、水はどのようにしてそのような形と意味の対応に関する情報を持ちえるのか、と。言語能力にいかに生得的、普遍的な部分があるとしても、このような情報に関しては母語話者、非母語話者に関係無く学習して覚えていくしかありません*6。しかもその情報は言語(時には方言、コミュニティなどの単位で)によって大きく異なっているのです。
3. 問題点の整理
ではまとめてみましょう。
水がある言語表現を「よい言葉」だと判断するためには、水自身が、
- その言語表現がどのような意味(内容)と結びついているのかという情報、と
- その言語表現がどのような文脈に置かれるとどのような解釈を得るのかという情報
を持っている必要があります。さらに、
- 評価の基準に関する情報
も持っていなければならないでしょう。かなりの程度解釈を絞り込むことができたとしても、そこでその表現が良いか悪いかを判断するにはやはり何らかの知識が必要だと思います。評価、価値ということに関してはさらに”水に芸術はわからない: 朴斎雑志”を読まれることをオススメします。
すなわち、「波動」というような怪しげな概念の物理的な議論に入るまでもなく、
- ある言語表現の、その物理的性質(形)のみと特定の評価を結びつけることは原理的に不可能
なのです。そして、
- 「意味」を受け取るためにはそれがどのレベルのものであれ、受け手側が実に様々な情報、知識を持っていることが必須
なのです。
これらの結論は、「現段階では無理でも水伝が将来科学的に検証されるかもしれないと考える方々」が支持するであろう「言語記号(文字、あるいは音)がその物理的性質によってのみ水に意味を伝え、水の物理的性質が変化する」というような主張に対する完全な反論になっていると思います。形だけからは、意味は生まれないのです。
この反論を克服するためには、例えば1)実は水は言葉に反応しているわけではなく、それを表現したものの「心」に反応している、とするか、2)水は万能の学習者で、実は人間と接するたびにその言語に関する情報を学習している、あるいは、水はなんだかしらないけれども全ての言語に関する情報を備えている、というような道を選択しなければならないでしょう。
1)はそもそも「水が言葉の意味に反応している」という水伝の大きな主張を破棄するものであり、人には優しい心で接しましょう、といったような当たり前の教訓*7だけが出てくることになるでしょう。2)は水がそういう情報を持つことができるとするところからなんというかもう神話の世界のお話になりそうですが、ホメオパシーとの関連性を強調していたり、本のあちこちに出てくる水に対する神秘的崇拝指向から考えると本気でそう言い出しそうな感じがするのが怖いところです。しかも水は物理的に離れていても情報をやりとりすることができるとか言い出しそう…
追記:記号の認識について(2007/06/11)
ここのコメント欄や他ブログでも少し議論が出たのでまとめておきます。重要な議論だと思うのですが、もしかしたらこの点に関しては言語学者間でも少し意見が異なってくるかもしれない*8ので、追記という形で…
むしろこの点が(言語学的に考えた時に)水伝が越えるべき最初のハードルなのかもしれません。それは、「水はどうやって言語記号を言語記号として認識できるのか」という問題です。…そもそも水に受容器官なんか無いじゃん…という根本的な問題もありますが、それは水の物理的性質に関わるものだと思いますので、ここでは取り扱いません。
問題は、言語記号というものが本質的に離散的な性質を持つのに対して、それを具体的に実現する物理的実態である「インクの染み(文字)」や「空気の震え(音)」は連続的なものだということです。つまり、私たちがそういった単なる物理量をきちんと個々の言語記号として受け取ることができる、というのも私たちが有している言語に関する知識に依存しているのです。
音に関して見てみましょう。例えば、「う」という音を出しながら、だんだんあごを開いて舌の位置を下げていってみてください。「お」になりますよね?このように調音運動というのは連続的に調節可能ですし、実際に産出される音も連続的に変化します。しかし、日本語の音としては「う」か「お」でしかなく、「33%の”う”」というものが言語記号として使用されることはありません*9。日常会話で実際に中間的な音を出したとしても、「勝手にどちらかに解釈される」でしょう。音に鋭い人なら「日本語っぽくない音」とか「変な(わかりにくい)発音するな」などと言うかもしれません。
このようなシステムになっているからこそ、物理的には様々に異なっているはずの音を同じ「う」として言語記号として使用することができると言えます。文字に関しても基本的には同じことが言えると思います。「ある約束事を満たしていればXという記号として認識する」という知識を持っているからこそ、小学生が書いた「う」も書の達人が書いた「う」も、同じ「う」として認識し、使用することができるのです*10。
すなわち、水が言語記号を言語記号として認識するには、このような「インクの染み」や「空気の震え」を言語記号と結びつける知識も持っていなければならない、ということになります。このハードルを越えなければ、水伝の上記の主張は恣意性の問題にすらたどり着くこともできません。
4. さらに気になったところなど
水は文法も持っている!?
本文中には「ありがとう」や「ごめんなさい」といったような非常に固定的で、ある特定の言語行為と密接に結びついている表現だけでなく、「しようね」と「しなさい」を使用した実験も紹介されています。もちろん「しようね」は綺麗な結晶を作り、「しなさい」は美しくない結晶しか作らないということです。
しかし「しなさい」はまあ結構固定的な表現であるとしても、「しようね」の意味を解釈するためには、上で議論したような情報に加えてさらに「する」と「(よ)う」と「ね」を合成するとどのような意味になるのか、という計算ができる必要があります…すなわち文法を持っていないといけないのです!しかも「〜しなさい」の〜の部分が特定されていてもとんでもないことなのに、そこを捨象して「命令」という意味を抽出できるとは…水恐るべし、です。
愛と正義も知っている!?
さらに、「愛」と「正義」も美しい結晶を形作ることが写真つきで紹介されています。しかし、この単語、本当にそんなに生易しいものなのでしょうか。もちろん、辞書を引くとその意味が乗っていますが、我々はその意味はこの概念に結びつく具体的なエピソードに関する知識や経験を持たないと理解することはできないのでしょうか。ということは水はそういうった知識も持っていることに…
まあ本当にこれらの単語の意味がそのように得られるかどうかはともかく、「犬」といったような言葉と違って、このような高度に抽象的な概念に対しても適切な評価ができると言うのは本当にすごいと思います。
歴史的変化はどうするんだろう…
さらに、言語表現の持つ意味というのも様々なレベルで(それこそ語彙的意味から文法的、発話の解釈に関するものまで)歴史的に変化します。水が参照してるのはどの時代の言語の情報なんでしょう…まあ現代なんでしょうけど、では今良い言葉とされやすいものが百年後には全く逆の意味になってしまったら?水はそれも学習できるのでしょうか。
*1:菊池誠先生の言い方を借りれば「宗教」
*2:次の文章、「水からの伝言」を言語学の観点から批判せよ、とか
*3:全くの余談ですが、この「僕の好きな先生の例」という表現は構造的に曖昧です。どういうことでしょう?
*4:もちろん、一部では形と意味の有縁性が顔を出すことはあります。日本語だとオノマトペが有名ですが、音象徴論とか最近結構盛ん…なのかな。
*5:交通標識などを考えるとわかると思いますが、恣意性は記号そのものの一般的性質ではありません。
*6:生成文法でやっていようがanti-lexicalismのモデルだろうがこういう情報を蓄えておく部門は絶対必要です
*7:論理が分かる人なら問題無いと思いますが、もちろんここまでの議論は「心の持ちようが水の物理的状態に影響を与える」という主張に対する何の肯定的な根拠にもなりません
*8:音素の心理的実在性などが問題になってくると思うので
*9:実際に実験音声学では連続的に変化する音を聞かせて、被験者がどのポイントで音が変わったと感じるかを調べるような研究などがあります
*10:もちろん様々な違いはありますし、人間がそれを認識することもできます。