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水に答えを聞く前に

 僕が「水は答えを知っている」「水からの伝言」「水伝」といったようなタイトルに代表されるようなニセ科学の言説に対して、純粋に言語学的観点からのみ反論を試みた以下のエントリを書いてから、ちょうど三ヶ月ぐらいになります。

 幸いこんな辺境のブログの一エントリにも関わらず色々なところで取り上げてもらい、それなりの数の方々に読んでもらえたようです。
 この頃は「もうネットではこの話題も大分下火なんじゃないかなあ…」と思いながら書いていたのですけど、どうやらなかなかそうでもないらしい。poohさんのところや、TAKESANさんのところでも定期的に、今でもこの説に対して肯定的な記事が取り上げられたりする。
 というわけで、poohさんのブログでこんなエントリが上がったのも良い機会だと思うので、もう一度簡単に僕の上の記事の位置づけを自分なりに書いておきたいと思います。上に挙げた元の記事はわかりやすさを最重要視したために、かなり長くて頑張って読むもの、になってしまっているような気もしますし。
 僕が提出した水伝への言語学的反論は、それまでに提示されてきた(主に自然科学の観点からの)種々の反論に新しく一つ問題点が付け加わった、ということより、もう少し強い意味を持っていると考えています。
 僕が提出した水伝が越えなければならないハードル(問題点)は、

  1. 発話の解釈の文脈依存性
  2. 言語記号の(形と意味の結びつきの)恣意性
  3. 言語記号の離散的性質とその認識(追記で書きました)

 の三つでしたが、僕の主張は、

  • これらの問題点を克服できなければ、水伝はそもそも具体的な実験というステップへ進むことすらできない

ということなのですよ。あるいは無理やり実験をしてみて(それが水伝オリジナルのいい加減なものではなく、きちんとした科学的手続きに則ってデザインされたものでも)

  • もし水に声をかけることなどによって、水の性質に変化が起こったことが確認されたとしても、それが言葉の意味によるものであるとは言えない。

 と言い換えてもいいかもしれません。
 これは僕の論だけでなく、朴斎先生の水に芸術はわからないなどについても成り立ちます。まず、自然科学的な議論や分析に移る前に簡単な思考実験でさくっと却下されるはずのものなのです。
 ですから、水伝を科学として成り立たせたい方々は科学者は頭が固い、とか権威主義的だ、とか実験もせずに云々…とかいう反論?を頑張って考える前に、上に挙げたハードルをきちんと越えてみてほしいと思います。まあもし幸運にも僕のエントリに出会って、かつきちんと読んでくれれば、ですが。