※この記事はちょっとした感想というか愚痴です。しかもまとまってませんorz特定の言説を取り上げずにこういうこと書くのはあまり良くないことなのかもしれませんが…そのうち詳しく書きたいとは思いっています。金谷氏批判にもニセ科学批判にも(多分)つながる面白いテーマですし。
あと、言語学(者)にも色んな立場の人がいるので、ここから先は僕の現在の見解、ということで。
僕が昔から、そして今でも気になるのが、web上はもちろん、新聞の社説、書籍なども含めてあらゆる場面で頻繁に出てくる次のような形をした主張です。
- 〜語は〜という性質を持っているので、〜語を話す人々(主に母語話者)は〜という性質、あるいは文化を持っている(に違いない)。
問題はこの形の言説が、「〜」に入る内容によってものすごく自然な内容のものからトンデモな内容まで幅広いということなのですよね。
例えば、
- 日本語*1には魚介類に関する語彙が豊富にあるので、(かつての)日本語を話す人々は魚介類に深く関わる文化を有しているに違いない。
ってのは結構自然だと思いますが、では次のような主張はどうでしょう。
- 英語は単文内における意味構造の合成が(比較的)自由にできるという性質を持っている。従って、英語を話す人々は発想が自由で想像力豊かだ。
これ、血液型性格判断の議論になじみのある方などはその怪しさにすぐ気付くと思います。「発想が自由で想像力豊か」というのをどう判断するの?というところが問題ですよね。
でも、意外とこの手の「怪しい方の」主張も結構至る所で見かけるのですよね。しかも言語の専門家が結構そういうこと言ったりすることもあって…金谷氏の著書に出てくる英語の主語の性質とアメリカ文化を関連付けての批判なんか、その一例なんじゃないかと思っています。
僕はこの手の主張を議論する場合には、その内容と強さに十分気をつけないと、水伝の問題の一つである、「道徳の根拠を科学に求めようとする」というものと同じ過ちを犯してしまう危険性が高いのではないかと思うのですよね。「(科学としての)言語学をある文化論の主張の根拠にする」というのは時に危険になりえると思います。
こういった主張が陥りやすい議論展開上の問題点についてもいくつかニセ科学問題を考える上で重要な共通点があるように思います。まず一つは
- 「関連があること」と因果関係の混同
です*2。例えば、
- 「日本語には述べ方を曖昧にする表現が多い」という言語事実と、「日本人は物事を曖昧に表現することを好む」という文化には関係がある。
- 「日本語には述べ方を曖昧にする表現が多い」ので、「日本人は物事を曖昧に表現することを好む」という文化を持っている。
という二つの命題はその主張の強さが違うわけですが、一足飛びに2のような結論を持ち出すことがよく見受けられます*3。
次に、因果関係を逆にしてしまう(あるいは逆であることを区別しない)論理展開もたまに見かけますね。これはどちらかというと論理学の条件法の誤謬の問題なんでしょうけど。もう一度上の例を使って例示すると、
- 「日本人は物事を曖昧に表現することを好む」という文化を持っていたので、「述べ方を曖昧にする表現」が発達した。
- 「日本語には述べ方を曖昧にする表現が多い」ので、「日本人は物事を曖昧に表現することを好む」という文化を持っている。
この二つの主張は別物だ、ということです。
本来まだ言語学的に論証できそうなのは1の方の主張なのですが、1と2を区別しなかったり、1から2を引き出してしまうような議論をたまに見かけます。
で、僕が言いたいのはこういった主張はトンデモだからやめろ、ということではなくて、
- 言語事実の検証までは言語学でできるけれども、そこから文化や人々の性質といったものとの関連性を「学問として」見出そうとすると途端に難易度が上がるので、そういった主張に対してはその内容や論理に十分気をつけてください。
ということです。根拠になる言語事実がいかに有名な言語学者が論証した確実なものであったとしても、それはその言語事実を根拠にした推論の正しさを保証はしません。
…うーむ、やはり議論が拡散してしまったかなあ。今回は論じようとする対象も発信したい相手もほぼ不特定なのですが、やりにくかったですね。
個人的には、言語学に絡んでくる変な言説と自然科学系のニセ科学にも色々似ているところがあるのでそこを書ければ面白いなと思っているのですが、この論点を独立させて書けるのはもう少し議論が進んでからかなあ。あとは「サピア・ウォーフの仮説」で検索して飛んでくる人が結構多いというのも気になったりしています。
とりあえず今は雑記レベルということで。