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歯切れが悪いのは仕様です。

言語学的自然主義の誤謬

 以下のブクマコメントでちょっと言い足りないと思ったのでちょっとだけ補足…って思ってたけど結局長くなったorz

 自然主義の誤謬はとりあえずwikipediaでも貼っておきますか。少し詳しい、っていうか専門的過ぎるかな。なじみの無い方ははてなのキーワードも見てみてください。

 言葉(日本語)に関する「正しい/正しくない/乱れなんてない/...」論争は自分の狭い観測範囲の中では(さえ?)よく見かけますが、とりあえず国語学/日本語学/言語学の知見や研究成果を持ち出してきて、ある言語表現の「正しさ/美しさ」への理由付けや正当化をしようとするのは、言葉に関する自然主義の誤謬の一種なんじゃないかなあ、って前から思ってるんですよね。
 これには反論する方もちょっと注意が必要で。例えば、「ら抜き言葉の出現は合理的な変化である」という研究は確かにありますが、これは「ら抜き言葉の出現にはメカニズムや規則性なんてない」というような考え方への反論であって、「合理的」というのはまさに「理」がある、という程の意味で用いられます。ここで「合理的であるから「乱れ」ではない」なんてところまでロジックを進めてしまうと、やっぱりそこに価値判断が入り込んでしまっているような気が*1
 確かに専門家は「〜って乱れ/誤用なんじゃない?」という疑問に対して、「いや、そこにもきちんとした規則性があるんです≒合理的な表現なんです」というような答えを返すことがあります。でもそれは「「乱れ/誤用」=理由の無い単なる間違い」というところに反論してるだけなんですよね。決してその表現の「正しさ」や「美しさ」を保証しているわけではない。この辺りは研究者であれば結構当たり前のことなので話をすっ飛ばしてしまっていて、誤解を受けていることなんかがあるかもしれません。ここで「合理的」に「良い/正しい/美しい」という意味づけをしてしまうのは、進化論の話で「進化」と「進歩」をごっちゃにしてしまうようなものなんじゃないかなあ、と。
 ここで覚えておいてもらえると嬉しいのは、だからといって言葉の研究者が言語表現に対する価値判断を行わないかといったら、そんなことは無い、ということですね。例えば僕だって美しいと感じる言葉もあれば、好みの表現、聞きたくない表現だってあります*2。ただ、言葉の科学に携わっている人たちはそれがいかなる研究成果によっても一般的には正当化されないことを自覚している、ということですね*3。もちろん研究者によっては本当に全ての言語表現に対して全く価値判断を行わないと言う人もいるかもしれませんし、専門家としての発言力を考慮して、その辺りのことに言及しないというスタンスを選択している人もいるかもしれません*4
 あと、「言葉を使うプロ」と「言葉を分析するプロ」は別物、と書きましたが、もちろん両方プロフェッショナルな方もいます*5。研究者だって、分析した結果を人に伝えなくてはならないわけですし。ただ、僕の浅〜い経験の中を探した限りでは、「使うプロ」の方の”自己流の”分析で専門分野の知見をおびやかすようなものは見たこと無いですねえ*6。もちろん、いわゆる在野の研究者で面白いことを言う人も見かけますが、そういう人は専門の論文や書籍にもきちんと目を通してますね。また、昨今の日本語関係のテレビ番組のおかげで変なイメージが付いてるかもしれませんが、「(言葉についての)モノ知り」ってのは研究者の副次的な性質であって、本質ではないですよ。言い表すのが難しいんですが、「モノ知りになるため(だけ)に研究している」のではなくて、「研究した結果としてモノ知りになった」というか…*7
 進化論でさえこの現代において様々な誤解を受け自然主義の誤謬に陥る人も後を絶たないことと、言語学(言語の研究)のマイナーさを合わせて考えると、言葉(への価値判断)についての認識の状況ってのは結構良い感じなのではないか、とさえ思ったりしています。

*1:ま、「乱れ」をきちんと定義するならまた話は別ですが。

*2:まあ新しい表現に出会った場合は何より好奇心が勝る、ということはあります。

*3:個人的な信念を持っている人はいるかもしれません。

*4:たまーにややこしい発言をする(自称)専門家もいるんですけどね…

*5:僕は使う方はあまり上手くないと思っています。

*6:直感、センス、のようなレベルで「すごい」と思うのはたまにあります。ただ、「分析」にするには色々技術が必要なので…

*7:ただこの辺りの話は「知識」の定義しだいかなあ。