誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

ゆる言語学ラジオさんとの金谷武洋氏をめぐるやりとりについてちょっとだけ

はじめに

「ゆる言語学ラジオ」というYouTubeのチャンネルに金谷武洋氏を肯定的に紹介している動画があります(紹介が目的ではないので直接リンクをはることはしません)。

金谷武洋氏の著書の内容には専門的に見ていろいろ問題があり,以前いくつか批判記事を書きました。

dlit.hatenadiary.com

さいきん金谷氏がそこまで集中的に話題になっているのを見ていなかったことと,動画がけっこう話題になった(ている)ので最初の感想は「参ったな」というのが正直なところでまず嘆くようなツイートをしました。

ただこのあとゆる言語学ラジオの方からリアクションがありまして(このツイートにも直接リプライが付いています),いくつかやりとりをしました。上のツイートは見たけれどもその後のやりとりについては見ていないという人もいるようなので,この問題に対する私のさいきんのスタンスと合わせて少しまとめておきます

批判の対象

これもゆる言語学ラジオさんに伝えてありますが,私は今回のことについて何かしてほしい(たとえば動画を修正するとか)ということは特に希望していません

ここで紹介している2つのツイートとそのリプライ群がゆる言語学ラジオさんとの直接のやりとりです。この件について私が怒っているという印象を持っている方はぜひツイートを通して見てみて下さい

時系列で見るとゆる言語学ラジオさんの後悔のツイートを受けて私が矛をおさめたように見えるかもしれませんが,元々直接批判する意図はなかったのです。そのために最初のツイートも直接言及していないのですが,結果としてはエアリプのようになってしまいかえって良くなかったかなというのはあります。

厳密にはプロの研究者だけでなく「知識人」「有識者」のように扱われる人たちも批判することはあって場合によっては線引きが難しいこともありますし,内容なども考慮に入れるので絶対ということもないのですが,プロの研究者ではない人を批判対象にすることは基本的に避けています。

私が金谷武洋氏の著作を批判するのは私が専門・生業にしている言語学・日本語学の研究にとって「営業妨害」だと考えているからで,プロの研究者ではない人をwebのような場で直接(プロにするように)批判するのは営業活動としてデメリットが大きいかなというのがここ10年くらいの実感です。ただやはり専門的に見てよろしくない情報が増えたり拡散されたりするのは防ぎたいので違う形での言及を考えることはあります(ただこれが難しい)。

簡単に言うと,あくまで問題なのは金谷武洋氏の著作だということですね。一番上で紹介した記事群を補強するというようなことは少し考えています。

ここまで読んで「なんだよ,お前もっと荒ぶってたじゃねーかよ」と思う方もいるかもしれません。それはその通りで今でもときどき荒ぶることがないでもないのですが,いろいろ経験して考えも変わりましたし,何より自分の社会的な位置付けが変わってしまいました。簡単に言えば,金谷氏の批判記事の多くは私が大学院生の時に書いたもので,今は大学教員だということです。ここさいきん人文社会系の研究者に対する待遇や評価であまり良いニュースはありませんが,それでもプロの研究者・大学教員であることの権力や権威とは慎重に付き合いたいということがあります。

プロの研究者でも…

確かにゆる言語学ラジオさんが公開している動画の内容にはいろいろ補足をしたくなるようなところもあるのですが,私がこれまでwebで触れてきた「言語学」や「日本語文法」に関する文章や動画を思い出すと別に取り立ててひどいということはないというか「おお良いじゃん」と思うようなところもあるのです。

たとえば「うなぎ文」。ある程度専門的に詳しい人が言及している場合を除けば,うなぎ文に言及する時にちゃんと奥津敬一郎『「ボクハウナギダ」の文法』が紹介されているだけでも感涙物ですよ。大げさと思われるかもしれませんが,まあ私がいろいろ見過ぎてしまっただけかもしれません。もちろん別に専門的な文献を参照しないと言語や日本語についてあれこれ言ってはいけないということはまったくないのですけれども,だいたいのことはこういう基本的な文献に書いてあったりするのですよね(たとえば日本語以外の言語でどうかとか)。

だいたい,他分野の専門家,プロの研究者でも言語学や日本語学の文献や成果を参照・尊重しない人いますからね。ちなみに,私の体感で言うとこれは人文系とか理工系とかいう大まかな区別にあまり関係ありません。自分の専門があって先行研究の重要さが分かっているような人でも(よく知らない)ほかの分野についてそういう適当な扱いをしてしまうのですから,プロの研究者や専門家でない人が特定の分野を尊重しないことがあっても不思議ではなくなってしまいました。これはさすがにwebではダメな例が可視化されやすいところが大きいんだと思いたいところですが実態はどうなんでしょうか。

自分も…

いろいろ偉そうなことを書いてきましたが,自分だってブログの記事やTwitterでの発言で誤ったこと,適当なこと,雑なことを書いてしまい,指摘を受けて修正したりということはありますし(こういう指摘には大変感謝しています),専門でない分野のことについて何か書いたことに対して専門家の方が苦々しく思っているということがけっこうあるかもしれません。

また,授業の内容についてもそのトピックの専門的な水準から言うとよろしくないことを言ってしまって後で修正したり,さいきんの研究の進展が反映されていなくて後で補足したりということもたまにあります。

対談でフリートークのような形の怖さみたいなものもあって,私もああいう形でやったら自分のかなり専門のトピックでも不正確だったり言い過ぎだったりということを話してしまうかもしれません。専門家が対談形式みたいなやつで言い過ぎちゃうケースってYouTubeが出てくる前からありましたよね。

おわりに:専門的なことはどれくらい求められているか?

特にまとめというわけでもないのですが,専門的な知見や知識がどれくらい求められているのかなあということに懐疑的になることもあります。特に言葉,言語に関してはむしろ専門的なものにとらわれずに気楽に語りたい,考えたいという人がほとんどだとしても特に驚きはありません。専門家としては専門的な知識や方法論をベースにするからこそ味わえる楽しさというものがあるということも知ってほしい,触れてほしいとどうしても思っちゃいますけどね。

たとえば,「ん」の音の話とか「を」の音の話とか定期的にwebで話題になっていますが,そこで不思議がられていたりすることの多くは日本語学や音声学の入門書に出てきます。専門的な文献ではなくて,大学の学部1年生が受ける「日本語学概論」といった授業で教科書に使うような本にです。でもそんな情報を求めている人は実はぜんぜんいないのかもしれない。ただ読書案内を書いているとときどき参考になったという声もいただきますので,さいきんは1万に1人くらいのペースで助けになることがあると良いなと思って書いています。これでも望みすぎなのかもしれません。