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歯切れが悪いのは仕様です。

(謝罪)会見は何のために行われる/必要とされるのか

小山田圭吾氏の件について自分が書けそうなことは特に思いつかず,むしろ東京オリンピック・パラリンピックのほかのことについて何かと思っていました。ただそんな中で下記の記事にも出てきている「会見をした方が良い」という意見をいくつか目にして気になったので,この件に限らず以前からもやもやしていた会見の目的や必要性について少しだけ書いておきます。

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先に簡単に書いておくと,特に今回のようなケースについては会見という形はあまり良くないんじゃないかなと考えています。

目的は何?

一口に会見と言っても(さらに謝罪会見に話を限ったとしても)その目的や背景の事情は様々なのだろう,ということはまず前提としておいて。

たとえば今回小山田氏が謝罪会見をするとするならば,誰に対して何を謝るのでしょう。もしほんとうに謝罪を目的に会見をするならば,まず被害者(+何らかの形で関わった人とか?)に対してであって会見のような場を介する必要性がよく分かりません。

ムカついている人がたくさんいるので顔を出して話すのを見ることですっきりしたいというようなことだったら私はそういう場を設けることには賛成しません。ただ,これについては会見を開く側にも,もし数時間のつらい場を耐えることで「許された」となるならその後長い時間をかけて説明などをしていくより良いと考える人もいるのかもしれません。

あとは,一般的な基準よりも多くの人に対して影響力のある人が障害者に対する暴力に対して肯定的に言及していたというケースなので,それをはっきり否定するというような目的などがあり得そうです。

リアルタイムでの応答の難しさ

(それまで顔を出していなかった人が)ただ顔を見せることで少し気持ちが落ち着くということはあるのかもしれません。メールのやりとりでちょっととげとげしい感じになっていたところ,会って話すと思ったよりやんわり話せた,というような経験がある人もいるのではないでしょうか。

ただ,そういうことを考慮しても私は「リアルタイムで応答することの難しさ」を,特にこういうネガティブな話題の場合は深刻に考えた方が良いのではないかと思うことが多くて。

私は研究者ということもあって質疑応答みたいなリアルタイムでのやりとりが割と身近にある方だと思います。ある程度経験を積んでそれなりに慣れたとは言え,リアルタイムでのコミュニケーションって難しいですよ。余計なこと,正確ではないことを言ってしまったとか,表現が適切ではなかったということも珍しくなく,その場で気付けばすぐに修正できる機会があることもありますけれども,時間がなかったり,後で気付く場合も。思ってもなかったようなことをつい言っちゃったっていう経験,皆さんもありませんか。あ,私はそういうものこそが「本音」だっていう考え方は好きではありません。

言語学の授業で話しことばと書きことばの特徴について説明するとき,対面会話は格ゲーみたいなものという比喩を使うことがあります(ゲームの比喩自体がどうなんだという問題はあります)。なんか手を出してこないなと思って攻撃したら相手も動いて相打ちになったりとか。ゲームをする人に限っても,みんながみんな格ゲー得意なわけではないような。

会見の後ってだいたい質問の時間がありますよね。ネガティブな話題に関してリアルタイムでの質疑応答をやるのってちょっとした失言を狙うような「吊し上げ」的な場や,逆に答える側が失言などを気にしすぎてよく分からない応答に終始してしまう場につながりやすいというようなことはないのでしょうか。

もちろん中には誠実な,真摯な応答が行われることでその会見を見聞きする人の理解が進むというようなケースもあるのでしょうけれど。

会見に「追い込まれる」こと

今回のケースは今後どのような展開になるか分かりませんけれども,あまり詳しくない,具体的でない,あるいは誠実でない見解や声明,釈明などを文書を出したために最終的に会見をしなければならなくなるって,追い込まれちゃってるよなあと思うのです。

テキストだってもちろん難しいポイントは色々あります。ただ,テキストの場合かなり詳しい情報を盛り込めますし,何より作成に時間がかけられます(リアルタイムで産出しなくても良い)。読む方もある程度時間がかかるので,落ち着く機会があると思うのですよね。

テキストでうまく丁寧に説明できなかったことが,リアルタイムでの説明ややりとりでなんとかできるものなのでしょうか。顔を出して話す方がうまく伝えられるなら最初からそれでやれば良いような。

ただ最初の方に書いたように,内容がどのようなものになっても数時間耐えることで許してもらうことが目的なら,会見という選択肢もあるのかもしれません。

おまけ

というようなことを考えてしまって,今回のケースに限らず会見を求めたいと思うことがほとんどありませんし,また実際の会見を見た後でも「なんか誤魔化されたな」というようなネガティブな印象が残ることが多いです。

もうなんか色々記事など出ていて私自身が今回の件について特に知りたいことというのは思い浮かばないのですけれど,「90年代のサブカル周辺にはあれが許容されるような一面があった」と言われることについてどれくらい本当なのか色んな人が具体的に書いておいた方が良いんじゃないかということは思います(すでに記述があるなら本の紹介などでも)。私自身はあまりその方面に詳しくないからなのかイメージや思い出がなくて。90年代って10代だったということもあるかな。

ここ数年,あれほど自他共にひどい場だと認識されていた2chを美化するような語りを見ることが継続的にあり,実際に体験した人が(たとえ少し時間が経った後でも)記録や記述を残しておくというのは重要だなと思わされます。