はじめに
教員という仕事では自分の「先生」と同僚になることがあり、特に最初の頃はどうも落ち着かない感覚がありました。私は卒業・修了した大学で働くことになりましたので、なおさらです。
2021年度、卒業論文から修士論文、博士論文まですべての学位論文で指導をいただいた竹沢幸一先生が定年退職されます。ここでは少し思い出話など書いてみます。あくまでも私の思い出であって、竹沢先生の紹介をするわけではありませんのでその点はご注意ください。
竹沢先生の研究について触れてみたいという方は検索すればいろいろ出てきますが、先生の還暦を機に刊行された論文集がありますのでよろしければどうぞ(宣伝)。
以下、キーワードとして「記述」と「理論」が出てきます。この用語はけっこうやっかいで、言語研究に限定したとしても主に向き合っている言語や枠組み、研究手法が違うとそもそも指している範囲が違ったりするということもあり、またそもそもそんな簡単に分けて良いのという問題もありそうですが、今回はあくまで思い出話ということで「ふわっと」書きました。ご容赦ください。
竹沢先生との関係と生成文法
あんな書き出しにしておいてちょっとずるいんですが、私は学部から大学院まで竹沢先生が主指導教員・主査だったことはありません。修士論文、博士論文では副査をしてもらうことができました。また卒業論文でも形式上は副査ではなかったと思うのですが、ゼミで発表させてもらったり、論文の内容にアドバイスをもらうことはできました。
ただ私の主指導教員(沼田善子先生)は生成言語学(いわゆる生成文法)が専門というわけではなく、生成言語学、特に統語論については竹沢先生の影響を強く受けているのではないかと思います。
今は自分の専門の1つに生成言語学を挙げている私ですが、生成言語学との出会いはあまりすっきりしたものではありません。学部1年生の時に竹沢先生の授業で生成言語学のイントロに触れて感銘を受け…ということはなく、そういう友人を見ながら自分はよく分かっていませんでした。納得がいかないとかではなく、ほんとに理解できていなかったと思います。
そもそも学部1年の時は言語学概論もよく分かりませんでしたし、坪井美樹先生の日本語史の成績は惨憺たるものでしたし、言語関係の授業で成績が良かったのは石田敏子先生の日本語教育概論くらいでした。元々は言語よりどちらかというと歴史の方に興味があったのですよね(言い訳)。筑波大学の日本語・日本文化学類に入っておきながら入学後に「日本語教育」「日本語教師」の存在を知ったという不届き者でもありました。
なお、私の卒業論文では生成統語論を使っておらず、自分で分析に使うようになったのは修士論文以降なんですが、竹沢先生は学部の授業、ゼミとはまた別に当時卒業論文に取り組んでいた数名の学生向けに特別の授業のようなものをしてくれました。内容は宮川繁氏の Restructuring in Japanese という論文を読むもので、おもしろかったこともあり今でも印象に残っています。当時も「親切な先生だ」くらいの印象はありましたが、教員になった今はすごくありがたいことだったんだなということがよく分かります。
なんとなく学部生の頃から生成統語論が自分には良いんじゃないかというのはあって、今でも良く覚えているのは、学部3年か4年の頃に竹沢先生の授業で読んでいた『格と語順と統語構造』の方が、並行して自分で読んでいた工藤真由美『アスペクト・テンス体系とテクスト』よりなんか分かりやすかったのですよね。
特に『アスペクト・テンス体系とテクスト』がなかなか理解できなかったのは当時かなりショックで、すでに大学院進学を希望していましたが日本語学(の文法研究)は自分には無理なんじゃないかと心配になりました。その後いろいろ勉強したからか大学院ではいつの間にかある程度分かるようになっていたので良かったです。まあ授業で解説されるのと自分で読むのの違いもあったのかもしれません。
竹沢先生の研究会
竹沢先生にそれぞれの学位論文や個別の論文で指導や助言をいただいたのはもちろん大きかったのですが、研究者として大きな財産だと思うのは、先生が主催の研究会に大学院生の頃ずっと(+終了後も時々)参加させてもらえたことです。
ただ別に私が特別というわけではなく、広く統語論や文法研究に興味のある院生が参加する研究会で、所属にも特に制限はなかったのではないかと思います。先生の還暦記念の際に知ったのですが昔からそういうスタイルだったようで、歴代の参加者には今研究者として活躍している人も多いです。特定の名前があるわけではなく、少なくとも私が院生の頃は「竹沢先生の研究会」と呼んでいました。
やり方は誰かが自分の研究内容について発表し参加者で議論するというオーソドックスなものでした。下に書くこととも関わるのですけれども、研究会での先生の姿勢でよく覚えているのが、言語現象の観察、記述、整理、吟味といった過程にとにかく丁寧に付き合うということでした。発表者がどのような理論、枠組みを使うかということには関係なく。データを大切にするっていう書いてみると当たり前のことなんですが、実際に具体的に実行するとなるとこれがけっこう難しくて。発表者としては厳しく感じることもあり、ほぼ毎回自分がデータを見る目が甘かったと反省することが多かったです。また同時にこれはやはりとてもありがたいことで、新しい発見や自覚していなかった自分の研究の可能性に気付くということもありました。
なお筑波大の大学院ではほかに加賀信広先生、柳田優子先生、鷲尾龍一先生の授業で生成言語学に触れましたが、言語現象の記述の大切さは文脈や表現は違えど強調されていたように記憶しています。理論を取り扱うからこそっていう前提があったのかもしれませんが。
記述と理論、例文
竹沢先生の教えというか助言で一番印象に残っているものは「例文を見ていくだけで(説明がなくても)議論の流れが分かるように例文を出すようにする(と良い)」というもので、目指してはいるもののなかなかうまくできないことが多いです。
ちなみに下記の論文集に書いた私の研究上の信念の1つ「良い理論は良い記述を生み出し、良い記述は良い理論を生み出す」というのは間違いなく竹沢先生との研究上のやりとりを続ける中で生まれたものです。
国文法や日本語学と呼ばれる領域から言語研究に興味を持った人が生成統語論に関わるのは(少なくとも私が大学院に進んだ20年前よりは)だんだん難しくなってきているのかなという実感があります。そのような状況の中で言語研究における記述と理論(と)の付き合い方をどうするのかということについては引き続き取り組み続けたいと思います。
おわりに
お世話になったことを挙げるとほかにもいろいろ出てきます。個人的にはUMassでのvisitingがけっこうすんなり受け入れられたのも竹沢先生の推薦状のおかげもあったのかなとか。
結局いろいろじっくり研究の話ができたのは大学院生時代で、教員になってからは同じ大学に所属していてもなかなかそういう機会を持てなかったような気がします。さいきんの大学の状況ではどうしようもない感もあるものの、残念です。