誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

若手(研究者)だった時に考えていた「若手の会」や学会のこと

 今年,40歳になります。

 科研費の「若手研究」における「若手」の定義は「39歳以下」から「博士の学位取得後8年未満」に変更されましたが,

www.jsps.go.jp

もうどちらの基準でも若手ではなくなります。というか,実はこの3月で博士号取得からちょうど10年になるなのでこんな記事を書こうかと思い立ちました。それ以外のいろいろな基準でも他の研究者からの印象としてもあまり「若手」ではなくなってきたという実感もあります(院生の頃から態度が偉そうと言われたことは何度かあります)。人文系の研究分野だと50や60になっても「若い」扱いされるというような話もあるのですがそれはおいておいて。

 ちなみに,いろいろ問題はあるでしょうが科研費のように年齢ではなく研究のキャリアによって「若手」の基準にするというのは良い考えだと思います。

 研究や教育に関することはTwitterなんかで多くの人が書いていると思うので,この記事では「若手の会」と学会のことについて少し書いて記録しておこうと思います。

 なお,私の専門分野は言語学で,ふだんはだいたい以下のようなことをやっている大学教員・研究者です。

dlit.hatenablog.com

「若手の会」の必要性と実現の難しさ

 さいきんはすっかり怠けてしまっているのですが,自然言語処理や哲学の若手研究者の方々との交流の中で,「言語学には「若手の会」」はないの?と聞かれたことが何度かあります。

 私は主に2つの理由から,言語学にも「若手の会」があった方が良いのではないかとしばらくの間考えていました。考えたり調べたりしている中でいろいろ難しさも出てきて実際ほとんど行動には移しませんでしたしそうこうしているうちに若手ではなくなりつつありますが,何かの参考になれば幸いです。

 なお,研究会とか研究者同士の交流が足りないというような話とは違って,「制度」「仕組み」「組織」が意外と重要なのではという話として読んでもらえると嬉しいです。

他分野との交流

 上に書いたように,他の研究分野で「若手の会」が存在しているところはいろいろあるようで,もし言語学にも「若手の会」があると,規模の大きな交流や,合同イベントの開催などがやりやすいように思います。

 他の分野の方から言われたことで印象に残っていることはいろいろあるのですが,「言語学の若手の研究者と話をしてみたいんだけどどこに行けば会えるのか」というのはその1つです。「学会に行けば」と思われるかもしれませんが,日本言語学会にだってみんな行くわけではありませんしね。今ならTwiterで探せばそれなりに出てきそうですが素性は明らかにしていない人も多いですし。

 それでも,個人,あるいは少人数のグループの交流はそれなりに実現できそうですが,ある分野に所属する若手研究者同士が広く交流できる場というのがあるとまた何か面白いこともあるのではないかと。

 また,分野の違う○○学会を同時開催というのは厳しそうですが,若手の会の研究イベントを複数の分野で同時開催というのはまだ現実味があるのではないでしょうか。それでもYANSなんかは規模が大きくて厳しいのかもしれませんが…

学会運営に関わって

 もう1つのきっかけは,はじめて学会の仕事に関わって総務や編集といった委員会や学会全体の運営に関わるやりとり,会議に参加したことです。

 あまり具体的なことは書けませんが,いくつかの問題・議論を通して「学会に対して,その学会に関わっている若手の意見や要望をある程度まとめて伝える仕組みや組織が必要なのでは」と感じたのですよね。

 中堅・ベテランの研究者の方々は「ふだんの指導や研究交流でいろいろ話は聞いているし,学会でアンケートなんかもやっているではないか」と思われるかもしれませんが,若手が主体的に意見や要望を集めたり議論したりするという点が重要なのではないかと思います。あと,そういう個人的なやりとりや情報収集も大事だとは思うのですが,個人対個人だとどうしても権力的なギャップの影響が大きそうで(それに自覚的でない研究者もそんなに少なくない気がしますし)。

 ただ,目的を考えると,これは「若手の会」を組織しなくても実現できるのかもしれません。

難しさ

 他の分野の方に話を聞いてみると,当たり前なのですが運営はなかなか大変なようで。

 院生もポスドクも若手教員もそれぞれ忙しく(それこそまさに学会運営などにも忙殺されたり),ある程度の規模の「若手の会」を立ち上げ運営するとなると何人の犠牲者が必要になるのか…若手の会の存在によってブラックな環境が強化されてしまうのはなんか本末転倒な気もします。

 あと,他の分野でもそうかもしれないのですが,「言語学」と言ってもかなりカバー範囲が広いのでどれぐらいの規模の組織が必要,あるいはできるのか見当もつかないということも考えました。

 上にも書いたように,ほとんど情報収集の段階でなかば諦めてしまったような話なのですが,いつか同じようなことを考えた人の参考になるようなことがあれば良いなと思います。といっても読み返してみるとほとんど具体的なことは書けてませんね。

学会

 ところで,ちょっと(国内)学会多すぎませんか…

 もちろん,現在の学会ができるまでの歴史的経緯についてはそれこそ学会の仕事を通しても色々話を聞きましたし,研究発表の場や研究論文掲載誌がたくさんあるのは素晴らしいことなのですが,若手研究者・教員だけでなく中堅・ベテランの研究者・教員の方々もかなり大変なように見えます。あといわゆる学内学会もごにょごにょ

 どうも話を聞いていると他の人文系の分野でも学会運営で若手が大変という話はいろいろあるみたいですね。

 なかなか学会を減らすなんてことはできないでしょうから,うまくメリットを生かしながら運営で対応(たとえば研究大会の同時開催とか)できると良いのでしょうけれど,今はもうみんな忙しすぎてとにかくルーティンをこなすだけで精一杯なのではないかと感じます。

 偉そうなことを言っておきながら,さいきん私自身いろいろいっぱいいっぱいでなかなか学会に参加できていません。残念です。

おわりに

 別にブログでなくても良いのですが,「今の属性や環境で考えたこと」を記録しておくというのはけっこう面白いし,自分にとっても良いことだと思います。数年前に書いた記事を読むと,新しく気付かされることや今では考えが変わったこともいろいろあります。

 その意味で,この記事は実は以下の記事の続編なのですね。次の機会は何になるのでしょうか。

dlit.hatenadiary.com

「理論言語学」と「生成文法」の関係に関するメモ

はじめに

 まず,この記事は専門外の方への概説というよりは自分用の整理という性質がふだんの記事より強いです。言語学にある程度触れたことがないと論点がよく分からないと思いますがちゃんと書くのはたいへんな内容なのでご容赦下さい。

 下記の記事の中では,「理論言語学」は明らかにいわゆる「(Chomskyanの/狭義の)生成文法」を指していて(もうちょっと正確に書くと生成言語学の中の生成統語論),「認知言語学」と対比されています。

lennonmccartney122620.hatenablog.com

言語学の研究をやっていても,こういう文章を読んで「認知言語学は“理論”言語学に含まれないのか」という疑問を持つ方は少なくないのではないでしょうか。

 実は,この記事の前提とされている他の記事の一番最後に

認知言語学も理論言語学の下位範疇の1つであるが,ここでは筆者の意図で敢えて認知言語学と理論言語学を分けている.
理論言語学と認知言語学の大まかな共通点と相違点 - まーじブログ

という注記がありますので,筆者は「認知言語学は理論言語学に含まれない」というように考えている訳ではないと思います。

この用語法はふつうなの?

 私もいちおう専門の1つに生成文法は必ず挙げますし,大学のサイトのプロフィールに「理論言語学」と書いてある人間なのですが,「理論言語学」という表現で「(狭義の)生成文法」を指すという使い方はけっこう見かけます。

 ちなみに,私が(日本で)自分の専門として「理論言語学」を掲げているのにはそれとは別の理由があるのですがめんどうなのでまた別の機会に書くことにします。

 ちょうどさいきん手に入れた衣畑智秀(編) (2019)『基礎日本語学』に「理論的研究とは?」 という章があって関連することが書かれていますので紹介しておきます。ちなみにこの本まだ隅から隅まで目を通したわけではないのですがおすすめです(山東功氏の日本語学史の概説が読める!)。

基礎日本語学

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言語を対象とする理論的研究,あるいは科学的な方法論に基づくアプローチは,広い意味では少なくとも19世紀の比較言語学にまでそのルーツをたどることができるが,現代的な意味での理論言語学はノーム・チョムスキーが1950年代に提唱した生成文法に始まると考えてよい。
(中略)
言語に対する理論的研究は(中略)音声研究から語用論研究まで,言語の共時的側面のすべてに関して行われている。また,何をもって理論的研究と言うかも難しい問題であるが,とりあえず,自然科学における方法論として確立している仮説検証の手法に従った研究が理論的研究であると考えておく。
(窪田悠介 (2019)「理論的研究とは?」『基礎日本語学』: 260)

さらに,次のページの囲み記事に補足があります。

 仮説検証の手法に従った研究だけを理論言語学と呼ぶことに抵抗のある読者もいるかと思う。たとえばこの規定では認知言語学研究の大半が理論言語学から外れてしまうが,果たしてそれでよいのか?本章では「理論的研究」というものをあえて狭く規定するが,これはあくまでも話を単純化するための便宜的なものと考えていただきたい。
(窪田悠介 (2019)「理論的研究とは?」『基礎日本語学』: 261)

 仮説検証法を採用しているかどうかを「理論言語学」を呼ぶかどうかの基準にするというのはここでも窪田氏が「便宜的」と断っているようにスタンダードな考え方というわけではないと思います。「理論言語学」が「生成文法」と結びつきやすいのは,どちらかというと研究史的な要因の方が大きいというのが私の印象です。

 ちなみに,窪田氏自身が主に研究で用いる理論は範疇文法 (Categorial Grammar)と呼ばれるもので,この引用部の辺りにもはっきり書かれているのですが,窪田氏本人は生成文法研究に対してかなり厳しい評価をしています。どのような問題点があるかについても具体的に述べられていますので,(広い意味で)理論言語学に興味がある方は読んでみて下さい。

私見

 ところで,私はこの「理論言語学」という表現で「(狭義の)生成文法」を指すという用語法は個人的にはあまり好きではありません。

 上の窪田氏の引用箇所でも触れられているように,「言語学」に限っても様々な理論があります。これは言語学の研究者なら言われなくてもそんなの分かってるよというところでしょうが,表現や用語の使い方でもそれを明示的に尊重するという立場を取りたいと考えています。といっても私も徹底できていないところはあるのですが…

 また,たとえ仮説検証の採用とか形式的 (formal)かどうかというような基準で分類しようとしても,では範疇文法や形式意味論の各種理論はどうするのかとか,「生成文法」で区切ったとしてもHPSG (Head-driven Phrase Structure Grammar)やLFG (Lexical Functional Grammar)は?という問題が出てきます。もう今はHPSGやLFGの研究者自身も「生成文法とは呼ばないでいいよ」などと思っていたりするかもしれませんが。

 上と同様の理由で,「現代言語学」や「統語論」という用語で断りなく「(狭義の)生成文法」を指すような用語法も好きではありません。中には文脈を踏まえると問題ないこともありますが,個人的には「生成文法の研究者ってなんか偉そう」なんて言われる理由の一端ではないかと疑っています。

 これは邪推かもしれませんが,私の交友が少なくキャリアも浅い研究者人生でも,「生成文法の研究者は他の言語理論に対してリスペクトがない」というようなことを言われたことは少なくなく,個人でできる範囲ではそういうことがないようにしたいですね。

おわりに

 理論/モデル/枠組み(framework)の使い分けやいわゆる「記述的研究」との関係についても何か書きたかったのですが,力尽きましたのでこの辺りでこの記事は終わりにします。突然ですが,内容にどれぐらい賛同するかはおいておいて,Haspelmathの"framework-free grammatical theory"という用語の使い方はよく考えられているなと思います。

www.academia.edu

 ところで,私見のところを読むと苦言のようにも読めてしまうのですが,あくまで私の方針ということにご注意下さい。一番上で言及したブログのように,言語学のいろいろなトピック,領域に関する情報がもっとwebに増えると良いなと思います。

麻雀用語と民間語源,あるいは電話のアイコンのはなし

一般化した麻雀用語

 一般化した麻雀由来の表現が使われなくなりつつあるのかもしれない,そう思った最初のきっかけは授業で取り上げた例に出てきた正面に(座って)いる人を指す「トイメン」という表現を多くの学生が理解できないということに気付いたことだった。

 ある特定の領域で使用される表現の「意味」がより拡張され一般的にも使用されるようになるという現象は珍しくなく,日本語だと野球関係の表現に例が多い(「変化球」「代打」等)。麻雀由来の表現でも,「メンツ」「リーチ」や「テンパイ」から派生した「テンパる」等は今でも使われているだろう。

 しかし,使用されている表現でも麻雀由来だと知っている学生はどうもそれほど多くないようで,私の授業で聞いてみたところ「リーチ」は英語の"reach"から来ていると思っている学生がこれまで複数人確認されている。「もう少しで届くから」だと言う。なかなか良い線だと思う。他の教員から「テンパる」が英語の"temper"由来だと思っている学生がいたというエピソードを聞いたこともある。

 このように,(ほぼ)明らかに妥当ではない語源を指す用語として,言語学に「民間語源 (folk etymology)」という言い方がある。他に「民衆語源」「語源俗解」と言うこともあり,「学者」目線でやや傲慢な名付けに聞こえるかもしれない。「リーチ」の"reach"由来説を聞いた時はもしかしたら民間語源の成立に立ち会っているのかもしれないと思ってちょっと感動してしまった。

 このような現象の要因として麻雀そのものへのなじみ度が一般的に衰退したためということがあるのだろうか。

 ところが面白いことに,麻雀以外の特定の領域で表現が生き残っていることがある。スポーツのフォーメーションで正対する相手を指す用語として「トイメン」が使われることがようだ。あと,ゲーム関係だと偶然が絡むケースで目当てのものを引き当てた場合(さいきんの表現を使うと「ガチャ」的と言う感じだろうか)に「ツモった」と言うことがある。また,麻雀関係ではないが,現在「カップル」を指す表現としてはもうほぼ使われていないだろう「アベック」もスポーツ等の領域では「アベック優勝」というような表現が今も使用されている。「トイメン」と「アベック優勝」の例は学生の指摘によるもので,やはり授業はこういうことがあるからおもしろい。

 麻雀関係の用語は日本語学のトピックだと「(漢語ではない)中国語由来の外来語」を説明する時に便利なのだが,こちらは「マージャン」自体は知っている学生が多いし,料理関係に例が豊富なので(「ウーロン茶」「ギョーザ」等)それほど困ることはない。

電話のアイコン

 ある表現や記号の由来になったもの自体が古くなったり使われなくなったりしたのに表現や記号そのものは使われているものは言語以外にもいろいろあり,webだと「保存のアイコンとしてのフロッピーディスク」がもはや定番ネタと化した感さえある。

 私がさいきん気になっているのは「電話」を表すアイコンだ。一昔前は,いわゆる黒電話をベースにしたアイコンで良かったのだろうが,こどものおもちゃや教材に出てくる「電話」を指す絵や記号を見ているともうあまり使われることがないようで,登場する絵や記号は様々である。

 ちなみにLINEの絵文字などを見ても,受話器,いわゆるガラケー,黒電話,の複数のタイプが登録されており,現在「電話」を表す統一されたアイコンはないのではないかと思わせる。一般的には「スマホ」が一番身近なのだろうが,アイコン化しにくい形態ということも関係しているかもしれない。

 逆に,電話に関係して統一されたなと感じるものとして「着信音」がある。むかしは洋画を見ていてケータイの着信音が鳴ると「海外の機種だとこんなメロディなのか」と思ったものだが,iPhoneの登場とスマホの普及以降,洋画や海外ドラマで流れる着信音と電車や教室で聞こえてくる着信音が同じだということが珍しくなくなってしまったように思う。