誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

「「博士」生かせぬ日本企業」と人文社会系(文科省の資料メモ)

ちょっと前に下記の記事が話題になっていましたが,

www.nikkei.com

これを見た時に私が真っ先に思い出した文部科学省の発表した資料があります,下記の「2040年を見据えた大学院教育のあるべき姿 ~社会を先導する人材の育成に向けた体質改善の方策~」という長いタイトルがついた審議のまとめです。

www.mext.go.jp

これが公開になった際もwebではそれほど話題になっていなかったような記憶があるのですが,私も言及する機会を逸していましたので,少しだけ気になったところを紹介します。

人文系博士人材の雇用創出は日本では困難

上記の資料で具体的な改善方策を述べているところの項目の最後に「⑧人文・社会科学系大学院の課題とその在り方」というのがあります。「(本文)」となっている資料だと pp.46-52 です。

全体としては読む前に予想していたより慎重に議論しているなと感じました。個人的には「Society 5.0」がどうしてもあやしく感じてしまうのですが,人文社会系の分野がさまざなテーマ・分野とつながる可能性についても言及しています。

私が気になったのは,キャリアパスに関する言及の仕方です。下記の指摘の部分でまず「おお,その話題に触れるのか」と思いました。

個々の学問分野の専門的知識というレベルを超えて、人文・社会科学系大学院でこそ身に付く普遍的なスキル・リテラシーや幅広い能力を創出し、可視化していく努力や、社会のニーズに対応した新たなタイプの人材養成目的の模索・キャリアパスの開拓が引き続き求められる。
(中略)
その際、インテル社(アメリカ)、アディダス社(ドイツ)、レゴ社(デンマー ク)では、消費者の行動や思考、社会の潮流など、統計的手法を用いて一律に解析することが困難な現象について、人文・社会科学系の専門的知識や研究手法を用いて分析し、その結果を活用した経営を行うことで事業改善につなげている事例があるとされている 。こうした事例を、単なるペーパーワークにとどまらず、 企業の命運を左右する経営判断という重大な局面においても、人文・社会科学系のスキル・リテラシー等が重要な役割を果たしている好事例として、キャリアパスを考える上で参考とすべきである。
(p.49)

この話題に触れること自体は好ましく思ったのですが,次に私が予想したのは「大学ががんばってそういう雇用が創出されるようになんかがんばれ」という流れでした。では実際にどう書かれているかというと…

諸外国において、人文・社会科学系の博士課程修了者を含む高度な専門性を有する人材が多く養成され、様々なセクターで活用されている中で、国際的なプレゼンスを発揮するためには、我が国においてもそうした高度な専門性を有する人材の活用を進める必要があるが、現在のところ、大学以外における人文・社会科学系の博士課程修了者の専門性の活用事例はそれほど多く見られていない。今後は、経営判断等の重大な局面においても人文・社会科学系のスキル・リテラシー等を活用する企業等も、キャリアパスの一つとなることが期待されているものの、 当面は、大学における教員や研究者として、その専門性を活用していくことが大きなウェイトを占めると考えられる
(p.51,強調はdlit)

さすがに「企業側にも意識や制度の改革が求められる」みたいなことは言ってくれないだろうとは思っていたのですが,なんか急に「現実的」になってしまっている気がします。

好意的に捉えると冷静で地道な提言ということなんかもしれませんが,こういう資料では大学側に無茶振りされることも多いので,こういう資料ですら人文社会系の博士人材を日本の大学外で活かす道については希望を見出せないのだなと考えてしまいました。

ただこういう議論や資料を「へー」って眺めてると突然無茶振りの形になって大学とかに降ってきたりしますので,その都度誰かが言及して話題にしていると良いのではないかと思います。皆さん忙しすぎてなかなか時間はないと思いますが。

ノーベル(賞)受賞

下記の記事のタイトルを見て,

webronza.asahi.com

「ノーベル(賞)受賞」って「消費(税)増税」と表面的にはパターンが一緒だなと思いました。

「消費増税」についてはむかしちょっとだけ書いたことがあります。

dlit.hatenadiary.com

でも,「ノーベル」が「ノーベル賞」の意味で使われ(てい)る可能性は「消費(税)」よりだいぶ高そうな気がします。分析案としては,メトニミーとか短縮とかいくつか可能性がありそうですが。

ちょっと検索して見たら「ノーベル受賞者」という表現はそこそこ見つかりました。

書くこと自体に意味がある(少なくとも言語使用の記録として)

先に断っておくと,継続して文章を書くとそのうち良いことがあるというような話ではない。定期的に書いているが,私はブログもそんなに継続しなくてもよいと考えている。

dlit.hatenablog.com

さて,下記の記事の「意味はあるのか?」という問いに対しては,おそらく期待されていない答えだろうけれど,少なくとも言語資料として意味はあると言える。もう少し細かく言うと,web(ネット)に何か書くことはある時点で文字という媒体を通してどのように言語(ここでは日本語)が使われたかの記録になる

anond.hatelabo.jp

そう考えると,内容はなんでも良い。「正しい日本語かどうか」なんてことも気にしなくて良い。非常に専門的/マニアックなことでも,その分野特有の言い回しや略記等のデータとして貴重だし(辞書には載ることがないものも多いだろう),方言の話や方言そのものを文字で残しておくのも面白いと思う。上には気にしなくて良いと書いたが,知恵袋系のサービスに投稿される「○○っていう言い方は日本語としておかしいと思いませんか」のような質問も現代の言語生活や言語(使用)に対する意識の記録になる。

現代は,webの恩恵によって,おそらく最も多くのそして多様な人々が文字を使って言語を生み出している時代ではないかと思う。少し時代を遡ると,残されている文字言語の資料は書籍,新聞,雑誌といった,文字を書くことを生業にしている人々の手によるものが多くなる。

量だけでなく,プロの文章には校正・校閲のようなチェックの過程があることを考えると,webに何か書くことは,言語の使い手が生み出した文字言語が(ほぼ)そのままの形で記録されているということも多く,質的な面から見ても面白い。個人的には,コンピューターとwebの登場・発展は,文字言語の使用と記録にとって(印刷技術の登場と普及に次ぐぐらいの)1つの大きな転換点と言えるのではないかと考えている。

もっと時代を遡ると,もちろん文字言語・文字資料は印刷されているものでもなく書いている人も(現代的な意味での)プロというわけでもなく校正や校閲のような仕組みが整備されているわけではないが,今度は文字を操って言語を記録に残すことができる能力を持っているのが(知的エリート等に代表される)その社会の構成員の一部に限られてくるという点でやはり現代とは状況が大きく異なる。

一方で,現在膨大に蓄積されている貴重な言語のデータを今後どのように残すことができるかという課題はけっこう深刻ではないかと思う。下記の発表でも少し触れたように,

www.slideshare.net

デジタルデータは少なくとも現状では紙の資料と違って継続的に保持・継承することが求められるだろうから,しばらくは問題ないかもしれないけれど,実は今観察・記述・研究しておかないと思ったより早く手に入らなくなってしまうデータも多いように思う。webのデータはサービス(を提供している企業等)の動向に大きく左右されるので,比較的短期間で突然大量のデータが使用できなくなってしまうかもしれない。

私が授業等で例に挙げるのはケータイメールのデータで,活発に使用されるようになったのはまだ20年ぐらい前だが,もはや古典資料になっているとさえ言えるのではないか。なぜなら,もうあの文体・コミュニケーションスタイルでケータイメールを使う話者自体いなくなってしまって,おそらく復活はしないだろうから。コミュニケーションにおける役割は日本語ではLINEに引き継がれたが,ケータイメールとLINEに現れる言語には,さまざまな違いがあってサービスが変わっただけとはとても言えない。ケータイメールのデータは(LINEも基本的にそうだが)Twitterのデータなどと違ってオープンではないので記録自体難しかったという事情もある。

専門家の希望としていろいろ書いてみたけれど,ブログをある程度書き続けてきた経験から言っても何気なく書いたことが思ってもみない展開につながることもあったりしておもしろいし,できれば多くの人にwebでいろいろなことについて書いてみてほしい。繰り返しになるが,「正しい日本語かどうか」なんて気にしなくて良い(むしろ気にしないでほしい)。ただ,ことばを使う以上ミスコミュニケーションやトラブルに発展する可能性は常にあるということは忘れないでほしいし,「書かない」ということも1つの判断として尊重される社会であってほしい。